萌芽
第10話 きっといやがらない
あれから、つつがなく、何度も朝は来ている。
まだルピは帰る様子がない。
そして毎日裸足で、森の中を駆け回って、食料を調達してくる。ふわふわと波打つ腰のあたりまである髪を三つ編みにして麻ひもで結わえ、シュミーズ姿に裸足で藪に入って大活躍なのだ。
昨日はほんのり赤いソレルの新芽をたくさんとってきて、炒め煮にしていた。
「クレドさま! ただいまなのです」
「おかえり」
今日も今日とて、彼女は何か収穫してきたらしい。
クレドは戸口のデッキの縁に座って、不器用に裁縫道具を操っていた。クレドの服は、王都の生家を出てくるときに、母が背嚢に突っ込んできたものだ。成長を見込んで、大人用の服の袖ぐり、袖口、裾をへたくそにしこたま縫い込んで丈を詰めてあって、数年前まではぶかぶかと着ていた。しかし今に至っては伸ばせるだけ伸ばしても腕や足もつんつるてんだ。
彼は自分の見てくれに頓着しないほうではあったが、自分のカトンボのような手首足首がにゅっと出た服を手袋やブーツでごまかしながら冬を越し、陽光明るく手がかじかまない今になって何かぼろ布を継ごうとしていた。
「きょうはこれをたべましょう」
ルピは尻尾をふさふさと振りながら籠を差し出した。そこには、はしりの木苺と一緒に、白っぽい短毛に覆われた細長い芽がしこたま入っている。何気なく触ってみたクレドは慌てて手を引っ込めた。その葉の縁は未熟ながら鋭い棘を生やし、指に刺さると存外に痛い。
「何だこれ」
「アザミのめなのです。ゆでて、おしおとバターをつけてたべるとおいしいのですよー」
人狼たちというのは質素ながら美食家らしく、幼いルピまでこのようなことを知っている。どうやってバターを手に入れているのか訊くと、彼らの共有財産としてわずかに牛やヤギが飼われているという話だった。普段は大切に可愛がっているが、死ぬと涙を零して悲しみ、悼んでから食べるという。丈夫な歯と顎、強靭な消化器を持っている彼らには、老畜や病畜の肉も問題はないらしい。
一方、肉はたいてい野生動物を狩って得ていて、その毛皮をたまに人里で塩と交換してもらうのだと言う。
それでクレドは純粋な疑問をぶつけたことがある。
「狩りというのは、オオカミの姿でやるのか? それとも人の姿で?」
「べんりなほうでやるのですよ」
当たり前だという口調でルピは答えた。
木に登ってリスを捕まえるときは人の姿、シカを追う時はオオカミの姿。
ビーバーやマーモットが巣の中にいれば人の手で引きずり出し、地べたをうろうろしているときはオオカミの脚と牙でとどめを刺す。合理的である。
クレドは森でアザミの芽を摘んできたルピの手と足を見た。
木苺の棘は鋭い。それにここらのアザミのロゼットは直径が大きい。固い棘のある古い葉の上へ踏み込まないと、小さな体のルピは芯から生えてくる芽は採れないはずだ。
「とげは痛くなかったのか?」
「だいじょうぶなのですよ」
「見せてみろ」
幼児のふくふくと柔らかい手足は、小さな擦り傷だらけだった。掌と足の裏の肌は見かけによらずしっかりと固いが、皮膚は皮膚だ。尖ったものを踏んで痛くないわけがなかった。
「手と足を洗ってこい。何か塗ってやろう」
そう言うと、ルピは嫌な顔をした。
「おくすりはいらないのです! ルピたちはこのくらいへいきなのです」
「いいから手と足を洗ってこい」
手足を洗わされたあと、ルピは、クレドに小屋へ引っ張り込まれ、
ルピはつるつるすべすべとした手の匂いを嗅ぎ、不満げだ。クレドが持っている薬類は皆、ルピにとっては嫌な臭いだった。
「これからおひるごはんをつくるのに、おててがくさいのです」
「私が作ろうか」
ルピはそわそわと、クレドを見上げた。
「いいえ! クレドさまはぬいぬいをがんばってください」
「私はぬいぬいよりは料理のほうが得意……」
「ぬいぬいをがんばってきてくださいなのですよ!」
最後まで言わせず、ルピはクレドを後ろからぐいぐいと押して、戸口から追い出した。
彼がまた布切れと悪戦苦闘を始めたのを確かめると、ルピは水瓶に汲んでおいた水を鍋に注ぎ、火にかける。
それから木箱を踏み台にして爪先立ち、小屋の裏へ繋がっている小窓を開けた。ちょうどそこへ来ていたミヤマガラスがさっと飛び立つ。
小屋の裏には、壁に沿って薪や粗朶が積んであり、その上に小さな動物の死骸が三つほど置かれていた。ミミズのような尻尾があり、頭と手足が落とされているその死骸を、窓の隙間から手を伸ばして一掴みに小屋の中へ回収する。
これはルピの秘密の戦利品だった。
それを狙って鳥はやってきたのだ。近くの梢で鳴くカラスに、ルピは小声で威嚇した。
「だめなのですよ! しっ!」
湯が沸くのを待っている間、ルピはここへ来る直前のことを思い出した。
その日、娘に持たせる貢物をまとめている母に、ルピはもらったおやつを差し出したのだ。
「おかあさま! これもクレドさまへのおにもつにいれたいのです」
育児疲れでやつれた母は困った顔をした。
「にんげんは、あまりこれをたべないのですよ」
「こんなにおいしいのにですねえ」
「おいしいけれど、にんげんはなぜかいやがるのですよ。やめておきましょう」
「なぜいやがるのですか」
「なぜかなのですよ」
ルピは不思議そうに唸って、干して軽く炙ったその小動物を骨ごと齧った。
この年齢だと世界は納得のいかないことだらけだ。まわりは、世界とはこういうものだというが、その理由を聞くとうるさそうな顔をされる。
ルピが人狼たちの棲み処へ帰される前夜、クレドはいつものようにぼろぼろの本を読んでいた。ふと風の音がして森から雪折れの音が聞こえると、彼は本を閉じて戸口から外へ出た。その足元について出てきたルピの横で、クレドは雪の上にしゃがんで目線を近づけてから、一段と輝く星を指さしてこう言った。
「あの星、きれいだろう? 一番光ってるあれ。わかるか? あれは天にいるオオカミの星なんだ」
その話は母から聞いたことがあった。ルピは返事として尻尾を振ってみた。
「そうか、おりこうさんだな」
しばらく彼は、雲の隙間に見える天のいろんな場所を、星が生まれる場所、生まれたばかりの星、きょうだいの星、もうすぐ死ぬ星、星が死んだ場所、と指し示した。
ルピは驚いた。暮らしの知恵としての季節を知らせる星の巡りや、天にましますオオカミの話などの言い伝えなら聞いたことがある。だが、こんな寂しい話は初めてだ。
寒気が錐のように刺さってくる中で、クレドはルピを指の長い手で撫でた。
「明日はきっと晴れる」
彼は、雲間に見える星々の下、ぽつんと一言そう言った。
そのとき、ルピは今更のように思い知った。
――このひとは、ずっとひとりぼっちだったのですねえ
年齢こそ十歳近く離れているが、ルピはクレドに「おきのどく」という気持ちがあり、ひもじい思いはさせないように頑張ろうという気概でここへ戻ってきた。
寂しさはおいしいものでならきっと埋まる、という幼稚な考えでいっぱいなのだ。
――これはたべるとおいしいのです
――おいしいとわかったら、きっといやがらないのです
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