第2話 おうたをうたう

  

 そこまでは誰でもよくやることだろう。

 そこからの動きだってたいてい読める。


 振り落としてしりもちをつく。

 それから、這う這うの体で逃げ出す。

 もし、肝が据わっていれば腕に抱えたものをあらためる。

 それから、頭を狙って何かを振り下ろし、叩き潰す。


 ところが、彼はどの行動もとらなかった。

 まずい、と思っても浸る暇はない。足元に積もり天から落ちてくる白い六角形がそれを許さない。年齢のわりに度胸、それから離人症めいた怜悧さだけはたっぷりある。

 周囲にはこの獣の縁者はいないらしい。それさえわかっていればいい。とりあえず彼は、この生きものを荷橇にぞりに載せて運ぶことにした。

 下ろそうとすると、捨て置かれると思ったのか、それはまた鳴いた。


「あんよがいたいのですよぅ」


 きゅうきゅうと泣く子犬のような声は、少しだけ明瞭になった。

 このあたりでは、人狼は人の姿でないと人語を操れないと伝えられていた。

 抱えた獣の頭の方が徐々に、しかし確実に重くなってきている。何やら、変形しているような気がする。


「姿を変えるな! よけい針金が食い込むぞ!」


 声変りがすんだばかりの喉から鋭い声が飛んだ。


「でも」

「でもじゃない。うちについたら外してやるから、大人しくしろ」

「だっこがよいのです」

「贅沢を言うな」


 毛布の中の毛むくじゃらは若干の変形の気配を保ったままで少し黙り、それからおそるおそるの声がした。


「おうたをうたってもよいですか」

「仲間を呼ぶのか」

「いいえ」

「もし呼んだら、そいつは外さんぞ」


 彼はぶっきらぼうだったが、発声や言葉の端々が、よく言えば賢しげで典雅、有り体に言えば高圧的で分別臭い。とりつく島もない少年の声に、哀れな仔はこう言った。


「ちがうのです、おまじないのおうたをうたうのです」

「何のまじないだ」

「ぶじにおうちにかえれるおうたなのです……あなたさまがおうちにはやくかえれるように」

「仲間を呼んで、私を襲わせるような『おうた』じゃないだろうな」

「ちがうのです……はやくおうちで、このいたいものをはずしてくださいなのですよ」


 人狼の仔は、どこで学んだのか言葉遣いはたどたどしかったが丁寧だった。村の子供たちよりも王都で使われているアクセントにずっと近い。 


 小脇に抱えた半獣を抱えなおし、きしきしと歩みを進めながら彼は言った。

 

「小さい声でならいいぞ」


 そう言ったとたん、か細い歌が始まった。

 単調で、旋律の繋がりが奇妙で、歌と呼んでいいのかわからない。

 でもこの人狼が歌というなら歌なのだろう。


 O' cohho cohho alita tattah wohnna wohnna

 A' nn hown n'how hattat atila Oh hoc Oh hoco


 こう聞こえた。

 意味は全く分からない。

 帰ったら書き留めておかなければ、と思いながら彼は前へ進む。不思議と、脚の沈み込みが浅くなった気がした。

 そう、あくまでも気がしただけだ、と彼は白い息を吐きながら思う。思うが、本当に足を雪から引き抜く労力は軽減されたようだ。

 細い喉から出る歌声は切れ切れで、時々途絶える。

 もう、べそかき声だった。



――痛いのだろうし、寂しいのだろう

――それに、私が本当に善い人間か、不安でもあるだろう


 そう思うと、この謎の音声の羅列「ぶじにおうちへかえれるうた」が荒い息の下、彼の口を衝いて出た。


「オォ コッホ コッホ アリータ タッター ウォーンァ……」


 まるで赤ん坊の喃語だ。しかし、その声に勇気づけられたのか、すすりあげながら半獣の仔は唱和してくる。

 歌いながら、彼は足がずいぶん軽くなったように感じていた。それでもこの少年は、いわゆる労働歌の効果程度に思っていた。十四歳にして彼は信仰や伝承、風習などには懐疑的で、そこがこの時代の人間じんかんで暮らせない一因でもあった。

 それでも、存在するものをいないと言い張るほど、自分の知覚を疑ってはいなかった。例えば、この腕に抱えた人外の存在についてなどだ。


 それから半時ほどで、彼らはやっと、目指した場所へ辿り着いた。

 少年がうちと読んでいたのは古い森番小屋で、昔この辺りの領主が狩猟をしていたときの名残だった。


 一昔前、このあたりの領主は獰猛な犬をたくさん連れてオオカミを狩っていた。敵の死骸を見せびらかす軍隊の凱旋よろしく、たくさんのオオカミの死骸を吊るして道中の見世物にしながら館まで帰ったという。森番は領主の狩猟に都合が良いよう動物を守り、下賎の者の立ち入りを規制し、林道を保全するのが仕事だ。しかし、領主の狩猟対象が家畜を襲う害獸だったため特に保護するようなこともなく、村の猟師は森の奥に入り放題で、この小屋は単なる休憩所と化していた。

 ところが十年ほど前のある日、善男善女の面前で恐ろしいことが起こった。領主が狩った年古りた巨大なオオカミが、温もりが消えていくにつれ、ゆっくりと人間のかたちへ変わっていったのだ。その骸は時おり村へぶらりと現れて農作業を手伝い、パンや卵をもらってどこぞへ帰っていく気のいい爺さんのものだった。

 領主をはじめ、その場にいたものは無残な老人の死体の前で一様に震え上がった。

 それ以来、ここは誰も立ち入らない。誰の口にも上らない。

 森の辺縁ではみな、頻繁に十字を切りながらきのこや薪を採り、材木を切り出す。少し奥では猟師がウサギやシカ、毛皮用のキツネやテンを捕っているが、必ず行きと帰りに教会へ立ち寄る。そして、領主の狩猟用地であると示す朽ちた看板から先へは決して入ろうとしない。


 だからここは、人を避けたい彼にはよい住処になった。


 石を積んで高く作られた床束とこつかのせいで、十二段ほどきざはしを上らないと入れないのだが、雪が積もってせいぜい三段昇ればポーチデッキに上れる。

 扉はポーチに弧を描いて重い雪を圧しのけ、仮寓の主を迎えた。


「ただいま」

 

 もちろん誰もいないが、彼はそう挨拶した。身に沁みついた習慣なのだろう。


「さあ着いたぞ」

「はやくいたいものをはずしてくださいなのです」

「その前に」


 彼は苦しげに息を弾ませていた。これでも必死にこのお荷物を抱え、荷橇を引いて、彼にとっての最速でここまで帰り着いたのだ。


「元の姿に戻れ。人のかたちに似たものは立ち入り禁止だ」


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