第2話 ストーカー、覚醒する 2
吉崎 拓哉の住むマンションは、エントランスを出て左に90度角に曲がると、共用のゴミステーションがある。
マンションの壁に埋め込まれた形で、電気もない、本当にゴミを捨てるためだけの場所だ。
治安維持とマナー保持のために、指定されたゴミ袋に部屋番号を書く決まりになっている。
前日の夜から早朝6時までに指定された曜日のゴミを出しておけば、いつの間にやらゴミ収集車が回収に来ている。
とはいえ早朝にわざわざ急いでゴミを出すような人はろくにおらず、大抵の人は前日の深夜に出していた。
吉崎 拓哉も、自身がコンビニの深夜バイトに出かける午後8時に、家を出るついでに出している。
すると、いつも自分よりも先に302号室、瀬戸 珠里亜のゴミが置かれているのだ。
ある日吉崎 拓哉は、自宅の玄関先に突っ立っていた。
テレビを消し、音楽を消し、窓を閉め、無音の中で息を潜めて玄関ドアに耳を近づけ、周囲の音を聞いていた。
夕方6時。
ガチャ、キイ、と、隣の玄関が開く音がする。
ガチャ、カチ。ごそごそ。鍵を閉める音。そして、鍵を鞄らしきものに仕舞う音。
すたすたすた、と、足音が吉崎 拓哉の部屋と反対側に位置するエレベーターのほうへ去っていく。
夕方6時だ。間違いない。
吉崎 拓哉は確信した。
ジュリアは、夕方6時にいつもどこかへ出かけていく。
恐らくは仕事だろうか。
その時にゴミを一緒に持って、ついでに捨てているに違いない。
自分が家を出るのは午後8時。
他の人たちがゴミを出すのはもっと深夜だ。
それから吉崎 拓哉は、午後8時から10分程度、ジュリアの出したゴミの袋を開けるようになった。
一番気になるのは燃えるゴミだ。
それは、吉崎 拓哉にとって衝撃的なものだった。
初めて開いてみたゴミの袋。
出てきたのはティッシュ。ティッシュ。ティッシュ。
ティッシュに包まれた使用済みのコンドーム。
ティッシュの箱。
コンドームの箱。
レシートレシートレシートレシート。
トイレットペーパーの芯。
厳重にビニール袋に包まれた少ない生ゴミ。
吉崎 拓哉は衝撃を受けた。
ジュリアは隣の部屋で、自分の知らない男と寝ている。
知らなかった。恋人がいたなんて。
それも、これを見る限り結構な量だ。
燃えるゴミの回収は週2回。
ジュリアはいつも忘れることなくゴミを出している。
今日は木曜日。前回の月曜日のときにもちゃんと出していた。
つまりこれは、半週分のゴミでしかない。
吉崎 拓哉はコンドームの空き箱を拾い上げた。
「うすうす」。
パッケージの文字に言い知れぬ感情が沸き立ち、腹が立ち、思わず握り潰す。
誰だ。
ぼくのジュリアを組み敷いているのは誰だ。
それから吉崎 拓哉は、郵便受け覗き、ゴミ漁りに加えて、在宅時には壁に耳をひっつけて隣の物音に聞き耳を立てるようになった。
ところが、壁が思ったよりも厚いのか、ろくな音が聞こえてこない。
それでも時たま、うっすらと喘ぎ声のようなものが断続的に聞こえるときがある。
真っ昼間だ。
そのうっすらとした声とも音ともつかないものを聞いた瞬間、吉崎 拓哉は酷く興奮した。
大抵の人間が昼飯を食っているタイミングで、ジュリアは隣の部屋でセックスをしている。
あのふわふわした茶髪が、隣の部屋で汗をかきながら揺れて、湿っているのだ。
吉崎 拓哉は、たった一度見ただけのジュリアの顔を、まるで写真にでも収めたかのように鮮明に覚えていた。
吉崎 拓哉はその状況を俯瞰で想像する。
みんなが飯を食っている。
ジュリアはセックスをしている。
吉崎 拓哉はそれを、壁に耳をつけて盗み聞きしている。
こらえようのない興奮に、吉崎 拓哉は突っ立ったまま壁に向かってマスターベーションをした。
荒い呼吸を繰り返し、ティッシュが必要なタイミングで少しだけ我に返った。
おかげで壁は汚さずに済んだ。
それからというもの、吉崎 拓哉はもう隣の部屋が気になって気になって仕方がなくなっていた。
その頃にはもうゴミ漁りも常習化しており、ジュリアのありとあらゆる生活が手に取るかのごとく分かるようになっていた。
ジュリアは自炊をしない。
いつもコンビニ弁当を買ってくるか、外食で済ませているようだ。
好きな飲み物はペットボトルのお茶。
煙草は吸わない。
酒は飲む。
セックスの頻度には波がある。
そのほか使っている洗濯洗剤の種類、シャンプーや洗顔の種類、好きなファッションブランド。
行きつけは吉崎 拓哉のバイト先とは違う、マンションから一番近いコンビニであるということも。
ありとあらゆる生活習慣を覗くことができた。
それだけでは飽き足らず、吉崎 拓哉は常に周りの物音を聞いて生活するようになっていた。
そして気づいたのだ。
ジュリアは、近所のコンビニに行くときだけは、玄関の鍵をかけないということに。
悪いことをしようとしているのは分かっている。
だが気づいてしまったからには、どうしても確かめたい。
吉崎 拓哉は、隣の302号室の玄関が開閉し、鍵をかける音が聞こえなかったタイミングを待っていた。
すたすたすた、と、いつものようにジュリアの足音が向こう側へ遠くなっていく。
ジュリアがコンビニへ向かってから戻ってくるまでは、いつも大体10分程度。
吉崎 拓哉はたっぷり3分ほど待ってから、意を決して自分の部屋の玄関を開けた。
顔を出すと共用通路には誰もいない。
しめた、とばかりに、吉崎 拓哉はこっそりと自分の部屋から出て、隣のジュリアの部屋の前に立った。
さっきの音が間違いでなければ、今ここは留守で、鍵が開いている。
でも、もしも勘違いだったら。
実は在宅していて、鍵がかかっていたら、いや、いなかったら。
吉崎 拓哉は、自分のしようとしている行為の発覚を恐れた。
それでも欲望に抗うことができずに、そっ、と、ドアの取っ手に手をかけた。
ゆっくりと力を入れてみる。
玄関ドアは、吉崎 拓哉の力加減に従いながらゆっくりと開いた。
「あ……、」
思わず声が漏れる。
開いた!
開いたぞ!
吉崎 拓哉はほんの少しの隙間から中の様子を伺ってみた。
自分のところと同じ靴箱が見えた。
部屋に電気がついたままになっている。
そこまで見て、吉崎 拓哉は慌ててその玄関ドアから手を離し、慌てて自分の部屋に戻った。
興奮で息が上がっていた。
覗いてしまった、ジュリアの部屋を。
とうとう直接この目で、生活している空間を見てしまった。
こうなるともう、吉崎 拓哉の行動はエスカレートするばかりだった。
常に無音の中で聞き耳を立て、ジュリアが鍵をかけずにコンビニへ向かうと、吉崎 拓哉はそれから3分待って、ほんの5分だけ室内へ侵入する。
ジュリアの部屋は、吉崎 拓哉のそれとは違い、色鮮やかだった。
良い匂いがした。
部屋の一番奥には窓に引っつけるようにしてビビッドイエローのベッドが置かれていた。
カーテンは緑だ。少し色褪せて、くすんでいる。
キッチンには料理をするような気配はなく、お湯を沸かすための電気ケトルだけが置かれている。
冷蔵庫の上に電子レンジ。これは吉崎 拓哉と同じだ。
クローゼットの引き手にはハンガーにかけられた可愛らしい服がぶら下がっている。
ベランダには、薄紫色の下着が干してあった。
Dカップ。
その膨らみの内側の生地を触ったのは言うまでもない。
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