とてもチンケな恋のはなし

夏緒

第1話 ストーカー、覚醒する 1

 昼下がりの汗ばんだ肌。

 電気のついていない部屋。

 扇風機が首を振る音。

 開けっぱなしの窓の向こうからは喧しい蝉の声。

 足の爪を切るきみ。

 丸くなった背中に貼りついた、束になった髪の毛。

 面白くなさそうなテレビ。

 窓際に置かれたビビッドイエローのベッド。

 色褪せた緑色のカーテン。

 汗をかいたコップの中の、生ぬるそうな麦茶。

 ベランダの洗濯物。

 爪を切り終わった下着姿のきみ。


 ぼくのジュリア。






 壁際に置いたパソコン画面を、眼鏡越しに食い入るように見つめる。

 耳には2年前から愛用している大きめのヘッドホンを装着。

 世界の全てから隔絶でもさせるために存在しているかのような高性能だ。周りの音なんてなにひとつ聞こえてきたりはしない。

 眼鏡はブルーライトカット。

 これは先週新調した。

 5年使ってきた先代の黒縁は先週うっかり配線コードに引っかかったときに盛大に転んで、顔から外れた途端に手のひらで押しつぶしてしまった。

 眼鏡がないとパソコンを眺めるのに支障が出る。

 慌ててその壊れた眼鏡を引っ掴んで、そのまま眼鏡屋へ走ったのだ。

 おかげで今のところはなにも見逃してはいないはずだ。

 なぜなら彼女がちょうど買い物に出掛けているタイミングだったから。

 新品の黒縁眼鏡はいいものだ。

 これでいつまでもいつまでも、目の負担を最小限に保ちながらきみを見ていられる。

 パソコン画面には、あらゆる角度から6つに分かれた同じ部屋の映像が映っている。

 吉崎 拓哉は、まるで自分がその場、つまり、隣の302号室である彼女の部屋に立っているかのような錯覚を起こして、興奮から頭に血が上り具合が悪くなりそうだった。

 このパソコンの奥の壁。

 この壁の向こうに、下着姿のジュリアがいる。

 彼女は部屋にいるときは基本的に下着姿を保っている。

 今日はパステルピンクだ。

 全体が細やかなレースで彩られている。

 あの内股の、柔らかそうな白い肌を撫であげたい。


 吉崎 拓哉が彼女、瀬戸 珠里亜を初めて見かけたのは、2年前の春だ。

 定職にも就かず夜勤のコンビニバイトでなんとか食いつないできた34歳が、いつも通りそのコンビニバイトに行こうとして玄関を開けたタイミングで、引っ越してきたばかりの隣人、珠里亜が帰ってきていたのだ。

 薄桃色のカーディガンに黄色のスカートを履いていた。

 鍵を開けようとガチャガチャやっている珠里亜は、隣人の吉崎 拓哉に気がつくと、にこっと笑って「こんにちはー」と言った。

 それだけで充分だった。

 うららかな陽気の、気持ちのいい日だった。

 ろくに面白くない人生を34年も続けてきた男に巨大な雷が直撃した瞬間だった。

 それ以来、吉崎 拓哉はライフワークのように珠里亜、いや、ジュリアを観察するようになった。

 はじめは郵便受けだった。

 吉崎 拓哉が住むマンションは、単身世帯用の中古の6階建てで、エントランスの壁に6階✕6部屋、計36部屋分の郵便受けが整然と並んでいる。

 コンビニのシフトは夜ばかりなので、帰るのは早朝だ。

 会社や学校に向かう住人たちと会うのに気後れを感じる吉崎 拓哉は、いつも彼らの通勤、通学時間のラッシュを外して帰宅している。

 そう、吉崎 拓哉がエントランスにいるのは、常日頃からいつでも周りに人がいないタイミングなのである。

 出来心だった。

 自分の303号室の郵便受けに指を突っ込み、ゴミとしか思えないチラシの束を取り出し、ふと隣の郵便受けを見た。

 302号室。

 気安く挨拶をくれた彼女は、明るい茶色の髪が顔の周りでふわふわしていた。

 見たい。

 辺りをきょろきょろと見回し、自分の周りに人がいないことを何度も確認して、ごくりと生唾を飲み込む。

 冷静に、そう、あたかもそこが自分の郵便受けであるかのように振る舞わなければいけない。

 もしも誰かに見つかるようなことがあれば、……そう、間違えた、間違えたんだ。

 誰にともなくそんなことを何度も言い聞かせ、緊張しながら震える指で名札もついていないその郵便受けに手をかける。

 そ、と蓋を持ち上げると、中には自分のところと同じチラシの束が入っていた。

 これがいけなかった。

 それからというもの吉崎 拓哉は、頻繁に隣の郵便受けを覗くようになった。

 いつも必ず周りに人がいないことを慎重に確認し、302号室の郵便受けを覗く。

 来る日も来る日も入っているのはチラシだけだが、時たま運悪く住人とすれ違うことがあれば、吉崎 拓哉は盛大に舌打ちしたくなるのを必死に堪えながらその日は諦め、エレベーターを通り過ぎ外階段に向かう。

 吉崎 拓哉はマンションのエレベーターを好まなかった。

 赤の他人の住人と偶然にでも乗り合わせてしまえば、居心地の悪さは火を見るよりも明らかだからだ。

 3階なら許容範囲だ。吉崎 拓哉は日常的に外階段を使って生活している。

 2週間もそうやって報われない緊張の朝を繰り返していた時だったか。

 報われない緊張がついに報われる瞬間がやってきた。

 いつものように先に自分の郵便受けを覗くと、水道代の請求がきていた。

 ペラペラの長細い用紙が今月の請求額と、先月の引き落とし額を表示している。

 上の方には、“吉崎 拓哉”の名前。

 吉崎 拓哉は、それを見た瞬間に体中の血が沸騰するかのような感覚を覚えた。

 入っている。

 隣の郵便受けに、彼女の名前が。

 そこから吉崎 拓哉の目は完全に血走っていた。

 人でも殺しかねない殺気を放ちながらいつもよりも入念に辺りの様子を伺う。

 誰もいない。

 間違いなくいない。

 今しかない。

 チャンスは今しかないんだ。

 吉崎 拓哉は、緊張しすぎてもはや感覚のなくなりつつある指先で302号室の郵便受けを触った。

 蓋をそっと、いや素早く持ち上げる。

 中を覗く。

 入っている!

 2枚のゴミとしか思えないチラシの上に、彼女の名前が印字された長細いペラペラした紙が入っている!

 吉崎 拓哉はもう夢中だった。

 神業とも言える速度でそのペラペラした紙をそこから抜き取り、バッと音がしそうな勢いでその紙に食いつく。

 そうして血走った目にはっきりと映ったのだ、“瀬戸 珠里亜”の文字が。

 そこから先は、もうどうやっても誰も吉崎 拓哉を止めることはできなかったろう。

 日常化する郵便受け覗きに加えて、吉崎 拓哉はいつからかジュリアの出したゴミも漁り始めた。

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