第7話
ハルと言う役目に入っているせいか、心臓は高鳴らない。しかし待ち望んだ新鮮な風が吹いた。
「この一週間はどうでしたか?」
「空をたくさん見たわ」
「空、ですか?」
「死んだらお星様になるって奴じゃなくて、昼間の、広いひろい空。後藤田を探したことは一度もないわ。むしろ、私を探していたのかも」
空と俺だけの世界を想像する。そこには何でも映るだろう。きっと一番望んでるものが映る筈だ。
「何が見つかりましたか?」
「私に内蔵されている未来の素を、指先と唇から放出して世界と絡めることで、半分が世界に残って、もう半分が私に残るの」
「残るのは、何でしょうか?」
「私と世界が交わったものよ。世界には作品や歴史として、私には経験や感情として、残るわ」
「ノートさんは空に世界を見たんですね。世界の全てを」
「空に私はなかったけど、空を見ている私も見付けたわ」
旅をしたんだ。自分探しの旅では決して自分は見付けられない。なのに、世界を解ろうとすると自分に辿り着く。彼女の言う通り、双方に何かしらの痕跡と影響を与えて。
「世界を組み直す必要があったんですね」
ノートは黙る。迷いとか驚きとか困惑と言った気配のない、ただ呼吸をしているような、沈黙。
「後藤田が私の全てだった訳じゃないわ」
もしかしたら俺の中に嫉妬があったのかも知れない。こころが擦り切れたから別れたのではない、死別で、芸能人で、社会的に成功していて、その秘密を共有していた唯一人が彼女で。俺が小夜に対して持つことを失敗した未練が彼女の中にあることを、想定して、裏返しに期待して、俺の肚を焦がしているのかも知れない。それは容易に予期出来るものなのに、一週間そっぽを向いていたもの。俺の中の恋の芽が張っている根こそがそれなのだろう。
「でも、ノートさんの一部だったのは確かだと思います。それがなくなった。それとも、後藤田さんはずっと存在し続けるのでしょうか、ノートさんの中に」
「私の一部ではなくて、私の生きている内の一部、ならそうかも知れないわ。私自身は彼なしでも成り立っていたし、彼が私のこころに巣食っていると言うことはないの。後藤田は彼と居たときだけ、私の生を構成していたわ。何だか言い訳みたいだけど、それくらいの距離のところに彼は居たのよ」
それは愛していなかったと言うことなのか。人の組み合わせの数だけ恋愛の形がある。そこには固定観念の入り込む余地はない。秘匿された時間を共有していることと、愛がそこにないことは両立可能だ。でも、だとしたら何故。
「どうして後藤田さんと居たんですか?」
「私は実世界を愛しているわ。それでも、ときにそこから離れることには意味があるの。後藤田との時間はそう言う、半現実とでも言えばいいのかしら、そう言う時間だったの。つまり、彼が素の姿を現実で決して晒さないのにそこでは素になるように、私にとっても現実から離れる場所だったのよ」
「共益関係だったと言うことですか?」
「そうね。形は少し違うけど、お互いに似たようなことを求めてその時空間に入っていたのは確かだと思うわ」
では、愛していなかったんですね、その一言があまりに自分のエゴに根差していて、安心を買う行為で、面談に何ら益をもたらさないと気付き、飲み込んだ。無色透明にも思える後藤田とノートさんの、パッケージされた世界なら、愛など要らなかったのかも知れない。いや、逆だ。その世界を共に作れると言うこと自体が、既に愛の内側なのではないか。しかしそれはあまりに特殊で、妬くべき対象なのか判断出来ない。
「ちょっと違う話を聞いてくれる?」
「もちろんです」
「私は、後藤田の愛人、元愛人と言う人間としてしか、ハルさんの中では存在してないわ、まだ」
「ここに話しているノートさん、としても捉えていますよ」
「確かにそれはそうかも知れないけど、違うの、私が何者であるかをもう少し知って欲しいの」
俺は相槌を打たずに、次の言葉を待つ。知りたさと、知らないからこその今の関係が散ることへの微かな不安とが、胸の中で渦になる。数秒後には消える運命でも、葛藤はちゃんと生まれる。
「私、ピアニストなの」
「ピアニスト、ですか」
「そう。そしてどっちかと言うと作曲家としての活動の方が重心を置いているもので、演奏家としてはあまり仕事はないわ」
「じゃあ、ピアニストじゃなくて、作曲家と言うことですか」
「作曲家としても、食べられる程ではないの。だから、両方ともプロを名乗るのは気概だけの問題で、実質はプロになり切れていないの」
じゃあどうやって生活しているんだ? 後藤田からお金を貰っていたのか? ノートさんの気配からは食い詰め者の匂いはしない。むしろどこか優雅に泳いでいるような感じがする。印象だけなのだろうか。俺が期待していたのか。でもその期待が何であるかが分からない。
「だから、って訳じゃないけど、ピアノの先生もしてるのよ」
「三足のわらじ、ですか」
「ありがとう。ピアノの先生を食べるための仕事に分類しないでくれて。先生をするのも好きよ。でも、やっぱり収入のためにやっているところはあるわ。それでね、ある生徒さんで、小学校五年生の女の子なんだけど、今週のレッスンでまじまじと私の顔を見て言うのよ『先生、なんだか雰囲気が変わった。人生の節目を越えたの?』って」
「不思議な物言いですね」
「そうなの。でも、当たらずとも遠からずで、それを言われたときに、そうか、後藤田を失ったのはネガティブなことでも、ポジティブなことでもなくて、節目を越えるような変化なのか、って思ったの」
「前に進む決意のように、聞こえます」
「違うわ。決意の有無じゃなくて、勝手に前に進むのよ。季節が変わるように」
人と人の営みは想いとそれに端を発する行動の絡み合いによって、もつれながらじりじりと未来に向かってゆく。しかし彼女はその身に起きたことを自然の時間経過のように捉えると言う。電話も二回目で、俺には彼女がこころのある人間である確信がある。だとしたら。
「後藤田雅樹はノートさんにとって、人間ではなく現象のようなものだったのですね」
沈黙。打撃を受けた黙り方。その打撃が生んだひずみを修正する過程で、正体が顔を出す。それは感情かも知れないし、欲かも知れない。想いや哲学、本能。出て来たそれに向き合うも無視するも、言うも言わないも、ルールはない、ここでは。ノートさん、あなたならどうする?
「ハルさん、あなた嘘つきじゃないどころじゃないわ」
「そうですか」
「それは私ですら、今言われるまで分からなかった、ずっと不思議に思っていたものを、正確に、まるで名前を付けたかのように、定義がその実態から生まれたように、決めたわ」
ノートさんが出て来たものと向き合い、伝えてくれる人で、よかった。それは面談の推進力になると言うよかったではなくて、俺がそう言う人であって欲しいと願っていたからのよかった、だ。
「後藤田は、そう、人間として私の前に居たことはないのだと思う。素の彼と言う姿ではあるし、やることは人間そのものなのに、他の全ての人間との間であるような、何て言うのだろう」
「こころのぶつかり合い、ですよね」
「そう、それ、こころのぶつかり合いがなかったの。もしかしたら彼が俳優になって全てを演じていたのも、彼がこころのぶつかり合いをすることが出来ないからなのかも知れないわ。だから、ぶつかり合いをしない状態こそが素の姿なのよ。そうよ、きっとそうよ。素であることは普通はこころがぶつかり易くなると思う。なのに、彼にはそれがない。きっとそれって大きな矛盾として人の目には映るわ。だから若い頃にもうそれを全部演技で覆い尽くしたのよ」
「なるほど」
「だからこそ、私はそこで現実とは違う時空間を得ることが出来たのね。私は後藤田雅樹と言う現象を、利用していたのね」
「利用、ですか?」
「残念ながら、そうよ。お互いに利用していたのよ。彼の側にもきっと、私の前でなら素の自分になれる条件があったのだと思うわ。もうそれが何かは分からないけど。でもね、この利用は、悪い意味じゃないわ。淡々とした、素朴な意味での利用よ」
現象の利用。どこまでも人間臭さを抜いたような、まるで数学の記号のような関係性の表記に俺のセンサーが激しく反応する。それは振り切った振り子なのではないか。揺り戻すべき場所があるのではないか。愛についてさっきは飲み込んだが、今度は問う意義がある。
「愛はなかったのですか?」
刹那の沈黙。
「大切には想っていたわ。きっと彼も。でも、一度も触れたことはないわ。もちろん逆も。もしも愛をセックスや接触で測るならそれはゼロよ。想い、相手がよい状態になって欲しいと言う想いで測るなら、それはあったわ。お互いがお互いに提供する空間と時間こそが、相手をよくするためのものでは半分はあるのだから」
プラトニックと言うよりも、マスマティックなラブだ。振り子は反対、つまり情のある関係が実はあったと言うところに、戻らない。戻る場所がない。尚更後藤田の特殊性があぶり出されて来るが、同時に少しほっとしている自分も居る。他の男とのセックスの話なんか聞きたくない。愛についても同じだが。
「二人が重なったときに生まれる世界の性質が、大体わかりました」
「私も今日、初めて分かったわ。そう言うことだったのね。ハルさん、今日はこれくらいにするわ」
「はい」
「また掛けるね。同じくらいに、じゃ、また」
電話を置く。
全てを演じる後藤田雅樹の秘密は彼女の弁により丸裸になったと言っていいだろう。それ故に成立する、ノートさんとの時間。その中での特殊な交流の仕方。だからこそノートさんが後藤田の死について大きく揺れもしないし、こころの中に空洞も作らないのだ。そもそも現象でしかなかったのだから。
また、は来週くらいだろう。時間は九時。でも、俺は毎日待つだろう。
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