第8話 働くストーカー

 「そっか、ありがとう。……、あれ、ひとつしか買ってないの? 拓ちゃんのは?」

 拓ちゃんが手ぶらでいることに気づいたジュリアは、これまた不思議そうな顔で拓ちゃんの顔を見た。

 なぜか当然のようにふたつ買ったと思ったらしい。

 拓ちゃんは本当のことが言えず、曖昧に苦笑いをしながら

「あ、ぼくは今は、要らないので……」

と、もじもじと指を動かしてからそそくさと後ずさり、そのままそうっとジュリアの玄関ドアを閉めた。

 ふう、とひとつ溜め息を吐いて、いくらか心拍数を落ち着けてから、隣の自分の部屋へ入る。

 なんだか変な気持ちだ。

 ジュリアと普通にはなしをしているなんて。

 本当にジュリアはなにを考えているんだ。

 本来ならもう少し自分に危機感を抱くべきなんじゃないのか。

 いや、それにしても……。

 玄関で靴を脱ぎながら、拓ちゃんはもう一度、今度はさっきよりも大きく溜め息を吐いた。

 言えない……。

 財布がカツカツで自分のぶんまで買えない、とは……。

 拓ちゃんは週5日の、コンビニの深夜バイト一本で生活をしている。

 給料はいつも生活費ギリギリだ。

 その上ここ2年であちこちの電気屋を徘徊して監視カメラとパソコンとヘッドホンを買い揃えたのだ。

 調子に乗って性能の良いものを見繕ったのも懐に響いた。

 つまりは金銭的余裕がないのだ。

 人に奢っている場合ではない。

 それでも。

 拓ちゃんは、ようやく足を踏み出して部屋に入った。

 それでも。

 拓ちゃんは思った。

 ジュリアに喜んでもらえることがこんなに嬉しいなんて。

 アイスひとつであんな満面の笑みを浮かべてもらえるなんて。

 パソコン画面には、ジュリアがテレビを見ながらさっき拓ちゃんが渡したアイスを食べている姿がある。

 食べ終わったアイスの容器は、水で洗われてゴミ箱へ捨てられた。

 拓ちゃんは思った。

 このままではいけない、と。

 ジュリアは、また別のタイミングで欲しいものを拓ちゃんにねだることがあるかもしれない。

 恐らくはそのためにカメラを外す必要がないなどと言ったのだ。

 ……あって欲しい、と、思う。それでもいい。

 金を払うなんてつもりは、ジュリアにはきっとない。

 それはここ2年ジュリアのことをずっと見てきた拓ちゃんだから分かることだ。

 拓ちゃんも買ってあげたい、ジュリアに。どんなものでも。

 なぜならさっき拓ちゃんのほうがきっと、ジュリアよりも何倍も嬉しかった。

 あの笑顔を向けてもらえるのなら。

 払えないなんて言えない。

「よし」

 拓ちゃんは、意を決してバイトを増やすことを決めた。

 今更この歳で定職に就くなんて難しいことは分かっている。

 そんな無駄な努力はもとよりするつもりがない。

 正規で雇ってもらえるのであれば、およそ10年前の就活時代に雇ってもらえていたはずである。

 拓ちゃんは就職の難しさを知っていた。

 それでもなんとかして、今よりも収入を増やさなければいけない。

 ジュリアのために。


 一大決心をした拓ちゃんは、それから新しいバイトを探し、コンビニを週3日まで減らして代わりに配送センターで週4日の肉体労働をすることにした。

 そちらのほうが給料が良いのだ。

 昼間はできるだけ働きたくない。

 ジュリアと一緒にいたい。

 拓ちゃんはその一心でひたすら深夜の仕事に励んだ。

 ところがそうすると今度は反対に、困ったことが起きた。

 仕事を変えて増やしたぶん、収入は確かに若干上がったが、その分肉体疲労も増え、日中は泥になって眠りこけることが増えたのだ。

 ジュリアの様子を確認する時間が減り、日々の潤いを奪われつつある拓ちゃんは精神的にもやつれ気味になってきた。

 自分は一体なんのために働いているんだ。

 これでは本末転倒ではないか。

 でもそれは、拓ちゃんにとってほんの少しの間の杞憂でしかなかった。

 拓ちゃんはもともと人よりも粘着質で愚直で生真面目几帳面でがんばり屋である。

 だからこそジュリアも2年もの間、それこそ拓ちゃんが自ら失態を犯すまで、毎日のストーカー行為に気づかなかったのだ。

 その性格のおかげもあって、毎日がんばる拓ちゃんは毎日少しずつ体力をつけてきた。

 おかげで昼夜は逆転しているものの、毎日同じような肉体労働生活をしているために気づけば規則的な生活習慣になり、どちらかといえば今までよりも心身ともに健康的になってきた。

 そんな生活を続けて数週間。久々にパソコンを起動して隣の部屋の様子を窺ってみる。今までにこんなにパソコンを触らなかったことはない。拓ちゃんは少しばかり新鮮な気持ちで画面を覗いてみた。

 ジュリアは、いつかと同じようにしてビビッドイエローのベッドに寝転がっていた。

 スマホをいじりながら呟く声が聞こえる。


『拓ちゃん、いなくなっちゃったのかなぁ。……寂しいなぁ』


 拓ちゃんは目を見開いて耳を疑った。

 聞き間違いだろうか。

 久しぶりだから、ヘッドホンが壊れてしまったのだろうか。

 ジュリアが寂しいと言った気がする。

 拓ちゃんがいなくて寂しい、と……。

 拓ちゃんはガタッと勢いよく椅子から立ち上がり、いつぞやのように玄関に足を向けかけた。

 そうしてはた、と思い直して、もう一度椅子に腰掛ける。

 どうするのが正解だ……?

 聞き間違いでなければジュリアは拓ちゃんがいなくて寂しいと言った。

 もしかしたら、拓ちゃんが泥のようになって眠りこけている間に、何度も拓ちゃんのことを呼んだのかもしれない。

 ああ、すまないジュリア、気がつかなくて。

 だが今その言葉に釣られて隣へ行っても良いものか。

 いつぞやの大騒動を思い出さずにはいられない。

 よく考えなければ。

 あの言葉はどこまで本心だ?

 寂しいのはたまたま他の男たちが掴まらなくて、自分に貢いでくれる相手がいないからに違いない。

 今すぐにでも玄関から出て、この間のように隣のインターホンを押したい。

 だが拓ちゃんが身ひとつで行ってどうなる。

 なにかを買っていくべきか。

 でもなにを買えばいい。

 今ジュリアが欲しいものが、分からない。

 拓ちゃんは考えた。

 それに、もしかしたら自分なんかが近づかないほうが、ジュリアのためではないのか。

 こんな鬱蒼とした姿の男が、ジュリアの傍にいると、彼女が汚れてしまうのでは。

 拓ちゃんは迷った。どうするべきなのか。

 迷って、迷って迷って、そうしてとうとう、もう一度立ち上がった。

 着替えればいい。

 髪を整えればいい。

 慌てず準備して、ジュリアの部屋のインターホンを押そう。

 今すぐに渡せるものがないけれども、それでも許されるなら会いたいと思った。

 ジュリアに、ここにいるから、寂しくないから、と伝えたい。

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