第15話 ストーカーは生まれ変わりたい 4
ゆたか。
ゆたか?
ゆたかって、ゆたかくんか!
拓ちゃんは瞬間的に記憶の海を泳いでその見つけた糸口を手繰り寄せた。
思い出した、この子はゆたかくんの彼女だ。
SNSを漁りまくっていたときに何度か写真を見た。
その時には「ジュリアのほうが可愛い」という感想しか抱かなかったのですっかり忘れていた。
名前は覚えていない。
ゆたかくんの彼女は目の前にいるジュリアをひっ叩いた興奮からか少し涙目になっている。
ジュリアは左頬を押さえて呆然としているし、ゆたかくんの彼女の友人らしいもうひとりの女性は突然のことに驚いているようだ。
拓ちゃんたちの傍にいた中年の女性も驚いてこちらを見ている。
拓ちゃんは焦った。
どうしていいのか分からないこの状況。
ゆたかくんの彼女は、平手打ちした右手を今度は握りしめて震わせながら、ジュリアに殴り掛かりそうな勢いで突っかかってきた。
「知ってんだよあんたのこと。ゆたか以外にも何人も何人も何人も相手してんだろこのヤリマンが!! わたしのゆたかに近づかないでよ!! あんたのせいでこっちはもう滅茶苦茶なんだよ!!」
涙で充血し始めた目を見開いてゆたかくんの彼女はジュリアに食ってかかった。
胸ぐらを掴みそうな勢いのゆたかくんの彼女を、もうひとりの女性が慌てて止めている。
拓ちゃんもなんとか間に入ってジュリアを守ろうと思ったが、如何せんどう間に入ればいいのか分からない。
すると拓ちゃんがおろおろしだす前に、ジュリアがすっと表情を変えて、それからゆたかくんの彼女に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい」
「は?」
ゆたかくんの彼女は、ジュリアが素直に謝ってきたことに少し動揺したのか、胸ぐらを掴もうとしていた手を止めた。
「ごめんなさい。あなたの気持ちを考えずに軽率なことをしてしまって。ゆたかくんとはもう会いません。連絡先も消します」
「謝って済むと思ってんの」
ゆたかくんの彼女の声は震えている。
「わたしが今までどんな気持ちでいたのかなんて分かんないんでしょ。だからそうやって謝れば済むと思ってる」
ジュリアはなにも言い返さなかった。
ただずっと頭を下げ続けるジュリアにゆたかくんの彼女は困ってきたのか、今度は拓ちゃんをきっと睨んできた。
「あんたも知ってんでしょう、この女がどんな女なのか。彼氏だか取り巻きだか知らないけど、ヤリマンなんだよこいつは。誰とでも寝るの。誰とでも。糞だわ。頭おかしい。病気うつされる前にあんたも別れたほうがいいんじゃないの。っていうか自分の女ならおまえがこいつなんとかしろや!!」
興奮からなのか元からそうなのか、ゆたかくんの彼女は随分と口汚い。
だがそんなことも気にならないほどに、拓ちゃんは無性に腹が立った。
公衆の面前で必要以上にジュリアの悪口を言うな。
赤の他人がぼくとジュリアのことに口を出してくるな。
謝っているジュリアにこれ以上の恥をかかせるのは、許さない。
拓ちゃんは努めて冷静な声を出した。
それができたのは、ひとえに深夜の面倒臭いコンビニ客を相手にし続けてきた成果である。
「ぼくはただ、好きな人の傍にいるだけだ」
ゆたかくんの彼女は、まっすぐに拓ちゃんのことを睨んできた。
恐い。
怒っている女性はみんな恐い。
それが自分に向かってくる赤の他人なら尚更だ。
それでも拓ちゃんは、なんとか物怖じしていないように取り繕いながら言葉を続けた。
「彼女がどんな人なのかはぼくだって知っている。きみには本当に申し訳なかった。ぼくも一緒に謝る。でもぼくは、彼女がなにをしていても、それでもいいと思ったから、愛しているから傍にいるんだ。きみにぼくたちのことまでとやかく言われる筋合いはない」
その言葉に、ジュリアは下げていた頭を上げた。
「拓ちゃん……」
ゆたかくんの彼女は、それでも悔しそうな目で拓ちゃんを睨んでくる。
友だちの女性が、もう行こう? ね? とゆたかくんの彼女を宥めた。
ゆたかくんの彼女は、最後にぼろっと一粒涙を溢してから、赤くなった顔で捨て台詞を吐いた。
「それは愛じゃない。あといい歳こいてぼくって言うな気持ち悪い!!」
それだけ吐き捨てたゆたかくんの彼女は、友だちに引っ張られるようにしてその場を離れた。
友だちがゆたかくんの彼女の背中を撫でながら、トイレの方に連れて行くのを、拓ちゃんはぼんやり眺めていた。
気持ち悪いって……。
気持ち悪いって言われた……。
薄々分かってはいたが面と向かって、初めて……。
拓ちゃんが衝撃を受け止めきれないでいると、ジュリアがそんな拓ちゃんに気づいて慌てて声をかけた。
「だっ大丈夫! 気持ち悪くないよ! ごめんねわたしのせいで!!」
「ジュリア、」
拓ちゃんがやっとのことで我に返ってジュリアの顔を見ると、その左頬がほんの少し、赤らんでいるように見えた。
「痛くない? 大丈夫?」
「痛くないよ、大丈夫。悪いのはあたしだしね。それより、……帰ろっか、お店の人にも悪いし」
気づけば店の奥で店員らしき人たちが心配そうにこっちを見ている。
ジュリアは傍にいた中年女性に、お騒がせしてすみませんでしたとまた頭を下げ、そのままスーパーを出た。
とぼとぼとふたりでさっき来た道を歩いて引き返す。
拓ちゃんがなんと声をかければいいのか分からずにいると、ジュリアがわざとらしい明るい声を出した。
「あーあ、ごめんね拓ちゃん。せっかく行ったのにお洋服買えなくて。しかも恥ずかしい思いまでさせちゃって……。ほんとにごめんなさい」
自分が嫌な思いをしたくせに、拓ちゃんのことを気遣ってくる。
そんなジュリアを、拓ちゃんはいじらしく思った。
「いや、ジュリアが謝ることじゃないよ、服なんかいつでも買えるんだし。ぼくはジュリアのほうが心配だ。嫌だっただろ、あんなの……」
あんな、近所のスーパーで、人目のあるところで罵倒されるなんて想像だにしなかった。
自分も巻き込まれたわけだから、拓ちゃんだっていい気はしない。
当の本人なら尚更だ。
「うーん、でも、拓ちゃんが庇ってくれたから、ちょっと嬉しかったかな。もう、拓ちゃんはほんとにあたしのこと好きなんだからぁ」
茶化すように笑うジュリアに、拓ちゃんは無意識に足を止めた。
それに気づいたジュリアも立ち止まって、拓ちゃんのことを振り返る。
「拓ちゃん?」
「そうだよ」
「え?」
「好きだから、いつだって味方だ」
それだけ言って拓ちゃんはまた歩き出した。
呆気にとられたようなジュリアの手を握って。
繋がれた手についてくるようなかたちになったジュリアは、しばらく黙っていた。
黙ってそのまま歩いて、そうして、ふふっと笑う。
「そっか、『好き』って、こういうことかぁ」
拓ちゃんは、そう呟いたジュリアの顔がとても可憐で、思わず見惚れた。
そうして手を繋いだままゆっくりと帰宅し、ジュリアを部屋に帰してから拓ちゃんも自分の部屋に帰った。
すごく、すごく疲れた。
なんだったんだ。
でも、ジュリアはきっとなにかを感じてくれた。
ゆたかくんとはこれで切れるだろうし、ライバルがひとり減ったならこれはこれでいいか。
そう思った。
それから一週間が過ぎた。
特別何事もなく日々は過ぎ、その日は突然やってきた。
拓ちゃんがいつものように朝方帰宅して眠りにつき、昼に目が覚めると、なにやら外の喧騒が気になる。
今日はやけに賑やかだな、と思いながらパソコンを起動し、ジュリアの部屋を覗き見た拓ちゃんは驚愕して目を見開いた。
ジュリアの部屋に、引越し業者が入っている。
大量の段ボールに荷物を詰めているジュリアと引越し業者。
慌てて窓を開けてベランダに出ると、マンションの入口には同じ引越し業者の大きなトラックが止まっている。
なにが起きているのか分からなくて、拓ちゃんは寝起きのくらくらする頭のまま玄関を飛び出した。
302号室のインターホンを押す。
指が震えて2回も押してしまった。
中からはばたばたと慌しそうな音と、楽しそうな声が洩れてくる。
はーい、と返事をして、玄関から出てきたジュリアに、拓ちゃんは口をぱくぱくさせた。
訳が分からなすぎて言葉が出てこない。
そんな拓ちゃんに、ジュリアは
「あっ、拓ちゃん! ちょうど良かった、あとで挨拶に行こうと思ってたんだよ!」
と、満面の笑みを浮かべてみせた。
「ジュリア、引っ越し、するの……?」
「そうなの! あのね、あたし、……結婚することにしたの!!」
「……。……、ど、……、どういう、……?」
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