第21話 いてはいけない

 翌朝、クレドはなかなか寝床から起きてこなかった。ルピが丸パンをたくさんこしらえて、起こしにきても目を開けない。


「クレドさま! あさごはんなのですよ! あったかいうちがおいしいのですよ」


 呼び掛けて揺すっても目を覚ます気配がない。

 

「ルピはおなかがすいたのですよ! いっしょにあさごはんをたべましょう」


 少年は応答しない。

 その細く尖った鼻に開いた二つの穴に、ルピは人形に飾っていたクサイチゴの花を一本ずつ挿してみた。水分が抜けて皺がよった白い花びらは、クレドの呼吸の度に貧相に揺れる。人の鼻に挿されて花びらがふるるるっと揺れる眺めはなかなか珍妙なものだ。

 ルピがもう一輪ずつ突っ込もうとしていたところへ、窓の小さな隙間からあの真っ黒い塊が煙のように入ってきた。最近になってアルノーと名前をもらった、あの不気味なふわふわだ。小さな隙間から入ってきて薄っぺらくなったそれは、一度空中で丸く塊を成しふわふわとクレドの胸に止まる。そこで溶けて拡がり色を失いながらクレドの胸に沁み込んでいく。この炭の粉の塊みたいなものはクレドの意識を持つ何かということだが、ルピはあまり好きになれなかった。それに最近少し大きくなったような気がする。やはり気持ちがいいものではない。

 クレドが目を開いた。同時に、彼は鼻孔の異物感に大きなくしゃみをし、挿されていたクサイチゴの花は吹き飛んだ。ルピはそれを見て笑い出した。


「おはようございます、クレドさま」


 クレドは鼻を手の甲でがしがしと擦り、もう一度くしゃみをした。


「おはよう、ルピ……なんか鼻がものすごくムズムズしたんだが」

「おはなにおはながはいっていたのでくしゃみしたくなったのですよ」


 床に落ちていたクサイチゴの花を、ルピが拾い上げて見せた。他人の洟や唾液に対する忌避感は人狼にはないらしい。


「なんで私の鼻に花なんか入ってたんだ」

「ルピがかざったのです」

「なんで」

「あさごはんなのにクレドさまがおきないので、ルピがおこっておはなをかざったのですよ」

「だからって鼻にものを突っ込むのはやめてくれ」

「ごめんなさいなのですが、おもしろかったのですよ」


 小さな手に汚れた花を握っているルピに、クレドは少しばかりぞっとしない顔で言う。


「とにかく、その花、ばっちいから捨てろ。それから、手を洗え」

「クレドさまのおはなはばっちいのですか」

「誰のでもばっちい!」


 ルピが扉から出てぴょこんとデッキから飛び降りその辺に花を捨て、裏の水場で手を洗って戻ってくる。そして、暖炉の燠でパンを温めながら尋ねる。


「クレドさま、アルノーはなぜとんでいっていたのですか」

「ちょっと探しものをしてきた」

「おいしいものなのですか」

「いや、食べものじゃない。草だ」

「くさならそこにたくさんあるのですよ」


 温まったパンの皮を破き、そこへチーズを詰めこむととろっと溶ける。それをルピはイヌ科そのものの頬張り方で口に入れて少し噛み砕き、飲み込む。ムギナデシコのスープを飲み干して朝食は終了だ。一方でクレドは子どものころの教えに従い、典雅にパンを割って食するが、それを胃袋に余裕のあるルピがじっと見つめる。以前は食べにくいことこの上なかったが、この人狼の仔の凝視にももう慣れたものだ。


「セイヨウイグサが欲しいんだ。そこらへんにもあるけども、長く伸びたのがいい。川べりに長いのがあったから一緒に採りに行こう」

「なににするのですか」

「ルピの靴を作るぞ」


 やっと食べ終わった食器を洗い桶へ運びつつ、クレドが言う。ルピは、口をへの字にした。


「ルピははだしがいいのですよ」

「いつもはそれでいい。でもせめてアザミやいばらの上を歩くときは靴を履くんだ。ルピの足の傷を見ると、私も痛い気がしてくる」

「クレドさまがいたいなんてへんなのですよ?」

「ルピが痛い思いをしたと思うと私も心が痛むんだ。だから履いてくれ」

「ふーん、なのですねえ」


 鹿爪らしくルピが言う。


「では、とげとげのところだけなら、はいてあげてもよいのですよ」

「はいはい、履いてくださいお嬢さん」


 ふざけた節をつけて答えてから付け加える。

 

「ついでに、イチゴとアフィナも採ろう。クマが来たら教えてくれ」


 食べ物の話になるとルピは是も非もなく賛成だ。そして自分が恩人にとって非常に有用な場であるなら、この人狼の仔はさらにご機嫌になる。


「おべんとう! おべんとうをもっていくとよいのですよ!」

「そうだな」

「ルピがおべんとうをつくるのです! このあいだつかまえたうさぎのあしもいれるのです!」

「それは大したご馳走だ」


 小さなおさんどんは、きれいに煮沸した布巾にパンやらウサギの腿肉の燻製やらを包んだ。その間、クレドは鎌や麻袋、蒸留した酒の小瓶を背嚢に入れる。

 こうして二人は身支度を整え、小川へセイヨウイグサを採りに出た。

 夏の陽を浴びて育った頑丈な草は、群生し地味な花穂かすいをつけている。

 一束掴んでは鎌でザクザクと刈るクレドの横で、まどろっこしいとばかりにルピが大きな株を引き抜き、すぐ脇を流れるせせらぎを濁らせる。この春生まれたと思しき小さな魚が慌てて逃げて行った。


 クレドの母はこの森で動植物を採集するとき「本当に必要な分だけ採りましょうね」といつも言っていた。


「私たちは、生き物の命にできるだけ干渉しないようにしなければいけないのよ」

「どうして? みんな木を切ったり引っこ抜いたりしてるのに」

「私は、この世界にいてはいけない人間だから。そして私が生んだあなたも」

「いてはいけない人間?」

「ええ、いるだけで世界を壊してしまう人間よ」

「……母上、母上と私は、呪われた人間なのですか?」


 そう訊ねると、母はクレドを抱きしめ悲しそうに言った。


「呪われてなんかいないわ。だけど、私とあなたは本当はこの世に生きているはずのない人間なのよ」


 母は子を成したことをずっと悔いていた。それはクレドにも薄々わかっている。

 母はすでに父を殺していた。

 自分も殺されるかもしれない。

 腕の中で身を固くする幼い息子に、彼女はこう言った。


「どうすればこの世界で生きていても許されるのか、一緒に探していきましょうね」


 その言葉を思いながら、クレドは日々の糧を山野から得、精油を作って糊口をしのいでいる。

 知識を蓄えろ。

 慎ましく、目立たず生きろ。

 それが母の教えだった。


 一方でルピは無邪気なものだ。怪力でどんどん水辺のイグサを引っこ抜く。小川の岸はどろどろにぬかるんでしまった。イノシシたちが後でやってきて、きっと泥浴びを楽しんでいくだろう。


――妹というものがいたら、こういう感じだったろうな


 そんなよしなしごとを思いながら、刈り取った、あるいはルピに引っこ抜かれたセイヨウイグサを小川でざっと洗っていると、おひるなのですよと甲高い幼女の声がする。見ると、向こうの乾いた場所に麻布を広げて弁当を開き、ルピがクレドを待っている。

 カワヤナギの梢でアオガラが鳴いている。全くのどかな日だ。

 彼の記憶は現実よりいつも残酷で汚らわしく、この穏やかな日々とはきっかりと鮮やかな明暗差があった。今ここにこうしていることを神に感謝したくなる。

 小川の水とサボンソウで洗った手を酒を染ませた布で拭き、彼は昼食の席についた。


 持ち帰ったセイヨウイグサは小屋の前のデッキに干した。

 しっかり乾いたら石で叩いて繊維を密に、しなやかにする。ルピがやると言うのでクレドは試しにやらせてみたが、繊維が断ち切れる程に叩き潰すので優しく叩くことを教えなければならなかった。

 そして、あの行商団のテラコッタ屋の女将がやっていた通りに扁平な紐状に編む。最初は緩んだり引きすぎたりで編み目が不揃いだったが、編み続けるとそこそこの出来になっていく。

 長く長く編んだイグサの紐をぐるぐると平らに巻いて、少し歪んだ楕円形に成形して糸で綴じる。何度も何度もルピを呼んでは足裏を出させ、形を合わせながらの作業だった。

 固い草の繊維に帆布用の針を通すのは骨が折れる。指から血を滲ませながら、二日かかって靴底が完成した。靴の甲を裁つのに幾度か失敗して古シャツ一着を完全にぼろ屑にしてしまい、何とか足のかたちに合う布を裁ち出して縫い付けるのにさらに三日。

 失敗した裁ち屑から作ったリボンを申し訳程度に甲に飾って、何とか完成だ。

 少々……いやかなり不格好だが素人の初挑戦にしてはまあいい方だろう、とクレドは思った。

 ルピは、何度も何度も呼びつけられて靴の形をとられたり試し履きさせられたりでげんなりしていたが、出来上がった靴を履いて、物珍しそうにぴょんぴょん跳ねている。リボンも気に入ったらしい。

 ルピが飛んだり跳ねたりしても一応型崩れはしない。なんとか堅牢ではあるようだ。

 クレドは安堵し、疲労感からテーブルにべたんと突っ伏した。長い黒髪がぼさぼさだった。


「どうしたのですか」

「疲れた……慣れんことはするもんじゃない」


 しかしその三日後、のど元過ぎれば熱さ忘れるの言葉通り、今度は自分の草底の靴を作るために彼はまた悪戦苦闘するのだった。夏のブーツの暑苦しさと履く手間の煩わしさは、やはりこの少年をうんざりさせていた。

 





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る