第5話
数件の電話があってから、パタリと着信が途絶えてもうすぐ九時になる。
窓の外を放心しながら眺める。電話相談を裸でやったらどうなんだろう。電話だから相手には見えないし、問題はないだろう。でも、俺がパリッとした気持ちを保つためにはユニフォームにした方がいい。だから今はワイシャツとスラックスを必ず着用している。もし裸だとするならば、常に裸であるべきだ。それがベストパフォーマンスを発揮する手段なら喜んでやろう。でも、今のところそれはなさそうな気がする。服は着よう。
頭の中に勝手に流れる馬鹿な思考に身を任せている内に、九時ジャストになる。
同時に着信が来る。慌てて携帯を手に取り、軽く深呼吸をしてから通話にする。
「はい、こちら『嘘生まれの電話相談室』担当のハルです。どうしましたか?」
「初めまして、私はノート。ここって、秘密は守られるの?」
「医療機関と同程度の守秘義務を負っています。いや、義務ではないのですけど、当然ここで聞いた話は外ではしません。それをしてしまったら電話相談であり続けられませんよ」
短い間。なのに吸い込まれるような。
「じゃあ、話すわ。ハルさん、聞いてくれる?」
「もちろんです」
「後藤田雅樹って知ってる?」
「今日のニュースで知りました。お亡くなりになったそうですね」
「そう、急逝したわ」
また短い間。距離をたぐられるような。
「私、彼の愛人なの」
頬を打たれる衝撃。家族愛の塊。他の女には手を出してません、僕が保証します。特番が植え付けようとしていたイメージ、いつの間にか受け入れていた印象が、ハンマーを振り抜いたみたいに粉砕される。いや待て、ノートさんが嘘や妄想を言っている可能性は? あるけれども、それは今は加味する必要はない。電話相談は彼女のためのものだ。嘘を言うのは俺であって彼女ではない。そう言う前提、基盤の上にここはある。そもそも赤の他人からの情報であると言う点では、番組とノートさんとで信頼度に優劣がある訳ではない。俺そのものに明確な根拠がないのならば、彼女の言葉を全幅で信じる。電話相談がコンタクトまで昇る唯一の道がそこにある。
俺が構えを取り直す前に彼女が続ける。
「信じられない?」
「信じます。かなり驚きましたけど」
「そうよね。彼のイメージからは、かけ離れた行為よね。でも事実なの」
だとしたら、今彼女がここに電話を掛けている理由は喪失によるものかも知れない。でも、予測することにはネガティブな意義しかないから、棄却する。
「それでここに電話を掛けようと思ったんですか?」
「そうよ。たまたまこの電話を知ったのよ。後藤田が死んだのを知ったのも、たまたま点けたテレビのニュース。彼は私に死ぬことを教えてくれなかった」
「死ぬことが予定されていたように聞こえますが」
「ニュースの後にポストを見たら、手紙が来ていたの。開けたら、中に封筒が二通。『僕が死んだら開けて欲しい』と書かれた封筒と、『覚悟が出来たら開けて欲しい』と書かれた封筒」
「なるほど」
「だから一通目だけ開けたわ。何の覚悟も出来てはいないから」
「どんな内容だったんですか?」
「彼が死んだ原因。私と連絡を取らなくなって三ヶ月、たった三ヶ月で死んだの。癌が見付かって死ぬまでって、そんなに短いものなの?」
「癌によりますけど、十分あり得ます。スキルス癌、胃癌の一種ですね、とか膵臓癌とかは早いですね」
「それ。スキルス癌だって。後藤田は癌が見付かって余命が少なくなったら、私を遠ざけた。これって、どう言う気持ちなの?」
俺の中の冷静、いや冷酷でドライな面が、やはり冷酷でドライな思考の仕方を後藤田雅樹がしたのではないかと主張している。俺の中の柔らかい部分はそれを拒否したがっているが、プロの面談師の名残りが、伝えるべきことは自分の快不快で判断するのではなくロジカルな思考で決めるのでもなく、それが相手にとって必要かどうかの直観に従えと言っている。それを鍛えるために払った多大な労力の結果、直観は俺と分かち難く立っている。
「ひとつは、残った時間をどう配分するか考えた結果でしょう」
「そうね。子供達に、あと奥さんに向けるでしょうね」
男の愛が妻子に向いていると言うことを当然のように認めるノートに不思議さを感じる。
「それは嫌なことじゃないんですか?」
「嫌よ。でも事実は、彼は奥さんも子供達も愛して、私も愛した。優劣は私に軍配が上がるはずだったのに、ね」
胸をキュッと掴まれる。会ったこともないノートの表情が見えるよう。
「二つ目が、ノートさんの中の自分像を崩したくなかった、と言うもの」
「それはないわ」
「ないですか?」
「後藤田は、人生全部演じていたの。奥さん子供の前だって、全て演技よ。その中で私の前でだけ素の彼になっていたの。だから、私の中の自分像を大切にするってことは、ないわ」
「世界で唯一の、素の場所だったってことですか?」
「そうよ。下らなくて最高の時間を過ごしたわ」
有名人の素の姿を独占していることは優越感を生むのだろうか。それとももっと単純に、自分の前に居る相手をそのまま愛するだけなのだろうか。問いたい衝動を許す。
「それって、どんな感じなんですか?」
「人間よ。食べて、寝るの。そして話して、歌うの。小さく閉じた営みに、世界の全てがあるの」
「幸せそう」
「ただし、時間制限がいつもあったわ。後藤田は元の演じる世界に必ず帰るし、そうしたら私も元の私に戻る」
「今はどっちのノートさんですか?」
ノートが言葉に詰まる。さっきまでの流暢さが急に堰き止められたかのように、沈黙が続く。多分俺は答えをもう見付けている。でもそれが俺の口から出たら、ノートさんの言葉を奪ってしまったら、彼女の大事な一歩を挫くことになってしまう。彼女が自分を何であると捉えるか、それがどんなものであろうとも彼女が自分で到達しなくてはならないものだ。
「ちょっと待って」
「いくらでも」
「私は、……そう、私は、今の私は、どちらかじゃないわ。両方よ。両方の私が今の私にあるわ」
「どう言うことです?」
「後藤田が生きていたとき、私は私を二つに区分けしていた。彼と居る自分と、それ以外の自分。後藤田の居ないときの自分が嫌な訳じゃなくて、そっちはそっちで謳歌していたわ。でも後藤田が死んで、彼と居る方の自分が既に過去のものになり始めて、もう片方の自分に流れ込んで来ているわ」
「後藤田さんとのノートさんは、彼とあなたが重なったときに生まれるものだったのだと思います。後藤田さんにしてもノートさんと重なった時に、素の自分になった。だから、重なることがもうないのならば、彼と居るノートさんは消え始めている」
電話越しに頷く気配。
「彼の存在の有無に関わらず、私の中の彼との部分は生き続けると思っていたけど、そうじゃないみたいね。崩壊はとても早い」
「少なくとも、一つに戻ろうとはしているようですね」
「そう。だから両方なのよ」
「でも、想いが死ぬのにはそれなりに時間がかかります。連絡の途絶えた三ヶ月間がその準備に充てられていたんだと思います」
「そうかも知れないわね」
ちょっとだけ溜めてから俺は三つ目の理由を仮説する。
「連絡を取らなくなったことに、もうひとつ可能性があるとしたら、『猫の矜恃』をしたのかも知れません」
「猫の矜恃?」
「猫は死ぬときに飼い主のいるところから隠れると言います。つまり、一番大切な人からこそ隠れて、死ぬんです」
「ハルさん」
「はい」
じんとした隙き間。
「あなた、嘘つきじゃないわね。むしろつけない人ね」
怯んだ沈黙はそのまま肯定となる。分かっていても、否定する言葉が出ない。
「私がひとつの私に戻り始めた最初の日に話せてよかったわ。別に不幸だとは思ってないし、ちゃんと寂しいし、でも何か、前を向いて前に進む根拠みたいなものを貰った気がするわ」
やっと絞り出す声が「はい」しか出ない。
「ありがとう。また掛けるわ。きっとまた九時丁度に。またね、ハルさん」
彼女は電話をそこで切った。
俺はもう今日は次の相談を受ける気がしなくて、アプリを落とす。営業時間内に俺がアプリを終了させた場合は掛けて来た電話には通話中に流れる音声と同じものが流れるので問題はない。どの道もうすぐ十時だし、俺のコンディションが整ってないのなら、相談を受けない方がクオリティコントロールとしては良いだろう。精神科医をやっているときにはこっちの状態などお構いなしに案件が持ち込まれていたから、今の方が自分の主導感はずっとある。
置いた電話をじっと見つめる。
俺は嘘つきではない。それは真実なのかも知れない。恐らく、嘘つきであることと、嘘をつくことは別のものなのだ。嘘を言うと言う建前の電話相談であり、俺は嘘も言うが、性根のところは嘘つきではないのだろう。後藤田はきっと、嘘つきなのだ。演じると言う高みに置いていることで嘘と分かりづらいけど、それをし続けることが呼吸をするように出来るのは、やはり根本的なところが嘘をつくように出来ているのだ。俺は違う。優劣ではなくて、彼はそうで俺は違うと言うだけだ。人生のどこで分岐するのか分からないけど、一度そうなったらもう片方にはなれそうもない。彼女は俺を看破した。彼女は何者なんだ。
ふよふよした空間にいつの間にかなっている。俺自身に生まれた不確かさのせいだ。まずは食事だ。お腹をいっぱいにして、寝てそれから考えよう。
それでも、ノートさんのことが頭から離れない。声の響きが、呼吸の感じが、意味内容と独立して脳髄をくすぐる。負けじと夕食を食べ、風呂に入って寝る。戦いながらなのに、想像していたよりずっと速やかに眠りに落ちた。
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