第9話 ストーカー、ストーカーを卒業する 1

 拓ちゃんは緊張した指先で302号室のインターホンを押した。

 頭の中は未だぐるぐるしていて、なにか考えなければいけないことがあるような気がするのに、思考は空回りしっぱなしだ。

 それでも、拓ちゃんはジュリアに会いたいと思ったから。

 だから、日頃ろくに持ち合わせのない「勇気」とやらを全身から総動員して、ジュリアの部屋の前に立ったのだ。

 ここ数週間で拓ちゃんは、少しだけ自分が変わったような気がしている。

 もしかしたらミジンコよりも小さなそれかもしれないが、たとえミジンコ以下だとしても、確かに心臓の下辺りに感じるのだ。

 ほんのちょっぴりの「自信」ってやつを。


 モニターを確認したらしいジュリアの、少し驚いたような「はーい」が聞こえる。

 拓ちゃんは待っている間どこを見ていればいいか分からず、ひたすらドアスコープを見つめていた。

 ガチャ、と内鍵を開ける軽い音がして、もう一度ガチャ、と今度は重い音がした。

 ゆっくりと玄関が開けられる。

 隙間から顔を出すようにして、ジュリアが現れた。

「拓ちゃん! お引っ越ししたのかと思ってた!」

「ああ、いや、あの、」

 驚いたような顔のジュリアに、やはりなんと声をかければいいのか分からない。

 たった今まで傍にいたはずの「勇気」も「自信」も、あっという間にどこかへ逃げて行ってしまった。

 拓ちゃんの頭のなかはずっとぐるぐるしたままだ。

 ジュリアと直接目を合わせることもできず、目線はずっとドアスコープの丸い穴。

 それでもなにかを言わねばなにも進まない。

 拓ちゃんは口が動くままに思いつく限りのことを喋った。

「最近ちょっと、あの、仕事を増やしまして、疲れて寝ていたので、その、……もし今まで声をかけてもらってたんだとしたら、気づくことができなくて、その……、すみません」

 ドアスコープに向かって喋る拓ちゃんを、ジュリアはきょとんとした顔で見ていた。

 それから、あとの言葉が続かなくなって挙動不審になっている拓ちゃんに向かって、悪戯っ子のような上目遣いで微笑む。

 横目でちらりと見たその笑顔に拓ちゃんは思わず天に昇ってしまいそうな気分になった。

 勇気を出して良かった。

 迷った末に、諦めることをしなくて良かった。

「そうだったんだね〜、知らなくてごめんね。はい、いらっしゃい」

 ジュリアがそう言ってドアを開けて招き入れてくれる。

 そこまで考えていなかった拓ちゃんは非常に迷ったけれども、ジュリアの

「大丈夫だよ、今日はリョウ、いないから」

という一言に後押しをされた右足が勝手に動き出してしまった。

「お邪魔します」

「はいどうぞー」

 ジュリアはふんわりとしたワンピースを着ていた。

 拓ちゃんが来たから慌てて着たのかもしれない。

 さっきモニター越しに見ていたときには下着姿だったし、以前アイスを持って行ったときの会話を覚えていてくれたに違いない。

 履き古したスニーカーを玄関で脱ぎ、部屋の中央に置かれたローテーブルの傍に正座をする。

 テレビの方向を向かないように斜めに座った。

 テレビの配線には、拓ちゃんが自分で仕掛けたカメラが隠れているから。

「拓ちゃんはコーヒー飲める人? インスタントしかないんだけど……、って、拓ちゃんは知ってるか」

 ジュリアが楽しそうにあははと笑いながら電気ポットに水を淹れる。

 拓ちゃんはその姿をぽかんとした顔で見ていた。

 ジュリアが拓ちゃんのためにインスタントコーヒーを淹れようとしてくれている。

 ジュリアの部屋のカップに注がれるインスタントコーヒー。

 目の前にどうぞと置かれたインスタントコーヒー。

 飲んでもいいのだろうか、このインスタントコーヒー。

 このカップに、く、口を、口を、つけてしまってもいいものだろうか。

 テーブルに置かれたインスタントコーヒーを緊張の面持ちで凝視していると、斜向かいになるように座ったジュリアが心配そうに拓ちゃんの顔を覗き込んできた。

「もしかしてコーヒー駄目だった?」

 拓ちゃんはその瞳にガッツリ心臓を鷲掴みにされて、慌てて大声で否定した。

「滅相もないです!! ありがとうございます!! いただきます!!」

 声の大きさとは裏腹に、そ、とカップを持ち上げる。

 拓ちゃんは生唾を飲み込んだ。

 これはジュリアがいつも使っているカップだ。

 この部屋に客用のものなんてろくにない。

 ジュリアがいつも使っているカップ。

 ジュリアがいつも口をつけているカップ。

 拓ちゃんは恐る恐る持ち上げて、ジュリアがいつもしているように、そのカップに口をつけた。

 ず、と一口すすると、ブラックコーヒーの湯気が鼻に、熱湯が口に流れ込んでくる。

 ぐるぐるしすぎた拓ちゃんの脳みそでは、インスタントコーヒーの味は何がなんだかもうよく分からなかった。

 ジュリアは拓ちゃんのその様を、テーブルに両肘をついて顎を支え、にこにこと眺めていた。

 その笑顔に、拓ちゃんはふっと冷静になって、ジュリアに尋ねる。

「あの、」

「なあに?」

「ぼくが自分で言うのもおかしいんですけど、」

「うん?」

「あの、気持ち悪くないんですか、ぼくのこと。その……、部屋を覗いたりしてしまって……、本当に申し訳無いと思ったりしているんですけど……」

 ごにょごにょ。

 拓ちゃんがうつむきがちに呟くからか、ジュリアは黙って拓ちゃんの消え入りそうな声を拾っていた。

 拓ちゃんだって、自分がしていることが悪いことなのは分かっているのだ。

 己が嫌悪の対象であることは分かっている。

 それなのに、ジュリアはそんな素振りを見せない。

 こんなふうに部屋に招き入れてくれて、インスタントコーヒーを淹れてくれて、自分に微笑みかけてくれる。

 おかしいじゃないか。

 弱みを握って笑顔で奴隷にでもするつもりだったりするのか。

 それはそれで喜んで受け入れるけれども。

 ジュリアは、拓ちゃんがまたしても黙ってしまったので、

「うーん、」

とわざとらしく唸った。

「えっとねぇ、」

「……、はい」

「隠れてこそこそするからいけないんじゃん?」

「はい?」

「隠れてこそこそするからいけないんだよ、ね! 拓ちゃん」

 拓ちゃんが顔を上げると、ジュリアは人差し指で拓ちゃんのおでこをツンとつついた。

「隠れてこそこそするからいけないの。普通に声をかけてくれたらいいじゃない。この間リョウと話してたときね、あたし拓ちゃんのことちゃーんと見てたんだけど、思ったんだよねぇ、この人きっと、そんな悪い人じゃない気がするなーって」

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