竜使いとおおかみむすめ
江山菰
邂逅
第1話 あんよがいたい
この一週間は、絶え間なく雪が降っていた。
さらさらとしたものではなく、ひとひらひとひらがティースプーンで掬ったように大きく重い。風もなく、すい、すいと降ってくるさまは白薔薇の花弁だった。
森に囲まれた村は静かだった。
家々はおしなべて奇妙なテントのような構造で、屋根の雪は軒下に滑り落ちたものと繋がって重量を分散している。絶妙な均衡で雪の重みをいなしているのだ。
丸太と頑丈な石を組み、おが屑を混ぜた漆喰を塗った家並みはひなびた風情があって、夏ならば、街の連中が露骨に田舎者を見下しながらぶらついていることもある。しかし今は冬、家々は光と煙が漏れる雪の塊と化し、ともすれば雪深い庭や道と同化してしまう。雪かきは最低限の範囲しか行われず、人間のみならず犬や猫、鶏、多くの家で飼われている頑丈な山羊や毛深い牛たちまで、蓄えを食みながら雪の下で忍耐強く春を待っている。
今は夕暮れ時で、曇り空の彼方で太陽は早々と沈みかけている。冷たい剃刀のような空気に、牛乳やバターをふんだんに使った料理の匂いが混じり始めた。贅沢なのではない、それしかないのだ。
その村の森へと続く道は、柵に囲まれた広大な蕪や芋の畑と放牧地が道の脇に広がっていて、冬でさえなければ、まだ幼い牛飼いや山羊飼いが駆け回って遊び、大きな犬たちが勝手にどこかへ行こうとする連中や、森からこちらを窺っている狼に目を光らせている絵のような風景が目にできた。でも今は、何もかも真っ白な雪の敷布に覆いつくされた、だだっ広い原っぱだ。
そこを、カンテラに灯を入れ、きしきしと雪のきしむ音を立てながら森へ向かって歩く影があった。呼吸で熱を奪われぬよう、顔は覆われていて見えない。ここらの人間にしては背が高く、どこで手に入れたのか、牛や馬に使う粗末な毛布を頭からすっぽりと被って、背後に小さな
ときどき、足を止めると空を仰ぎ、何か呟いてはまた歩き出す。大きな寺院で祈祷をしている坊さんのような仕草だった。
――畜生。
確かにそう、彼は呟いた。
空を仰いで唱えているのは、祈りでも
その体つきは風雪に耐える頑丈なものではなく、ひょろりとした葦のような丈高さで何度も風に煽られている。柳のラケットを足に括り付けているのだが、一歩踏み出すたびにふくらはぎのあたりまで沈む。それを引き抜いてはまた踏み出す。こうやって動けているのは、玄武岩の薄板を温めて、体のぐるりに布でぐるぐると巻き付けているからだった。しかし村で一度取り換えたそれも、もう冷め始めている。それがまた甲冑のように重い。
そもそもこのあたりの住民なら、雪の精にひょいと魂を持っていかれて翌朝冷たい骸になって見つかりたくなければ、この季節、この時間に一人で外を歩いたりしない。どうしてもの時は人間であったり犬であったり、必ず誰かを連れていく。
ところが彼は一人だ。
簡単に言えば、彼はよそ者だった。
背丈だけはそこらの大人より伸びているがまだ十四歳で、独りで森の奥に棲んでいる。
村人たちは、先だって、秋の始まりにこの森へやってきて住みついた彼を薄気味悪く思っている。魔法使いだという者もいる。
先刻、村で買い物をした時にも、戸を叩いて開けてもらう度に村人たちから魔物にでも遭ったように十字を切られていた。彼が使っている
それでも乞われるままにパンや牛乳や、豆や蕪を売ってくれるのは、恐れからか優しさからなのかはよくわからない。その両方でもあったのだろう。
彼はやっと森に入った。
気を付けないと、シカやウサギ用のくくり罠が仕掛けられている。
彼は往路と同様に注意を払って、木々に刻まれた印や結びつけられたぼろ布を探しては迂回する。それが罠の設置場所の印だ。引っ掛かったからと言って死ぬようなものではないが、ばねの力でいきなり締め上げられれば痛い。
罠が仕掛けられているあたりを抜けると、そこは村人たちが恐れる精霊や魔物の領域で、そこへ辿り着けば安心だった。
彼は左足に何かを踏んで、つんのめった。
「うわ」
そのまま、ぼふんと雪に人型を刻印してしまう。
慌てて起き上がり、彼は立ち上がろうとしてまた人の形のくぼみを作った。
蚊蜻蛉のように肉の薄い足は、雪中にあるというのにすかすかと動く。どうも、小さな空洞を踏み抜いてしまったらしい。
小さく唸り声をあげながら体勢を立て直そうとしていると足元から、もう一つの有機的な音声が聞こえた。蜂がぶんぶん言っているような音だ。
不都合にも、足に履いた柳のラケットに何かが引っ掛かっている。
枝や雪の塊ではなく、何かしなやかである程度太さのあるもの。
なんとなく、雪の洞から暖かい空気が立ち上るように感じる。
――まずい!
もうここで何となく嫌な予感はしている。
右手と右脚で体重を散らしながら左足を片手で抱え、蕪を抜くように持ち上げる。
ぼくっと洞が壊れて雪で埋まる音とともに、引っ張り出されたそれを見て、彼は心臓が凍るような恐怖を感じた。
ラケットに絡みついていたのは、……もとい、噛みついていたのは小さな犬のような灰色の生き物だった。
ぶらぶらと揺れながら、小さく唸っている。
カンテラの貧弱な光に照らされ、赤っぽく光る眼でこちらを見ている。威嚇の顔つきだった。その獣の後ろ脚には、板のようなものがついている。それから長い針金をより合わせたものが見えた。
この生き物は、くくり罠を踏んだが罠の地中部分まで掘り返して逃げてきた。しかし、脚をぎりぎりと針金に締め上げられ、ここで力尽きて雪穴を掘って隠れていた、ということなのだろう。
問題はこの獣の種類だった。
どう見ても、オオカミの仔だ。
もしこの近くに親がいれば、一声でも悲鳴をあげられたら探し当てられて、オオカミの夕食にされて終わりだ。
ここは黙らせて、毛皮を剥いで首巻きにでもしてしまうのが賢明だ。
ところが彼はそうしなかった。
息を切らしながらラケットからオオカミの仔を引っこ抜いて、鼻面に剣呑な皺をいっぱいに寄せている和毛の塊を懐に抱え込み、鯉のように跳ねる体を該当の上から被っている毛布でくるみ込んだ。
「助けてやるから、声を出すな」
麻袋かと思うほどちくちく、ざらざらとした毛布の上から、手袋をはめた手でぽんぽんと優しく叩く。
「いい子だから鳴かないでくれ。そしたらその罠は外してやる」
通じるとも思えない。
しかし話しかけると、あっさりとオオカミの仔は大人しくなり、緊張した仔犬のように震え始めた。
彼がその毛むくじゃらを抱え、荷橇を引っ張って歩みを進めようとすると、懐から哀れっぽい細い声がした。
「あんよが、いたいのです……」
ひどく聞き取りにくいが、確かにそう言った。
彼は自分の腕の中にいるものが意外と厄介なものだったことに気づき、また濁った呻き声をあげた。
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