第2話
「ハルさん、つらいの」
女性の声。子供ではないが老人でもない。三十代くらいと見積もろう。
「何が辛いんですか?」
「よく分からないの。生きてるのがつらいの」
「何をしてても辛いんですか?」
「ご飯食べてるときは大丈夫。あと、寝るときも」
「生きる内の半分は食事と睡眠だから、生きてるのの半分は辛くない、ってことですよ」
「まだ半分」
「半分水の入ったコップを見て、『まだ半分』か『もう半分』か、その見方で人生の苦しさが変わるってよく言いますけど、『半分もある!』って考えるとさらにいいと思います」
間。今言った意味を反芻するのに時間を要しているのだろう。
「ハルさん。だとしたらつらいのが半分もある」
「いや逆で、辛くないのが半分もある! ですよ」
「それでも残りがつらい」
「目を背ければ、ないのと同じようになって行きますよ」
「ハルさん、嘘ついた」
「はい。つきました。目を背けても消えはしません。ないのと同じにはなりません。でも、原因を探すのでなければ、わざわざ辛いのをずっと凝視する必要はないんです」
また間。
「だってそんなことしなくても、つらいの」
「じゃあ、逆にハッピーを詰め込みましょう。行きますよ、今からハッピー飛ばしますからね、ちゃんと受け止めて下さいよ?」
「うん。待ってる」
「うーーーーん! 行った?」
「分かった、ハルさん。それは嘘だ。ハッピーなんて飛んでこない」
「おかしいなぁ。確かに飛ばしたよ?」
「ハルさん、しつこい」
「すいません。飛ばなかったですね。でも、やり取りの間、辛いの忘れてませんでした?」
「あ!」
鼓膜を貫かれたかと思う程の声。
「ハルさん、ちょっと忘れてた」
「飛んでったハッピーの分です」
「違うでしょ。そっか、楽しいことに熱中すれば、つらいの忘れるんだ」
「飛んでった……」
「ハルさん、しつこいのは直した方がいいよ」
「すいません。そうです。楽しいことをしましょう。でも、楽しいことってのは勉強とか筋トレとかだけじゃないんですよ?」
「どっちもきらーい! 楽しくなーい!」
「どんなことが楽しいですか?」
「ハルさんとお喋りするの楽しい。あとおいしいもの食べるのと、寝るのが楽しい」
「ほら、さっき言っていた辛くないときと、一致していますよね? では、他にさらにありますか?」
「マンガ読むの大好き。あとね、彼氏が欲しい」
「いいですね、マンガ。私も大好きです。こころが辛いときには『こち亀』が一番ですね。彼氏は、そうですね、もし出来たら一緒に居る間は楽しいかもしれませんね」
「ハルさん、私の彼氏になって」
「じゃあ、クローン二十八号をどうぞ」
「クローン作り過ぎ。分かった、自分で探す」
「彼氏を探すのは、楽しいかも知れないですし、辛いかも知れません。でも、やってみる価値はあるんじゃないでしょうか」
「あとね、今、ハルさんと喋ったら、何か少しつらいのが取れたの。魔法?」
「魔法です。仕組みは企業秘密です」
「魔法なのに企業って、ハルさん、嘘が雑」
「すいません」
「うん。でも、なんか、ありがとう。ハルさん、また掛けてもいい?」
「もちろんです」
「さようなら」
電話を置く。
最初は全部を嘘にしようと考えたが、それでは会話が成立しないと言うことにすぐ気付いてやめた。だが、嘘と言う軸は強いから、これを外そうとは思わなかった。例えば、ギャグを言います、と言う表題の電話相談だとしたら、常にギャグを考えなくてはならないし、それ以上にスベったり、電話の相手もそこで笑うことを期待して掛けてくる訳だから、最初からハードルが高くなり過ぎる。かと言って真剣な相談をするならここである必要性はないし、嘘の居処がない。会話が成立するだけの真実があって、部分的に嘘が入る。それぐらいの塩梅がよかろうと決めて、サービスをスタートした。後はやりながら嘘の分量を決めていったのだが、ちょいちょいよりも少ないくらいの方がよくて、むしろ、電話の内容の殆どはまともな会話だけどアクセントに嘘が入るくらいが丁度いい。多過ぎる嘘は白けるし、少な過ぎる嘘では相談に真剣に取り組むだけだけど、やっぱり俺的にはコンセプト違反な感じがする。この電話相談室は嘘を言うが、嘘しか言わない訳じゃない、と言う解釈に落ち着いてからは嘘の割合いに苦慮することはあってもその理念に迷わなくなった。だから芯のところでは、俺は普通に真剣に相談者の問題に取り組んでいるし、それでいいと思える。そうでなくてはコンタクトは取れない。「嘘がある」と言うことをお互いが免罪符にすることで、話しにくいことを話せるようにしているだけなのかも知れない。
携帯電話が鳴る。
「はい、こちら『嘘生まれの電話相談室』担当のハルです。どうしましたか?」
「禁じられた恋をしてしまいました」
また女性、三十代くらい。正確な年齢は聞いてないが、これまでの統計では三十代くらいの女性からの電話が圧倒的に多い。男性からは殆どない。あっても悪戯半分ばかりだ。稀に男性で深刻な、これから自殺を考えてる、等があるが、こころの底からこの電話に掛ける気力があるなら医療機関に行ってくれと思う。当然、受診を勧めることになるが、そこまでの状況だと嘘の入れどころが見当たらない。やってることは正しいと思えるけど、嘘を入れずに受診を勧めた後、待機に戻った携帯電話を見ながら敗北感に埋まることになる。
「どう言った恋ですか?」
「先生です。平川先生を好きになってしまいました」
「どの平川先生ですか? 私の周りには十三人の平川が居ます」
「御茶ノ水病院、精神科の平川先生です」
俺がこの前まで居た病院だよ。って言うかあの平川か。
「分かりました。それで、どう言う経緯で?」
「うつ病になって、仕事に行けなくなったんです。それで上司に連れられて受診して、それが平川先生だったんです。先生は優しくて、笑顔が素敵で、私を助けてくれて、今はもう仕事に戻ってるんですけど、病気が治ってからも通ってるんです。そう、病気が治り始めたときでした、いつもよりも先生の距離感が近いような日があって、そのときに、キュン、と来ちゃったんです。それから、ずっと想っていて、ある日、職場に復帰するのが不安な私にお守りだって言って、胸に刺さってたペンを一本くれたんです。それがトドメでした。平川先生は先生であって、だから私と関わりがあるだけで、それ以上の関係にはならないのだって分かりながらも、恋をしてしまったのです」
これは匂いとしか言いようがないのだが、彼女からはその匂いがする。匂いとは、彼女は秘密を抱えきれなくなり、そのはけ口を求めて電話を掛けたと言うこと。古典的なカウンセリングが最も得意とするクライアントだが、同カウンセリングが最も変化させられないタイプのクライアントでもある。つまり、吐き出すことを受け止めるだけでは不十分なのだ。追加で何かが必要だ。さもなければ、カウンセリングの後に再び溜め込んで次の面談のときに吐き出すと言う無限ループを永遠に抜け出せない。頷いているだけのカウンセラーが批判される理由がここにある。だから俺は違うことをする。
「なるほど。平川先生はあなたのことをどう思っていると思いますか?」
「先生も、私のことを本当は好きなんじゃないかと思います。だって、他の人との診察を見たことはないですけど、私に対しての距離の近さ、物理的じゃなくて、こころの距離の近さが、すごいんです。とっても一生懸命だし、真摯だし、暖かいし、信頼出来るし」
「そのことを考えるとどんな気持ちになります?」
「幸せな気持ちになった後に、けどきっと私なんか見てくれないだろうと言う落ち込みが来ます」
ものすごく自分自身を見れてる子だな。
「平川先生は君のことが好きだ」
「え! 嬉しい。けど、嘘ってすぐ分かります。そしてきっとそれが真実にはならないことも」
「だとしても好きなんですよね?」
この電話初めての逡巡の間。悲恋の香りをさせながら華やいだ空間が冷える。
「好き、です」
「失恋するならしっかり殺した方がいいですよ」
「平川先生を?」
「恋心をです。一人でこころを殺してゆくのはしんどい作業です。だから、思わせぶりな態度を取った平川先生にも責任を取ってもらいましょう」
「どうするんですか?」
「告白しましょう」
「え!」
本日二回目の鼓膜をつん裂くシャウト。
「出来ませんか? 出来なければこの恋はここで終わりです」
「ハルさん。あなた意地悪ですね。どっちに転んでも終わる恋なのに」
「実のところはそれは分かりません。平川先生がどう取るか応えるかは分かりません」
「確かに、そうですね。ああそうか。私はどうやってこの恋を終わらせようかと言うことばかりを考えていたみたいです。でも、終わらない可能性もあるなら、試す価値はある。それがそのまま恋が生きるか死ぬかを決めるんですね」
聡明な子だ。話がポンポン進む。
「やるならば、私に宣言を下さい」
「……やります」
「承りました」
「うん。頑張ります。うん。じゃあ、ハルさん、また」
「はい。また」
電話を置く。
なんとなくため息が出た。俺が彼女に仕掛けたことは上手く機能してくれると思う。その根拠は、彼女の頭の回転のよさと自分自身を俯瞰することが出来る能力だ。やったことは単純なことだ。溢れるものを一旦受け止めて、それで初めて見えるこころの底に、蠢いている気持ちと考えと欲と望み、これらに行き先を示す。それだけ。大事なのに溢れるもので蓋をされているのは、これらがその溢れるものの供給源だからだ。なので、目鼻を付けて現実の中に向かわせれば、結果的に溢れるものはなくなってゆく。平川なら中途半端はしないだろう。断るか、ちゃんと付き合うかの二択を選ぶ筈だ。嘘の量が少なかったけど、必要なことはしたからO Kとする。
その後も終業の時間までずっと、断続的に電話は鳴り、相談者に向き合ったり嘘をついたりした。後に控えている約束に合間合間に気を取られながら。
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