第6話

「サカナ、それは恋だよ」

 湯島から御徒町の間にある中華料理屋で昼食を摂る。俺の水曜日は定休日で、シバイヌの不動産仲介業も同じ水曜日休みなので、大体毎週一緒に昼飯を食べている。俺はノートの名前も相談内容も明かさず、昨日電話を切ってからシバイヌに会うまでずっと、彼女のことが頭にこびり付いていると言う事実のみを伝えた。

「正確には恋の芽、だな」

「でもさ、そんなキュンキュンした感じじゃないんだよ? 気になるだけなんだ」

「気になる、こそが恋の芽だよ。だって、話した内容が気になっている訳じゃないんだろ?」

 言われてみれば確かにそうだ。後藤田雅樹にまつわる多くのこと、彼女と俺しか知らない事実を持ってしても、それに対する興味よりも彼女自身に対しての関心の方が強い。

「だとしてもさ、小夜と月曜日に別れたばっかだよ?」

「お、そうか、別れたか」

 シバイヌの薄い反応には理由がある。

 俺達は三人組で、トモとシバイヌとサカナこと俺で、シバイヌは飛び抜けて恋愛に強い。本人が恋愛巧者と言うことではなく、恋の格言に詳しい訳でもなく、俺やトモがする恋愛についての洞察と予測が強靭なのだ。小夜と付き合う前からシバイヌは俺等が付き合い、しかし俺の人生観とのズレで別れることを予言していた。シバイヌが言い切ったからそうなったとは思いたくはないし、そうではないとも思うから、やはりシバイヌには見えていたとしか言いようがない。今のトモのカップルについては、「死が二人を分かつまで、だな」と託宣した。トモばかりズルいといじけて見せても言葉はもう変わらない。重要なことは一度口から出たら訂正されない。

「半年間ズルズル引っ張って、ついに、って感じだよ」

「だとしても、恋の芽が生えるのに他の恋愛は関係ない。恋人が居ても恋をするときはする。その芽を摘むか育てるかはサカナが決めることだけど、でも大事なのは、どっちに向かうか、自分で決められるってことだよ」

 俺に言葉が浸透するまで少しだけ時間がかかった。

「違いないな。どうするかは俺の掌の中だ。結果はまだ見えないけど」

 ノートさんの話題はそこで流れて、食事が終わり次第別れる。

 晴れ切った空。ひとつ伸びをしてから繁華街の方に向かう。目的地がある訳ではないのだが、ここ半年で獲得した習慣のような動きだ。それなのに御徒町で一軒しかないイタリアンジェラードの店に自然に足が向かう。食べたいのかも知れない。見れば、お気に入りのマスカルポーネチーズ味がある。買う。ベンチで食べる。

「一番美味しい」

 呟いてはまた食べる。ノートさんはこう言うものを好むのだろうか。女性だからアイスは鉄板と言うのは浅はかだ。現に小夜はアイス嫌いだったし。初夏の熱でジェラードが形を少しずつ失う。俺のひと掬いひと掬いでも形を失う。そう言う変化を一緒に楽しめる人がいい。小夜は違った。ノートさん、君はどうなんだ?

 空になったカップを捨てて、裏路地を歩く。夜になれば刺激の強いこの道も、太陽の下では正体が顕になって風通しがいい。いずれ大通りに出る。ギャンブルと風俗とお酒をやらないとすることがないかと言えばそんなことはなく、カラオケもあるし、漬物屋もあるし、デパートもあるし、映画もある。映画は今は琴線に触れそうなものはひとつもないので却下、デパートも悪くないがウィンドウショッピングにも飽きて来ている。漬物屋で柚子大根とわさび漬けを買って、カラオケに向かう。歌いたいと言う欲求を満たすのに、カラオケに一人以外の人数で行く選択肢があるだろうか。

 でも、その歌いたい欲求は、若い頃の純粋さを失っている。それは自分の中に異物が入って来たときや、感情が渦巻いているときくらいにしか来ない。今日は入って来た異物とそれに伴う感情に因っている。数千曲を歌えるが、その選曲は殆ど答え探しの旅だ。徐々に近付いて行き、この歌こそが自分の気持ちを的確に表現してくれていると思える読了感ならぬ歌了感を得るまで続ける。答えに至ったら、あとは遊びで歌うか、大概は終了となる。

 本日の記録、二時間三十六分。到達した歌はLINDBERGの『OH! ANGEL』。恋に飛び込む覚悟の歌だ。

「いや、待て。俺はノートさんのこと殆ど何も知らないんだぞ。次に電話が掛かって来るかだって不透明だ。それに俺はまだ小夜のことを想ってる……のか? 無理矢理小夜のことを考えているような気がする。誰も見ていないのに言い訳をするように小夜のことを思い出して、バランスを取ってからノートさんのことを考えていたように思う」

 マイクを通して喋るから部屋中に俺の声が谺する。エコーではなくて、自分に返ってくる谺だ。

「本当は小夜のことなんて考える必要はなかったのか? 既にあの月曜日にちゃんと終わっていたのか? 俺は俺の中に残渣があるべきだと、そう言う男だと自分で枠付けて、それにそぐうように思考を歪めていたんじゃないのか。だって、『OH! ANGEL』が出ちゃったんだよ? 何やるよりも正確に自分の状態を反映するのが、歌掘りだから、つまり、俺はもう発射台に乗っているってことじゃないのか。だったら、本当はもう、小夜のことを思い出す必要はない。儀礼はもう要らない。そんなものは振り払って、俺は前に進んでいいんだ」

 部屋への反響で自分に言い聞かせるように喋っていたマイクを置く。

「でもやっぱり、恋の芽だと思う。俺にその芽があることは認めよう。でも、相談者にこんな想いがあることは悟られてはいけないと思う。ノートさんは自分の相談をしに来ているだけで、俺から恋をされることなんて求めてない」

 この前の相談者の「禁じられた恋をしてしまいました」と言う言葉が脳裏に浮かぶ。あのときは受け手が受け止めるだけの立場にあったが、今は逆の立場で、受け止めて貰えるかは極めて怪しい。違う。そう言う成就の可能性の問題ではない。あの相談者の「禁じる」は文化や双方の間にある関係性が禁じていたが、俺の「禁じる」はもっとずっと俺寄りで、と言うか俺自身が禁じているんだ。

 再びマイクを取る。

「俺は『嘘生まれの電話相談室』のハルとして、相談者に恋を投げかけることはしてはいけないと思う。もちろんそんなルールも義務も存在しないけど、相談者とハルの生み出すものの質を高めるには、俺のプライベートな気持ちを持ち込んではいけない」

 歌を入れてないのでカラオケはインタビューを流している。知らないアーティストがフリップを裏返すと、「やったもん勝ち」の文字。それがすごく正しいことのように思える。でも即座に、自分が自らに課す禁止への反発だと分かる。

 マイクを置く。誰にも聞こえないようになるべく小さな声を出さなくてはならない。でも、自分にだけは届く声で言わなくてはならない。これからだって迷うかも知れない、それでも、宣言しなくてはならない。

「俺は」

 言葉を切って天を仰ぐ。天井の遥か先までこころを通す。これは始まりだ。完了するまではずっと時間がかかるかも知れない。でもどうするか、表明してから、やっと始まる。俺は俺の胸に灯ったものよりも、ノートさんによくなって貰いたい、そっちの方が重要だ。

「俺は、この芽を摘む」


 それでも、九時が近付く度にソワソワする。金土日月、四日間営業してもノートさんからの電話は掛かって来なかった。合間の時間に彼女のことを考えるのは徐々に減って、気付く。恋の芽と言うのは水をやらなければ自然に枯れてゆくのだ。そしておそらく摘むことは出来ないもので、枯らすことしか出来ないのだ。たとえ見事な失恋で刈り取られても、その根が枯れるまでは待つしかない。そこでもし水を与えてしまえばまた、生えて来てしまう。だとしたら、小夜とのことは半年間で十分に根が枯れる期間を取ったと言うことなのだ。もしくは、最初に根っ子が枯れていたのかも知れない。そして最強の枯葉剤は、次の恋だと言うことが証明された。

 人が人にかける魔法は通常一週間で切れる。今日は火曜日で、ノートさんからの電話から丁度一週間だ。それが恋の芽だとしても、彼女の魔法の成分が解けたら、きっと枯れるのはぐっと早くなるだろう。一握りの諦め切れない気持ちを除いたらあとの全ての部分が終わりを待っていた。それでも、九時が近けばソワソワする。

 電話が鳴る。まさか。

「はい、こちら『嘘生まれの電話相談室』担当のハルです。どうしましたか?」

「あ、ハルさん。一週間ぶりね」



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