第3話
「それじゃあ、切るね。じゃあね、ハルさん」
時計は十時半。今日の最後の電話は終業ギリギリに掛かって来てからの長電話だった。一分二百円が三十五分で都合七千円のあがりと言うことで経営的にはありがたいお客さんなのだが、そして相談内容にこちらが不満を持っていいとしてもそんなものはないのだが、今日は仕事の後に重要な約束がある。急いでアプリを落とし、小夜にメールを送る。
『ごめん。仕事が押した。五分後に家を出る』
送信してから身なりを整えて、出発する。メールの返ってきた音。
『来てくれればいいよ』
今日初めて出た外は、初夏の匂いが強烈に立ち込めていて、それはまるで命の真実のようで、急いでいたにも関わらず立ち止まって深呼吸をしたら、むせた。
住んでいるマンションから湯島の駅までは徒歩十五分くらいで、待ち合わせのバーはその九分目くらいの場所にある。街灯に照らされるゆらぎもまた、夏の精なのだと思うと歩みが遅くなる。違う。俺が一つひとつに気持ちを奪われるのはそれらが素晴らしいからと言うのは半分だけの理由だ。もう半分は、小夜のところに行きたくないからだ。それが自分の撒いた種が大きく発芽したことによる結果だと分かっていても、目を背けたい。今日行かなかったからと言って変わる訳ではない結末を先送りにしたい。お互いにとって人生の損失でしかないような時間だからと結論したくない。俺にとってはそうじゃないから。
それでも一歩歩めば一歩進む。背中を見せて走って逃げたとしても同じ夜がまた来るだけだと言うことは分かっている。道は前にしかない。小夜のところに向かう以外はない。
最後の立ち止まりと決めて、大きく深呼吸をする。体の中に初夏が満ちる。今度はむせない。季節に勇気を貰って、今度こそ早足で店まで向かう。
いつものバーの入り口なのに、怨霊でも飼っているかのようなおどろおどろしい気配がして、立ち竦む。いや、これは店のせいではなく俺側の問題だ。俺の入りたくない気持ちが投影されているのだ。
右手を剣に見立てて、す、と悪のオーラを切る。開いた空間に進む。覚悟は決めてからも揺らいではまた固まりを繰り返し、徐々に本物のそれになる。地下にあるバーの階段を一段いちだん降りる中で、俺の中のそれは融解と凝固の最後の反復をする。狭い店内の全景が見えれば、当然小夜も目に入る。その瞬間に覚悟は完成した。
小夜は仕事帰りのそのままの格好なのだろう、スーツで、階段から見て右奥のテーブル席に就いている。
軽く右手を上げたら、小夜も飲みかけのカクテルから手を離して右手を上げた。
「久しぶり。元気だった?」
小夜は小首を傾げる。
「超忙しいけど、体調的には元気、かな」
俺は向かいの席に座る。
「こころ的には?」
「おかげさまで、ほぼ元気よ。ただ一つの懸案事項を除いては」
「そりゃそうだよな」
「そうよ」
本格的に話が始まる前に注文をする。俺は下戸ではないが飲むと数日間体調が悪くなるので、つまり体質はアルコールに極度に弱いので、もう何年も酒を口にしていない。ここのトニックウォーターは痺れるほど美味い。もちろんそれを頼む。
「仕事は順調?」
「大きな問題は今のところないわ。今年の新人はいい感じで助かってるし、同僚にも欠員は出てないわ。生徒は例年通り、真面目な子も居れば、不良みたいな子もいるけど、クラスの運営自体は、まあまあってところね」
「そっか」
二人とも黙る。恋の始まりの沈黙が相手のことを想ってのものならば、今の二人の沈黙は自分のことを想ってのものだ。トニックウォーターが運ばれて来る。俺の後ろのカウンターの二人組が大きな声で笑う。
「春くんは、仕事は順調?」
「順調って言っていいと思う。前の仕事程には稼げないけど、生活をしながらアプリの開発費を少しずつ取り戻していくくらいは稼げてるし、順調なんだと思う」
「そっか」
トニックウォーターを飲む。小夜もカクテルを飲む。本題に入るまでにあと何回、探り合いの沈黙をしなければならないのだろう。いつから俺達はこうなってしまったのか。俺は答えを知っている。小夜も知っている。俺が精神科医を辞めたときからだ。知らない内に、気付かない内に生まれたすれ違いなんかじゃない。決定的な事実が根拠になっている。だから分かっている。それを取り除かなければ元には戻れないことを。たとえ取り除いたとしても既に生まれてしまった歪みを正すことは出来ないと言うことを。俺達は「関係の死」に向かってもう歩き始めていることを。遅いか、早いかだけの違いだと言うことを。
だとしても、二人の覚悟が決まるまで、やはり融解と凝固を繰り返さなくてはならないのだ。いや、それはもうずっとされて来たことかも知れない。あの日、俺が半年待ってくれと小夜に言ったときから、始まっていたのかも知れない。精神科医を辞めて、嘘生まれの電話相談室を始めると決めたとき、小夜は控えめな口調ながらも確固たるニュアンスで「別れよう」と言った。俺にはその判断が理解出来なかった。違う。小夜が俺ではなくて俺の職業を求めて俺と居たと言う事実が受け入れられなかった。自信があった訳ではない。それでも、俺と言う人間を好いていてくれていると信じていた。俺はその信仰に縋り、小夜はいっときの気の迷いを起こしている、だから時間を掛けて俺がこれからすることを見ていれば、俺が職業によって規定される存在ではないと言うことに気が付いてくれる筈だと、半年の時間を要求した。小夜はそれを呑み、しかし信じられない盤石さで態度も考えも結論も変えずに今日に至っている。彼女にとっての半年は、俺を見るための半年ではなくて、結論を実行に移す逡巡を拭い去るための半年だったのだと、思う。
「春くんは特別に話したいこと、ある?」
俺はことさらゆっくり首を振る。最後の審問だ。
「ないよ。小夜は?」
「ない」
「じゃあ、始めようか?」
「そうだね。もう持ち時間は使い切ったよね」
「そうだね」
ふう、と小夜がため息をつく。人間が死ぬ最後の一息は吸気ではなく呼気だと言うことを思い出す。狛犬の阿吽は実は逆で、赤ちゃんの最初の啼泣は吸気から始まる。吸わなければ泣けない。そう思うと、最初に気持ちを伝えたときは、大きく息を吸ってから言葉にしたな。
「私は、変わらない。半年間いっぱい考えたけど、変わらないよ」
「そっか」
「春くんはどうなの?」
「半年間、俺が新しい仕事をするのを見て、いや、俺を見て、それでも変わらないんだ?」
「そうだよ。ごめんね、揺らぎもしなかった」
俺は小夜の何を好いて、大事に想っていたのかが思い出せない。俺は彼女の何を愛していたのだろう。いや、愛すると言うのはその人の部分を求めることではない。だから、俺は小夜をいつしか愛していなかったのかも知れない。形骸化した関係の、形式を保つことに執着していたのかも知れない。俺の半年は彼女を愛することよりもずっと、新しい仕事に向かっていた。どうして今それに気付く? 小夜に刃を立てられるまで、この別れ話の全てを彼女のせいにして、俺が小夜を見ていなかったと言うことに一切意識を向けていなかった。人間そのものを見ていなかったのは、俺の方だ。
「分かった。別れよう」
自分がどうだったかを悟っても、小夜にそれを説明するのは惨めだから、しない。半年の時間を求めたときだけで十分に惨めだから。
「うん。今までありがとう。さようなら」
「さようなら」
小夜はカクテルの残りをクイッと飲み干すと立ち上がり、じゃあね、と小さく言いながら俺の横を抜け、階段を軽やかに昇って行った。
大きなため息が出る。でも全然悲しくない。降ろし損ねていた積荷を処分したような軽さと、全身に行き渡る疲労感と、トニックウォーターの味だけで世界の全てのよう。明日も営業はするし、小夜が居ない生活は既に半年間続けて来ている。何も変わらない。嘘だ。小夜を愛していると言う大きな嘘を、つくのをやめた日々が始まる。それは彼女についていたのではない。俺についていたものだ。
グラスを空にして外に出る。初夏の夜はさっきよりも濃度が薄い気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます