第3話 私の母の言うことには

 そう言い放ちながら、入ってすぐのテーブルにカンテラを置き、懐に抱いていた重かった荷をそっと床へ下ろした。毛布の下から姿が現れる一瞬、猿とも犬ともつかぬ奇妙なものが見えた。が、見る見るうちに、灰色の毛むくじゃらなオオカミの仔になった。くくり罠のばね仕掛けがごとんと床にあたって、人狼の仔は顔を歪め悲痛な声をあげた。

 その声はもう、先ほどまでのものとは違う、完全な獣のものだった。

 完全なオオカミの姿であるときは、人語を操れなくなる、と何かで読んだが本当だったのだな、と思いながら、毛艶の悪い痩せた背中をちょっとだけ撫でてやる。それから彼は被っている家畜用の毛布を、かさぶたのような塊になっている雪を落とさないようそっととった。

 毛布の下からは、癖のない黒髪が重たげに流れ出した。ものぐさで、伸ばしっぱなしになっているのだ。きつく釣りあがった切れ長の目には、虹彩の光が当たる部分に濃い灰色を一刷毛刷いた黒の瞳が嵌っている。

 この色の目も髪も、このあたりでは珍しい。王都の方では異民族の流入もあるのでそう珍しいわけでもないのだが、村人たちがあからさまに彼を異端視する一番の要因がこれだ。

 ひょろっとした体躯と肌艶の悪いこけた頬、鋭い目つきに細い鼻梁が通り、少年らしさがまるでない。表情の読み取りにくさも身のこなしもまるで大きな鳥か、もっとぬくもりの少ない動物のようで、これも身を寄せ合って生きてきた村人たちには悪魔的に見えるようだった。


 毛布の下に着ていた、もとは作りがよかったと思しきボロボロのコートを脱がないまま、彼はカンテラからランプに灯りを移した。半分ほど水が残っている鍋がかかったままの暖炉の灰を木の棒でひっかきまわし、埋み火を掻き立てて粗朶そだをくべ、。

 ぱちぱちという音を聞きながら、先ほどの毛布をドアの外で振り回して雪を落とし、外の荷橇から荷物を小屋へ運び込んでテーブルの上にどんと置く。それから手袋をはずし、チロチロと火が上がる暖炉に手をかざして温めた。

 時折長い手指を動かし、入念に揉む。

 それが終わると、かじかんだ指は何とか動くようになった。

 それからごそごそとテーブルの下にある木箱をひっかきまわし始め、はさみやプライヤーを掴みだした。それを暖炉の火であぶり始める。

 その間、件の半獣はきゅうきゅうと小さく鳴き続けていた。


「よし、今から取ってやる」


 湿った毛をぼさぼささせてみじめそうに震えているちびすけを、彼は明るい暖炉前に抱えてきて、胡坐の膝の上にのせた。

 くくり罠の針金は右脚に輪状に食い込み、皮膚を破って肉が見えていた。骨は何とか露出していないが、傷のあたりは毛の付いた皮膚がひらひらし、肉はざっくりと裂けて干し肉のように黒変している。救いは、右足の先がまだ壊死もなく温かいことで、血管や神経はまだこの肢を繋いでいる。

 彼は少し黙った後、少し明るい声を出した。


「なんだ、大げさな。大丈夫じゃないか」

「きゅう」

「痛いだろうが動くなよ」


 少し冷ましたはさみで、傷の周りの毛を少し刈り込んで、ボロボロの皮膚を切り取る。


「くくり罠はな、この輪になったところが外しにくいんだ」

 

 そう言いながら針金を通したカシメを小さなプライヤーで切る。

 そこさえ外せば、簡単に緩められる。

 肉に食い込んだ針金をはずすのはこちらまで痛みを感じてしまうような作業だった。

 針金がばりっと組織から剥がれる。

 外れた罠が、がたんと床へ落ちた。

 彼は詰めていた息を吐いた。同時に、幼い人狼もため息をついた。

 しかしまだやることはある。


「ちょっと待ってろ」


 傷を湯冷ましで洗った後、嫌な臭いのする酒を出してきて傷に垂らす。

 人狼の仔は、彼がまた火に炙り始めたものを見てまた鳴き始めた。

それは、鉤のように曲がった針だった。


「少し痛いが、大丈夫、また走れるようにしてやる」


 少し痛いどころではないのはわかっていたが、彼は手早く傷口を縫い始めた。この時代、このあたりでは外傷は手の施しようがないと見るや否や十字型に切開し、悪魔を追い払うために塩をかける。王都でも縫合術を身に着けた医師はまだ少なく、秘術としてかくされていた。そして、まだ細菌やウィルスというものに対する認識は誰にもない。

 しかし、彼にはそれがあった……後世の細菌研究の黎明期と同程度には。

 それは、彼の母から伝えられたものだ。そして時折、彼はこう思う。


――母上、あなたの生きた世は、人々はみな幸せであったのだろうか


 ともあれ、このことは誰にも言わなかったし披露もしない。どうせ悪魔の技として恐れられるのがオチで、捕らえられて申し訳程度の裁判で火炙りにされる。それはごめんだった。


 オオカミは最初の二十秒の間、甲高く鳴き一度身じろぎした。

 そして縫い終わりに黒い絹糸を切るとき、また鳴いた。


「はい終わり」


 彼はそう言うと、針をぼろ布で拭き、もう一度軽く炙ってから暖炉の火掻き棒の脇においたピンクッションに刺した。針穴に残っていた絹糸は、火の中に投げ込んだ。

 もう一度、傷口にあの酒をびしゃびしゃと掛け、布切れを巻く。


「普通の医者はなかなかここまでやらんぞー? んー?」


 やっと人心地ついた彼は、大きな仔オオカミを持ち上げて鼻が触れ合わんばかりに顔を付き合わせた。

 相手もやっと安堵したらしく、目をクリクリとさせてこの変な少年を見た。

 しばし見つめ合った後、少年は目を細めて笑った。

 笑っても年寄り臭さが抜けないが、鋭い印象は随分と和らぐ。心の根っこの部分にあるやさしさがふわっと滲み出るような笑顔だった。


 こうして見ると、呪われた怪物の仔とはいえ、なかなかいい顔つきをしている。小さなしぼのある鼻は愛らしかった。近くで見るその目は、苦痛に耐え続けて溜まった目脂に縁取られてはいたが、夏空のような美しい青だった。

 だがその可愛らしさを覆い隠してあまりあるのはその体臭だ。

 雪穴の中で垂れ流しだった臭いが、温まった体からさらに濃く立ち上る。

 彼の目はちょっと下へ注がれていった。


「ああ、雌か」


 そう言われて、半獣の仔は一声ひゃんと鳴き、ばたばたと手足を動かした。幼くても女性は女性なのだろう。

 無神経な言葉はまだ続く。


「君は、ずいぶん可愛らしいがものすごく臭いな」

「きゅう」

「今日は勘弁してくれ、明日洗ってやる」





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