第14話 ストーカーは生まれ変わりたい 3

 動揺を抱きしめたままそそくさと自分の家に逃げ帰り、いつも通り呼吸をするようにパソコンを起動する。

 ジュリアは外出中だった。

 パソコン画面をそのままにふらふらと洗面所まで移動し、壁に備え付けられた鏡を覗き見る。

 短い……。

 何度見ても、どう見ても短い。

 眉毛が完全に見えてしまっている。

 散髪の途中で言えば良かったのかもしれないが、なかなか声をかける勇気が出なかった。

 拓ちゃんは地の底を這うような盛大な溜め息を洩らしてから、もうどうにもならない髪の毛をわしゃわしゃと右手で搔き撫ぜた。

 短いぶんはもうどうしようもない。

 伸びるのを待つしかないのだ。

 帽子は持っていない。

 ……絶対笑われる。

 拓ちゃんは夜からの仕事に行くのが憂鬱でたまらなくなってしまった。

 あと5センチ、いや3センチでもいい。

 もう少し伸びるまで誰にも会いたくない。

 だがそうも言っていられない。

 拓ちゃんは収入が少ないのだから、働かなくてはどうにもならないのだ。

 今夜はコンビニバイトだ。

 配送倉庫よりも圧倒的に人が少ない。

 まだましか、と諦めて、拓ちゃんは終始うつむいたまま歩くことに決めた。


 ところが、周囲の反応は拓ちゃんを予想外に裏切った。

 想像していたよりも少しだけ好感触だったのだ。

 拓ちゃんと入れ代わりで先に店にいた大学生の森くんからは

「あれ、髪切ったんですね。良いんじゃないですか、こざっぱりして」

と素っ気なく言われ、いつも深夜11時に訪れる仕事帰りらしいくたびれた姿のお姉さんにはガッツリと二度見されたあとに、初めてにこりと微笑みかけられた。

 これはもしかしたら、自分が思っていたよりも大丈夫なのかもしれない。

 いささかの希望を胸に翌日の昼になって、拓ちゃんは隣室のジュリアを訪ねた。

「拓ちゃん! どうしたのその髪の毛! 知らない人かと思っちゃった!」

「いや、散髪に行ったら、切られすぎて……」

 玄関先で驚いた声を出すジュリアに迎え入れられ、拓ちゃんは勝手知ったるジュリアの玄関で靴を脱ぐ。

 冷蔵庫に入っていたペットボトルのお茶をコップに注いでもらいながら、拓ちゃんは昨日の顛末を話した。

「そっかぁ、じゃあ結局、服は買えずじまいだったんだね」

「うんでも、いいんだ。また今度行くし、……多分」

「あたし、一緒に行ってあげようか?」

「え?」

 突然の提案に面食らって拓ちゃんが顔を上げると、ジュリアがにこりと笑いながら

「だって拓ちゃん、服選ぶの苦手そう」

と言った。




 3日後の午後2時。

 拓ちゃんは緊張した面持ちでジュリアの部屋のインターホンを押した。

 なにしろ今日はジュリアとの初デートだ。

 緊張しないわけがない。

 たとえ行き先が近所のスーパーだとしても、そんなことは大した問題ではないのだ。

 ジュリアと部屋の外で会う。

 それすらも初めてのことで、拓ちゃんはこの3日間常に緊張状態にあり、3日上手く眠ることができず、なにを着ていけばいいのか、財布にはいくら入っていればいいのか、どんな会話をすればいいのか、ジュリアはどんな姿で来るだろう、知り合いに会ったらどんな顔をすればいいんだ、髪型のセットの仕方が分からない、などと、とにかく色々なことを考え続けていた。

 持っている服の中で一番ましに見えるものを選び、髪を試行錯誤の末になんとなく整え、財布の中身を可能な限り詰めてから、拓ちゃんは玄関から出たのだ。

 インターホンを押して10秒。

 扉の向こうでぱたぱたと動く音が聞こえ、ガチャ、と高い音、ガチャ、と低い音がしてから玄関が開く。

「お待たせ〜! じゃあ行こっか、拓ちゃん」

と言いながら出てきたジュリアは、まさしく天使そのものだった。

 後光が見える。

 可愛い。

 どこがどうとか良く分からないが、とにかく可愛い。

 辺りがキラキラしている。

 足首までの長いスカートを履いている。

 お化粧もいつも見るときよりもしっかりとしてある。

 可愛い。

 ひたすら可愛い。

 こんな天使の隣を歩いて許されるのだろうか。

 拓ちゃんが惚けている間に、ジュリアは玄関の鍵を締め、持っていた鞄に鍵を仕舞う。

 そうして、行こ、と拓ちゃんに微笑みかけてくれる。

 先を行くジュリアのあとに続いて、拓ちゃんは久しぶりにマンションのエレベーターに乗った。

 エレベーターは、非常階段よりも天国のようだった。

 拓ちゃんはジュリアの後ろに立って、ジュリアの華奢な後ろ姿をずっと眺めていた。

 エントランスを出て道路を歩き始めると、ジュリアは当たり前のように拓ちゃんを車道側に立たせ、そして拓ちゃんの腕にそっと手を回した。

「えっ」

「ここ、掴んでていい? あたしヒールだから、躓いたら恥ずかしくって」

「あっ、はい、どうぞ!」

 ジュリアと腕を組んで歩いている。

 密着しているわけではないが、自分の二の腕に触るジュリアの手の感触がとても気になる。

 どうせなら手を繋ぎたかったが、いやでも手汗を掻いているので逆に腕で良かったか。

 拓ちゃんは緊張しすぎて目を皿のように大きく開きながら歩いた。

 スーパーまでは歩いて10分もない。

 できるだけこの時間が続くようにと、拓ちゃんはことさらゆっくり歩いた。

 ジュリアのヒールを気にしている振りをしながら。


 店の入口に近づくと陽気な音楽と賑やかな店内放送が耳に入ってくる。

 自動ドアから店内に入り、衣料品売り場はエスカレーターを上がった2階だ。

 拓ちゃんがエスカレーターのほうへ向かおうとすると、ジュリアが腕を引っ張った。

「あっ、ねえねえ待って拓ちゃん! あのお店、覗いていい? あれ可愛い!」

 ジュリアが指で示す先を見ると、なにやらインテリア雑貨のテナントがあった。

 目立つ場所に置かれていた大きなフェイクフラワーが目に留まる。

「いいよ」

 拓ちゃんは二つ返事でジュリアとそのテナントに向かった。

 可愛い彼女のおねだりに優しく対応する彼氏。

 に見られたかった。

「ねえねえ、これとこれ、同じ色で揃えたら可愛いかな。違う色のほうがいい? 拓ちゃん何色がいいと思う?」

「うーん、そうだなぁ……」

 拓ちゃんはジュリアの色鮮やかな部屋を思い出す。

 何色でも合う気がする。

 手に取ってみたりしながら、ふたりで楽しくそれを眺めていると、不意に後ろから女性に声をかけられた。

「あの、すみません」

「あ、はい」

 拓ちゃんが振り向くと、拓ちゃんの後ろにはジュリアと同じくらいの歳に見える若い女性がふたり立っている。

 真顔でにこりともせず、不躾にも拓ちゃんを値踏みするようにじろじろと見てから、ジュリアに目線を移した。

 声をかけてきたほうはどこかで見たことがあるような気がするが、はて誰だったか。

 服装から見るに、ジュリアの友だちではなさそうな気がする。

 ジュリアも気配に気づいて後ろを振り返る。

「なにか?」

「あなたもしかして、瀬戸 珠里亜さんですか」

「はい、そうですけど、あの、なにか」

 ジュリアが答えるやいなや、その女のひとりがきっ! と眉を釣り上げて凄い形相になったかと思うと、次の瞬間には半歩でジュリアに近づいて、ジュリアの左頬に向かって勢いよく平手打ちをした。

 ぱちいん! と乾いた音が辺りに響き渡る。

 拓ちゃんが突然のことに驚いて身動きも取れないでいる間に、その女はジュリアに向かって怒気を孕んだ声を被せた。

「あんたがゆたかの浮気相手か」

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