第24話 竜なんてどこにもいない

 

 その夜、クレドは懐かしく、そして悲しい夢を見た。


 父を刺し殺した後、母はクレドを連れて放浪の旅に出た。

 その頃の夢だ。


「母上、どうしたのですか」

「もうすぐここへ追手が来るのですよ」

「なぜわかるのですか」

「それはいつか教えます。今は時間がありません。さあ、これを飲んで」


 母は追手が迫るとクレドに妙な清涼感のある茶を飲ませる。茶など飲んでいる場合ではないと思うのだが、母はにこにこしている。


「大丈夫。私を信じて」


 そう言いながら、母はこの世でただ一人の生きるよすがとなった息子を抱きしめる。そうしているうちにクレドは眠りに落ちる。

 目が覚めると自分は絹のクッションを敷き詰めた大きな衣装箱の中にいる。

 蓋は大きく開かれていて、外気が顔を撫でる。起き上がって見まわすと、草地であったり岩場であったり不潔な路地であったり、と、その都度景色が違った。そして母がまたにこにこと言う。


「おはよう」


 そういうことが幾たびもあった。現在のところ、この森がその終着点だ。


 衣装箱は外は山羊皮、内は繻子張りでおそらく値の張るものだった。ひどく頑丈で、外側からかける鍵は取り外され、小さな窓になっている。その代わり内側にはいくつも留め具がついていた。留め具は普通外側についているもののはずだ。だから、この箱は中に人間を入れるためのものなのだろう。少しばかりの手荷物を入れてもさらにもう一人程度は入れそうな余裕があり、おそらく自分が眠っている間、母もこの箱に入っていたのだ。

 クレドは、自分も母もこの箱に入っていたのであれば、誰がこの衣装箱を運んだのだろうと訝っていた。そもそも、その辺の駄馬が引く馬車など、騎馬の追手にはひとたまりもないはずで、彼はどうして自分と母が逃げおおせられるのかがわからなかった。訊ねても、母は神様が運んでくれるとしか言わなかった。

 さらに不思議だったのは大量の書物や何とも知れない道具類だ。

 人殺しとして流れ流れているというのに、異常な量の書物が行く先々に運ばれた。夜半、クレドが寝入ったのを見計らい、母があの巨大な衣装箱と一緒に消える。クレドは気づいていたが、そのままぎゅっと目を瞑り、独りの夜をやり過ごしていた。そして、翌日選りすぐりの本や母の使う呪具のようなものをぎゅうぎゅうに詰めて母は笑顔で戻ってきている。母はそれを読み、使い、さらに自らの知識も書き記し、クレドに伝えようとしていた。今この小屋の壁を埋め尽くす書物がそれだ。

 おそらくこれらは真っ当な手段で手に入れたものではないというのはわかる。しかし、たとえ盗んだにせよ、なぜこれだけの書物を揃えられたのか。到底、女子供が運べるような量でもなく、助力する者の姿も見えない。

 しかし、協力者の代りに、クレドは一度だけ奇妙なものを見たことがある。

 それを見たのは、この森へ来てすぐの満月の夜だった。

 母が巨大な箱とともに消え、彼が一人きりで眠っていた夜だ。

 少年は小屋の窓ががたんと鳴る音に目を覚ました。

 窓覆いの木戸が壊れ、蝶番から外れて落ちたのだ。

 そして気づく。月明かりが不規則に差し込んだり陰ったりしている。

 風の音がいつもより激しく、そして規則的に感じられる。

 それで、クレドは外を窺って、窓のすぐそばに来ているものに気づいた。


 それは、竜だった。

 彼はそう思っている。


 満月の下、その生き物はくすんだ銀のような暗い灰色の鱗に包まれ、大きな膜状の翼を丁寧にたたんでいた。

 その鱗は存外に柔らかそうだった。母が教えてくれた恐竜という太古の生き物のように、半ば羽毛のように見えた。

 頭部や首周りの鱗は尖らず、丸みを帯びた優美なかたちで長く伸び、冠羽やたてがみのようだ。


――きれいだな


 クレドは、そう思った。幼いころから不条理な目にばかり遭ってきたせいか恐慌に陥ることもなく、彼はただぼんやりと見ていた。

 その生き物は、そのころ住まいと定めていたぼろぼろの廃屋の前に静かに舞い降り、鋭い鉤爪の生えた足を片方、何かにのせて立っている。その何かをしきりと気にしているようで、おもむろに顔を寄せる。

 クレドが目を凝らすと、そこにあるのは例の衣装箱だった。皮張りで、真鍮の補強が格子状に表面に鋲打ちされている。間違いない。

 あっと言いそうになる声を飲む。その気配を感じたのか、竜は長い首をもたげ、ふりむいた。

 目が合った。

 灰色の竜は大きく目を見開いた後、すいっとその大きな黒い目を細めた。

 クレドはその瞬間、氷晶石のなかの白い金属が発火するような光を感じた。

 目で見ているわけではないのに視える。

 その光は彼の頭蓋の中だけにあった。

 クレドは目をぎゅっと瞑り耐えがたい光にうずくまる。

 竜にはさほど感じなかった恐怖が、彼の体を震わせた。


 そして、いきなり口の中いっぱいに広がる血の味。

 いつの間にか、夢の中の時は十四歳の頃の拷問のような夜へと移っている。

 クレドは母のベッドの脇で泣き伏していた。

 病に倒れて数か月。

 知識はあった。しかし技術も薬剤もない。そんな世界でできうる限り、彼女は健やかにあろうとし、病魔と闘った。本来ならばもっと早く、そして苦しまずに逝っていただろう。

 死の床で、クレドの母は荒い息の下でこう言った。


「……私の脳を、食べてくれたら……」


 それは、幾度となく母からこいねがわれたことだったが、そのたびにクレドは強く拒んでいた。


「助かりっこない……わかってるでしょう」

「わかっていても、こんな……こんな……」


 自分の変声期の嗚咽は思い出してもとても醜かった。


「私から離れなさい。この母に敬意を払いなさい」


 幽鬼さながらにやせ衰えた母は、気力を振り絞り、表情と声のかたちを正した。


「私の最期の願いが聞けないのですか」


 クレドは嗚咽しながら母の体から離れた。震えながら言う。


「できません……できません、母上」

「だったら、これを飲んで」


 母はいつの間にか持ち込んでいたナイフでいきなり手首を切った。

 枕もとにあった飲み差しの白湯が入ったコップの中身を平素からは思いもよらぬ乱暴さで床にぶちまけ、母はそこへ流れる血を溜め始めた。

 とびかかるように母の腕を押さえ、クレドが止血を試みている間も、母はコップを放さなかった。彼女は切れ切れに言う。 


「飲みなさい……どうか飲んで。私があなたに飲ませるものはこれでおしまいだから、どうか……今、私が目を瞑る前に」


 それはもう、息子への命令の範疇を超え、死期の迫ったものの祈りだった。


「……脳がだめなら……さあ、全部飲んで」


 クレドは吐かんばかりの思いでコップを口にし、中身を飲み下した。空になった、血に汚れた白樺のコップを見て、母は微笑んだ。

 

「それでいいわ……これでリミッターはほぼ解除された」


 そして少しだけ嘆いた。


「ああ、これが脳だったら……」

「もう沢山です、母上!」


 血糊にべたつく口でそう叫んだ途端、時間が止まったような感覚が襲ってきた。

 クレドの前に真っ白な空間が出現した。

 眩しくて目が開けられない。

 白い空間は、当然ここにはない。

 あの白い光だった。

 激しい光芒が感覚を満たしている。

 それは、以前竜を見たときに起こったものの数倍の烈しさだった。

 海馬がさざなみを蹴散らすように、熱を帯びた微かな振動が、頭蓋の中心から脳全体へ、そして脳幹を伝い脊髄、腱や筋肉、臓器まで伝わっていく。その感覚に襲われた部分が痺れ、母のベッドの端に手をついて身を支えようとしたが、もう力は入らない。彼は崩れるように倒れた。

 全身に麻痺が広がったあと、一瞬クレドは大きく震え、血交じりの泡を鼻と口から噴きだす。忌むべきことに、それは法悦の感覚に似ていて、彼は全身に鳥肌を立てた。

 床に倒れて痙攣する彼の耳に母の声が届く。

 彼女は、荒い息を必死に整えながら、ゆっくりと言った。


「……私の竜を、あなたにもあげましょう。私の竜よりも強く、すべてにおいて優れた竜を……」

 

 そこからしばらくクレドの記憶は飛んでいる。

 白い光がふと途切れ、目の前に見知った世界が戻ってくると目の前に母の遺体があった。

 そっと触れた途端、母の遺骸は、ふわふわとした灰のようにみるみる崩れ、虚空に溶けていった。

 息子にかかっていた封印を解いて、母はどこかへ還っていった。

 まるで存在自体が魔法だったように。



 朝、夜明けとともにルピは目を覚ました。

 いつものように、寝床に未練もなく身を起こす。

 一つあくびをした後、子どもらしくくびれの曖昧な手足を突き出し、ぐーんと伸びをする。

 そして、主のベッドを見て、ルピはきょとんとした。

 クレドがいない。

 人狼の娘はあたりを見回し、くんくんと匂いを嗅いだ。

 いつもルピより起きるのが遅く、まだ寝ているはずのクレドが小屋の中にいない。

 耳を澄ます。

 外から溜め息、それから独り言が聞こえた。


――竜なんて、どこにもいないじゃないか……


 それはテラスの、粗朶を置いているあたりだ。積み重ねた粗朶を長椅子代わりに、よくクレドが寝そべっている。


「おはようなのですよ、クレドさま」


 勢いよく小屋の扉を開け、ルピがやや訝し気に挨拶する。

 ぼんやりしていたクレドはびくりとした。いつものように長々と、ではなく心持ち丸まり気味に寝そべったまま、彼は首だけ動かして小さなおさんどんを見た。


「こんなあさはやく、どうしたのですか」

「ちょっと、怖い夢を見た」


 クレドの顔はいつも以上に血色が悪かったが、目だけは真っ赤だった。


「そんなときは、ひとりでいてはいけないのですよ。どんなゆめだったかおはなしするとこわくなくなるのです」

「……いつか、話す。今はちょっと難しい」


 クレドは黙って右手でぐしぐしと顔を擦る。

 ルピは彼の頭の方へちょこちょこと行くと、床につくほど長く伸びた黒髪に絡まった粗朶の屑をとり、その頭をよしよしと撫でた。そしていつかクレドのために歌ったことのある「げんきがでるうた」をひとしきり歌った。少しだけクレドも歌い、やっと身を起こして立ち上がると、ルピが尋ねた。


「げんきになりましたか」

「……うん」


 ルピは満足そうに鼻を鳴らした。



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竜使いとおおかみむすめ 江山菰 @ladyfrankincense

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