第7話 走るストーカー

 拓ちゃんは戻ってきた自分の部屋で大きな溜め息を吐いた。

 なんだかすごく疲れた。

 結局ジュリアはリョウとふたりで回転寿司に行き、拓ちゃんも同じタイミングで部屋を出てきた。

 リョウは何度も振り返って拓ちゃんを睨みつけてきた。

 拓ちゃんは何度も頭を下げた。

 ふたりが見えなくなるまで頭を下げまくって、それから帰宅した。

 昼飯もまだだったが、とてもじゃないけど食う気にならない。

 ただ疲れた。

 そして反省した。

 いくらジュリアが良いからと言ったって、拓ちゃんもそこまで堕ちているわけではない。

 やはり良くないことだった。もうやめよう。カメラは置いてきてしまったが、パソコンを接続しなければいいだけのはなしだ。警察と言われたとき、本当に体が震えた。

 食うに食えず、寝るに寝れず、拓ちゃんはベッドに腰かけて真っ白なあしたのジョー姿になった。

 燃え尽きたのだ。


 それから拓ちゃんはミイラのような出で立ちで深夜バイトへ向かい、完全に干からびてガイコツのような姿になって翌早朝に帰宅した。

 エントランスで無意識のうちにふたつの郵便受けを覗き、ああしまった、やめるんだった、と思いながら外階段をふらふらと上がる。

 玄関の鍵を開け、ふらふらとパソコンの前まで移動し、無意識のうちにパソコンを起動した。

 なにをやっているんだ。

 自問自答はすれど手は止まらない。

 もはや呼吸をするのと同レベルに自然な動作でパソコン画面にジュリアを映し出す。

 ジュリアは昨日までと同じように、下着姿で布団に潜って眠っていた。

 また腰のあたりが布団から出ている。

 やめるんじゃなかったのか。

 拓ちゃんはパソコンデスクに備え付けた椅子に腰かけてジュリアを眺める。

 やめられるわけがない。

 ジュリアはもう、今や拓ちゃんの生活の全てだ。

 2年も毎日続けてきた行為は、今更やめようがなかった。

 拓ちゃんは、自分が思うよりも立派に堕ちていた。

 いいじゃないか、見るくらい。本人だっていいって言っていたし、カメラがついてようがついてなかろうが、どうせジュリアのほうからは分からない。

 見るくらい、いいじゃないか。

 それ以上のことなんて、なにも望まないから。

 取り敢えず部屋に入るのだけは、もう本当にやめよう。

 これからはこのパソコン画面だけだ、ひっそりと、それでいい。

 拓ちゃんはジュリアの寝姿があまりにもいつも通りだものだから、その姿に安心して自分もベッドに横になった。

 そうして、溜まりきった気疲れから泥のように眠った。




 それから2日経った。

 拓ちゃんはやはりいつも通りにパソコンの前でヘッドホンをはめていた。

 もう若干開き直っていた。

 ジュリアはベッドに寝転がって、ファッション雑誌を眺めている。

 そこに、突然拓ちゃんの耳にジュリアの声が届いた。


『拓ちゃーん』


「……、え?」

 拓ちゃんはまず耳を疑った。

 とうとう幻聴まで聞こえるようになったか。

 ジュリアは動いていない。

 だがそれは、幻聴ではなかった。

 もう一度聞こえるのだ、ヘッドホンからはっきりと。


『ねぇねぇ拓ちゃーん、聞こえるー?』


 聞こえる。

 寝転がって雑誌を見続けているジュリアの、声が。


『拓ちゃんさあ、アイス食べたくなーい? あたしは食べたいなあ〜、アイス』


 拓ちゃんは椅子から勢いよく立ち上がった。

 ジュリアが、カメラ越しに拓ちゃんに話しかけているのだ。

 あたしは食べたいなあ、アイス。

 あたしは食べたいなあ、アイス。

 頭の中でジュリアの声がこだまする。

 拓ちゃんは目を見開いた。

 ジュリアがアイスを食べたがっている!

 しかも言うとは無しに拓ちゃんに買ってこいと要求している!

 拓ちゃんはそれ以上なにも考えなかった。いや、考える前に体が動いた。

 財布を引っ掴み、玄関で靴を履き、そこからはっとして一度部屋に戻った。

 部屋着から外出着に着替え、歯磨きをし、顔を洗って髪を整えた。

 髪は散髪に行っていないので相変わらずもさもさしているが、なにも触らないよりはマシだ。

 5分で身支度を整え、それから拓ちゃんは靴をつっかけて走った。

 近所のコンビニまで。

 ジュリアの好きなアイスは把握している。

 ジュリアはカップアイスが好きなのだ。

 種類はなんでもいい。

 こないだは爽を買っていたから、今日はMOWがいいかもしれない。

 光の速さで思考を飛ばし、スマートな動きで会計を済ませ、拓ちゃんはまた走った。

 ジュリアの待つ302号室へ。


 マンションのエントランスで相変わらずふたつの郵便受けを確認し、外階段を軽快に駆け上り、息を切らしながら302号室の前に立つ。

 先日の一件があるのでかなりの勇気が必要だったが、それでも拓ちゃんは目の前のインターホンを押した。

 思えば初めて押した。インターホン。

 あんなに何度も侵入していたのに、堂々とインターホンを押したことは一度もなかった。

 はあーい、とジュリアの声がインターホン越しに聞こえ、少ししてからドアの鍵が内側からガチャっと開く。

 出てきたジュリアは、さっきまでの下着姿に、薄手のロングカーディガンを羽織っていた。

「拓ちゃん! わあ、本当に買ってきてくれたの!? 嬉しいありがとう〜! カメラ、本当に音まで聞こえるんだね!」

 ジュリアは小さなビニール袋にひとつだけ入ったアイスを受け取って喜んだ。

 自分が彼女を笑顔にしたのだと思うと、拓ちゃんはなんだかとても誇らしい気持ちになった。

 が、それよりも先に、彼女に言わねばならないことがある。

「あの……、その格好で、あまり外には出ないほうが……」

 拓ちゃんが自分の体を張ってドアを塞ぐようにして立ち、遠慮がちにそう言うと、ジュリアはえ、と言ってから

「でも拓ちゃん、いつもこの姿見てるんでしょ?」

と、いかにも一体なんの問題があるのか、という顔をした。

 確かに拓ちゃんは見ている……。しかももう随分と見慣れたけれども……。

「いや、でも、その……、やっぱり、良くないですよ、あのぅ……、」

 図星なだけに、拓ちゃんがそのきょとんとした顔にどう答えていいか分からずに口籠ると、ジュリアはそれを察して

「うん分かった、今度から気をつけるね」

と言って微笑んだ。

 それから、

「あっ、それからぁ、郵便受け、なにか届いてた?」

 と聞いてくる。

 拓ちゃんはさっき自分が当たり前のようにジュリアの郵便受けも確認したことを思い出して、心臓が口から飛び出しそうになった。

 こっそりが、こっそりではなくなってしまっている。

 拓ちゃんは申し訳ないやら恥ずかしいやら、でも確認しといて良かった、など、いろんな感情が一気に吹き出した。

 そしてそれは、額から流れる汗となって滴り落ちる。

「あの……、いえ、なにも」

 郵便受けは、空だった。

 

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