第14話 そういうこともできる


「なんですかこれは」

「だから、私だって」

「へんなの!」

「頼むから叩かないでくれ」


 クレドは蚊の鳴くような声で答えた。


「私は弱いんだから」

「よわい?」

「君から一発食らっただけでこのざまだ」


 そう言うなり、彼は黒く腫れた瞼を閉じた。

 

「クレドさま? ねんねなのですか?」

「……そんな感じだ」

「おやすみなさい? あさがぶじにやってきますように?」

「……寝てはいない」

「ねてないのにねんねなのですか?」

「……」


 もう返事はない。

 寝入ってしまった、とルピの目には見えた。

 途端に黒いもやもやしたものは鮮やかさを増す。

 形状は定まらないが、目を凝らすと黒い塊にも濃淡がある。何らかのかたちを示しそうではあるものの、しっかりとはまとまらない。

 見る間に小さな二つの目が開いた。

 湿った角膜を持った黒い瞳。

 

――これは、クレドさまの目の色なのですねえ……。


 ルピはこの得体の知れないものに声をかけてみた。


「クレドさま?」


 黒い塊の目は、返事をするようにぱちぱちとしばたたいた。

 この意思表示はルピにも非常にわかりやすい。


「このくろいのは、なんなのですか」


 黒い塊は少し考える様子で、ルピが不思議なものを見聞きした時にやるように、右に左に少し傾いだ。口は利けないらしい。


「にんげんはみんなこんなのがだせるのですか」


 今度は、首を左右に振るように視線を動かす。ルピは、少し変わった人間に、恩返しをすることになったしまったらしい。


「飛べるのですか」


 また、ぱちぱちと瞬く。


「おめめしかないのですか? おつむやおててやあんよは?」


 今度は傾ぐ。答えに窮しているのだろう。


「さわってもよいですか」


 クレドの返事はぱちぱちだった。

 早速、ルピはそっと、この不可思議なもやもやに触ってみた。

 トカゲやコウモリのようなかさついた感触がある。

 この黒いものを張り飛ばしたときも、確かにルピの手にはその質感が感じられた。しかし、このもやもやとした黒い陽炎はその感覚を伴うような固形物には見えない。


「う……やっぱりきもちわるいのですよ」


 見てくれに関するルピの意見は変わらなかった。触ってしまった手をぶんぶんと水を切るときのように振って、嗅いでいる。

 黒いものは心なしかしょんぼりと、目を閉じて動かない己が肉体に視線を落としていた。


「だいじょうぶなのですよ……きもちわるくても、いきていればいいことがあるのですよ、たぶん」


 ルピはしかつめらしく、さりげなく無礼に慰める。誰かが言っているのをそのまま覚えて受け売りしているような口ぶりだが、この言葉を発したのが半獣でも幼女でもなかったら、張り倒したくなる手合いもいるだろう。

 黒いものは少しむくれた様子でルピを見ていたが、ふいっと向きを変えた。す、す、す、と緩急のある動きでテーブルのほうへと虚空を移動する。ルピはその後をぽてぽてとついていく。

 その謎の塊は、置かれたままになっている緑色のピンクッションに降りた。

 矩形の小さな布をぐるりと縫っただけの簡単な造りで、数本の針が刺さっている小さな雑貨。

 そこへ煙のように巻き付き、見る間にじわじわと滲み込んでいく。


「!」


 面食らっているルピの前で、黒いものはすっかりピンクッションに吸い込まれ、消えてしまった。

 

「クレドさま!」


 ピンクッションからは何の反応もない。

 ルピは慌てて振り返ってベッドに横たわっているクレドを見た。

 先ほどと変わらず、寝入っているように見える。

 彼女は、心底不吉な気分になった。クレドに駆け寄り、その体を揺すってみた。

 寝ていないと言っていたのに、微動だにしない。 

 頬に触れると、心持ち冷たい気がする。血色は……元から紫だったり黒だったりでよくわからない。


「クレドさま! おきてください! あれがいなくなったのですよ!」


 ベッドの脚の位置がずれるほど、ルピはクレドの肩を掴んでがくがくと揺すっている。ふさふさの尻尾は二本の脚の間に隠れていた。


「クレドさま!」


 オオカミの声量で悲鳴のように騒ぎ立てる。

 何度呼んでも、クレドは目を覚ます様子はない。

 さっき鼻血を噴いて倒れていたのとは、何か異質だ。より事態は深刻だという気がしている。

 このクレドは生きてはいる。

 弱いながらも息をしている。

 なのに、ここにある肉体は抜け殻で、こころはどこかへ抜けてしまっている、という感じがする。

 生まれて五年の子どもには手に余る事態だった。鼻を鳴らしながらおろおろするしかない。


 クレドではなく、奇妙なものがルピに応えた。

 それは命を持たぬものながら少しずつ動いている。

 一インチほど動くと、ぽとんとテーブルの縁から落ちた。

 刺さっていた針が床に当たり、小さな音を立てる。

 人狼の仔は、その音に驚愕のあまり文字通り飛び上がった。

 音源へ向かって素早く身構える。


 そこにあったのは、くだんのピンクッションだった。

 生き物のように動き回っている。

 しばらく表、裏と交互にひっくり返っていたが、そのうち縁で立ちあがり、ショティスでも踊るようにぴょんぴょんと跳ね始める。

 ルピは動けなかった。ゆるい三つ編みにまとまらなかった後れ毛が逆立っている。

 ピンクッションのダンスは何ともユーモラスだったが、先ほど黒いものが滲みこんでいった様子をつぶさに見ていた彼女には恐怖以外の何ものでもない。


――クレドさま、おきてください

――ルピは、いまとてもこわいのです


 その奇妙な踊りは三〇秒ほどで終わったが、ルピには長い長い時間に思えた。

 ピンクッションは最後にくるくると回ると、ぱたんと倒れた。

 その途端。


「うー」


 死んだように無反応だったクレドの喉からオオカミのような唸り声が出た。

 目が開いている。


「どうだ、面白かったろう」


 少年は寝起きの嗄れ声で喋った。軽く咳き込む。


「そういうこともできるぞ」


 ルピは青い顔でクレドを見た。心底不気味で恐ろしかったのだ。


「便利なんだ」

「……」

「少し離れたところのものが見えるし、聞ける」

「……」

「小さなものなら動かせる。特にはやりやすい」


 視線で、ピンクッションを示して見せる。

 ピンクッションの中に詰まっているもの。

 それはクレドの母親の髪だった。依り代としては最高の小物だ。


「さっきルピが踊ってたやつをやってみた。どうだ、おもしろいだろう」

「……ぜんぜん」

「え?」

「ぜんぜんよくないのですよ! こわかったのですよ!」


 ルピは噛みつくように言った後、大きな目からぼたぼたと涙を零した。


「ルピをこわがらせておもしろいのですか」

「君が私をケガさせたんだからこのくらいいいじゃないか。ネズミも食わされたし」


 そこからは怒涛の泣き声にかき消された。

 ルピはわあわあと大声で泣く。

 クレドは、耳をふさぎながら相手の幼さを改めて知った。


 



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