第13話 よく見ろ

 クレドは冷たいものが顔に触れるのを感じた。

 何か冷たいものが顔を擦っている。

 何かがぐすぐすと洟を啜っているような音がする。

 目を開けようとするが不思議と瞼が重い。

 睫毛の隙間から見ると見慣れた天井があり、馴染んだベッドの中にいて身に馴染んだ夜具が掛かっている。

 濡らした布がクレドの頬や鼻の脇をしきりと擦っている。これが冷たいものの正体だった。

 布が顔から離れた。その布は血で染まっている。

 赤い新しい血と、黒っぽくぽろぽろと乾いた血の屑。

 

「クレドさま……」


 目と鼻の周りを赤くしたルピが、クレドの顔を覗き込んだ。


「おめめがさめてよかったのです」


 よほど心配していたのだろう、クレドの肩口に額をくっつけてくる。不安になった子犬そっくりだ。

 返答しようとしたが、口を動かそうとするとこびりついていた血で唇がごわついている。その上、口の中は血の生臭さが濃い。舌で触れると頬の内側が切れている。

 ようやっと手で体のあちこちを触って、少し動かしてみる。辛うじて折れても外れてもいないが、身体中に打撲や捻挫のような痛みがあり、あまり大丈夫な気がしなかった。


――何だ

――何が起こったんだ


 たしか、こうだった。

 帰ってきて窓を覗いた。

 明るい陽の差す外から、薄暗い小屋の中は見にくかった。手で土埃のついた窓ガラスを擦って目を凝らすと、いつも騒々しいルピがテーブルに向って何かをしているのが見えた。いつもならオオカミの耳で足音を聞き分けてどたばたと間口へ来るのに、奇妙に静かだ。

 それで、何をしているか、彼女の手元を見てみることにしたのだ。

 建付けのしっかりしていない窓の隙間に詰めた木屑を抜き取り、そこからふわっと入ってみた。

 真剣な顔をして、糸と針とを小さな手で操っているルピがいた。

 テーブルのはしにそっと載り、それを眺める。

 面白い顔をしている、と思っているうち、ルピがこちらを見た。うっかり目を合わせてしまったら、人狼の仔は顔を顰めた。

 そこからクレドには記憶がない。


 クレドはようやっと手を動かして、ルピの頭を撫でた。

 ルピは顔を上げ、大きな空色の瞳でクレドを見た。血飛沫がついたその手をルピは掴み、涙でべたついた頬に当てて、きゅうと鼻から音を出した。

 クレドは自分の口の痛みと血腥さに滅入りながら、訊ねた。


「ルピ、私はどうしちゃったんだ?」


 ルピの洟がぷくっと、吹きガラスのように脹れて割れる。


「おぼえていないのですか」


 クレドがまともに喋ったことにルピは安堵していた。

 堰を切ったように話し始める。


「そとからクレドさまのこえがしたのでドアからでたら、クレドさまがおはなからいっぱいちをだしてねていたのですよ」

「……」

「だからルピがここへはこんで、ねんねさせたのです」

「……ありがとう」

「わるものにやられたのでしょう!」


 ルピは話しているうちに興奮してきた。

 そばかす一つない幼児の肌が紅潮してくる。


「クレドさま! わるものがクレドさまをばちーんとしたのでしょう?」

「……いや……」

「わるものはわるいのです! みつけてルピがかみます!」

「ちょっと待ってくれ」


 人狼の仔は歯をむき出す。乳歯とはいえ、鋭く大きな牙が見える。

 動きに滑らかさを欠くものの、いつものように少し手を挙げて、クレドはルピを制止した。


「その時、周りに悪者は見えたか?」

「……いいえ」

「匂いは残っていたか」

「いいえ」


 もう、クレドには下手人がおおよそわかってしまっている。

 口の中で、切れた粘膜をひらひらさせながらクレドは喋った。


「……その前、ルピは何をしていたんだ」

「そのまえ?」

「私を見つける前」

「……ルピは、ぬいぬいをしていたのです。くれどさまのぬいぬいがへたくそだったので」

「……」

「そしたら、へんなのがいたのですよ」

「どんな」

「くろくて、ぼふぁっとしていて、これくらいのおおきさで」


 ルピは大きめのコップ程度の空間を両の掌で示した。


「おめめがあって、ルピをじろってみたのですよ!」

「可愛かっただろう」

「いいえ! かわいくないのです」


 ルピは顔を顰めた。クレドの記憶が途切れる直前の、そのままの表情だ。

 相手が少々凹み加減なのには斟酌なく、ルピは大声で思ったままを述べた。


「きもちわるかったのですよ!」

「……そうか」

「きもちわるかったのでばちーんってしたのです、こうやって……」


 ルピは平手で殴る動作をして見せた。ひゅんと虚空が鳴った。

 クレドは、腫れて完全には開かない目で、怪物を見るような眼差しをルピに向けた。


「そしたら、外からクレドさまの声がしたのですよ」


 ルピには何の悪意もない。

 叩かれただけで済んでよかった。

 もし掴まれて噛み砕かれでもしたら、もう彼はこの世にはいない。


「あのな、ルピ」

「はい」

「あれは、私だ」

「あれとはどれですか」

「ルピがぶっ叩いた黒いやつ」

「はい?」


 あの頭をころころと左右に傾げる所作で、ルピはクレドの顔を見た。

 クレドの小鼻の脇や目頭の窪みにはまだ血の跡が残り、顔の周りの髪も乾いた血で固まっている。青白いクレドの顔は腫れて膨れ、青かったり黒かったり紫だったり、不吉に色彩豊かだ。


「クレドさまはここにいるクレドさまでしょう?」

「うん」

「あのくろいのはクレドさまではありません」

「いや、あれも私なんだ」


 いつものように皮肉っぽい軽口で返したかったが、クレドの気力も口内環境もだらだらと話せる状態ではない。

 ルピは当然のごとく信じない。口をへの字にしてたしなめる。


「うそはだめなのですよ……にんげんはうそをつくとみんながいっていました」

「嘘じゃない、見てろ」


 クレドは、胸の上に両の手を翳した。

 柔らかな手の動きで心臓のあたりを囲う。

 そのまましばらく、動きを止めた。

 ルピは目を丸くして、クレドの手元と顔を交互に見ている。

 二人とも細く静かに一息つき、二息つく。

 何も起こる様子はない。


「あ、だめだ」


 失敗した奇術師の情けなさで、クレドは呟いた。

 

「今、元気じゃないから」

「げんきだとあれがでてくるのですか」

「うん」

「なにかたべるとげんきになるのですよ」

「口が痛くて無理」

「では、ぐあいがよくなるおどりをおどってあげます」


 ルピはぴょんぴょん踊りだした。

 村の子供がよくやるけんけん遊びに似ているが、片足ではなく両足を揃えて跳ぶ。

 オオカミのみならず、森の獣は月夜に踊るものだと猟師たちは言うが、おそらくこんな感じなのだろう。


「Ah-h-h-lol Mar-r-r-lol Ur-l-l-l'n Quol-l-l-n Nu-u-u-m」

 

 ひし形のそれぞれの頂点を跳び移りながら短い旋律と歌詞を繰り返し歌い、そのまま一〇分以上もぴょんぴょんやっている。


「いつまで続くんだ」


 クレドが声をかけると、ルピは一瞬こちらに顔を向けたが、歌と踊りは続けている。

 邪魔するなということらしい。

 様々にダメージを受けているので静かにしてほしいのはやまやまなのだが、幼いなりに一生懸命やってくれているということで、クレドは強いて気にしないことにした。


 ――人狼の歌は、なかなかいいものだな……。


 ぼんやり聞いていると、清音と促音の中、喉の奥から生まれる摩擦音が一か所のみに現れる。そこがアクセントになっていて、続けて聞いていると身の奥で何かが跳ねるような気がしてくる。

 

――あ、出せそうな気がする。


 少年の胸の奥底にもやもやと、そこにあるはずのない五感が宿る。

 そこに何か別の生き物がいるように。

 それは黒っぽい霧のようで、肉の壁には干渉されず外へ出てくる。

 言葉を口にしたことで傷が開き、血が滲んでいる唇が動いた。


「ルピ」


 短い名を弱々しく呼ぶ。

 ルピはクレドの顔を見た。

 黒っぽく内出血している瞼が震えている。

 なにか、不思議なことが起こる予感がした。

 幼いながらも、ルピはヒトを超える感覚を持ち森深くに生きる民だ。近づいてくるただならぬものの気配を感じている。

 ルピは慌てて左足を軸にくるんくるんくるんと回った。

 それがこの踊り納めのしきたりだ。そして最後にちょっとよろけるがぐっと踏みとどまる。


「クレドさま……」

「よく見ろ」


 そう言うと、クレドは目を閉じた。

 彼の胸のあたりに影が集まったような暗がりができている。

 それは、見る間に濃くなっていく。

 水に溶けるインクが時間を巻き戻すように。

 ふわふわと黒い塊はクレドの胸の上に浮かんだ。

 ルピがぶっとばした「きもちわるい」ものは、まさにこれだった。


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