第9話 だめだめだめだめ
夕食が済むと、この小さなおさんどんは、これは明日の朝ごはんにするのです、とスープの残った鍋を火から外した。そして、沸かした湯を満たしたブリキのバケツに皿をまとめて水場に持って行き、ホウキグサを丸めて作ったたわしで洗う。
クレドは手持無沙汰で、さっきと同じようにルピについていき、手元を見ている。
かたことと白樺の器が触れ合う音は、不思議なほど快く聞こえた。
大きなルピの眼は、暗闇の中で赤く光っている。獣の眼だ。この人狼の仔には暗がりでもよく見えていて、小屋の裏側にある小窓から漏れる明かりも、空にかかる半月の光すらもいらないのだろう。
「ルピ、今日はありがとう」
今更ではあるが、幼児を働かせて自分は何もしないわけにはいかないだろうと思ったクレドは、洗い終わった皿が入ったバケツを持ち上げた。
「どういたしましてなのですよ」
夜風は冷たいのに、ルピはびしゃびしゃにシャツの胸のあたりを濡らして平気な顔をしている。
小屋へ食器を運び込みながら、クレドは尋ねた。
「なあ、ルピ」
「はい」
「もう今日は遅いから……」
「あっまだベッドをととのえてなかったのです」
「いや、そういうのじゃなくて」
小屋のドアを開けると灯が差し込み、ルピの赤く光っていた瞳はまた明るい空の色にすっと戻った。クレドはぼやけた口調で言った。
「その……いつ帰るんだ?」
「ずっといるのですよ。ここにすんで、おさんどんをするといったではありませんか」
暖炉脇にバケツを置くと、ルピが煮沸した布巾で皿を拭き、暖炉の脇の小さな棚に積み重ねはじめた。クレドは言葉を継いだ。
「そんなに長い間かけて返すほどの恩はないと思う」
「う?」
犬が不審がるときのように、ルピは手を止めて左に首を傾げた。
「ルピはまだ子どもだぞ。親ときょうだいと一緒に暮らすべきだ」
「うう?」
今度は右にころんと傾げる。
「今日はもう遅いから泊まって、明日はおうちに帰るんだ」
「それはだめなのですよ」
「おうちが恋しくないのか?」
「おうちもかぞくもだいすきなのですが、でも」
「でも?」
「おんがえしにいって、すぐにかえるのは、はじなのです」
ルピのいる
少々迷惑なまである。
「いや恥じゃない。もう十分恩返ししてもらった。いろいろ物資はもらったし、パン種も引き継がせてもらうからもう大丈夫だ」
「はじなのはルピだけでなくて、ルピのおとうさまもおかあさまもあかちゃんもみんなはずかしいのですよ」
「え」
「そんなにすぐかえったら、ルピたちははずかしくておそとをあるけないのです」
話は、義理堅いというよりちょっとややこしい掟の様相を帯びてきた。一家揃って一族から恥呼ばわりされるとは。
「あ、ああ、それはひどいな」
「ひどいのですよ」
「だったら私がついていって、どんなに君が立派な恩返しをしてくれたか口添えしようか」
「だめです!」
ルピは幽霊話でもするように怖がらせる口調になった。
「ルピたちのおうちはにんげんにはひみつなのですよ! しったら、ただではおかないのですよ!」
「ただでは置かないって、何をされるんだ」
「こわーいうたをうたうのです」
「聞きたいな」
「こわーいのですよ? いちどしかうたってはだめな、のろいのうたなのですよ?」
「やっぱり聞きたい」
どこまでが本当なのかわからないが、クレドはとても興味深くルピの話を聞いている。
クレドが怖がらないので、ルピは少し焦ってきた。そして両手をぺちんと打ち鳴らした。
「それに……こうやって、おうちをしったにんげんをみんなでぱちーんと叩くのです。いたいのですよ」
友好的でない種族に棲み処を知られて、ぱちーん程度で済ましてくれるならまことに良心的だ。クレドは鼻をぴくぴくさせて真剣な顔をしているルピについ吹き出しそうになった。
「それは痛いな」
「こわいでしょう、ぱちーんって」
「おお、そいつはこわいこわい」
笑いをかみ殺した、おちょくった返答だったが、幼いルピは人間を脅すことができてほっとした様子だった。
「だから、ルピのおうちはしってはだめなのですよ」
「わかったわかった。じゃあどのくらいここにいれば、帰っても恥ずかしくなくなるんだ?」
なんで自分が譲歩しているのかよくわからない。クレドは確実にこの娘のペースに巻き込まれつつあった。
「ルピがかえってよいとおもったらなのですよ」
「帰っていいと思っていいぞ」
「だめなのですよ。クレドさまはぜんぜんだめなので」
「いや、そんなにだめでは……」
「いいえ! クレドさまは、ゆきでうすめたパンのおかゆくらいだめなのです!」
「そんなにだめか、あれ」
「だめです! あのだめおかゆのことをみんなにはなしたら、クレドさまのだめさをあわれがっていたのですよ」
クレドに出されてもっとも不味かった料理を、ルピは人狼たちの間で散々語って聞かせたらしい。しまいに料理名は「だめおかゆ」になっている。あの粥は少しだけひどかったと認めざるを得ないが、食料をがっつり平らげてクレドの台所事情を窮地に陥れたのはルピなのだ。もっとひどい言葉で侮辱の限りを尽くされたことはあるものの、これほどシンプルにだめと連呼されたのは生まれて初めてで、相手が幼児とはいえクレドはもやもやしてきた。
クレドが複雑な顔で幼児向けの反論を考えている間に、ルピは寝支度をした。とはいえ着替えは煮沸されてまだ濡れているので着のみ着のままだ。ルピはクレドの道具箱から大きな麻袋を引っ張り出して、戸口の近くの床に敷いた。
「では、ルピはここでねるのです」
「そんなところで?」
「ここにねると、わるものがはいってきてもすぐにかめるのですよ」
「入ってこないよ、たぶん」
「わるものはいるのですよ! ルピをわなにかけたような、おそろしいわるものが!」
「うーん」
わなを仕掛けた猟師にも生業という大義がある。それで命を奪われかけたルピには悪者以外の何物でもないのだろうが、クレドは頷くことができなかった。
クレドはルピが今夜の寝床と定めた麻袋を、自分が寝床として使っているベンチの足元に敷きなおした。その上に、自分がいつもベッドで使っていたもしゃもしゃした羊皮を敷いてやる。そして、あのショールを掛けた。
ここでやっと、ルピが持ってきた寝具類を焼却してしまったのが惜しい気がしてきたが、あのしみがついたブランケットやシーツを思い出すとやはり身の毛がよだつ。だから、あれは正当な扱いだった、とクレドは自分に言い聞かせた。
こういう気遣いをしなければならないから、人のかたちをしたものは迷惑なのだ。
「急ごしらえだけど、これでいいだろう。ここで寝るといい」
「ルピは、あのふくろがなれているのですよ」
「あの時は、君をただのオオカミとして扱ったが、今は私のおさんどんなんだから、もうちょっとましな寝方をしてくれ」
「まし?」
「えーと、ルピにはあったかくて気持ちよく寝てほしいということだ」
「クレドさまがそうしてほしいということなのですか?」
「うん」
「ではここでねるのです」
ルピは、ふわふわなのですねえと言いながら、明日に祭りを控えた子供のように寝床に収まった。
クレドも自分の寝床に入った。掛布をルピの敷布として提供したので、外套の上からよく羽織っていた、家畜用の毛布を自分の体に掛けている。
彼はランプに息を吹きかけて明かりを消した。
「クレドさま」
「なんだ」
「おやすみなさい、あさがぶじにやってきますように」
「君たちは、眠るときいつもそう言うのか?」
「はい」
ルピがあくびをした。
クレドも挨拶した。
「おやすみ、ルピ。朝が無事にやってきますように」
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