第8話

 次の日。シバイヌといつもの中華料理屋。カウンター。シバイヌがチャーハンが来るよりも早く本題に切り込んで来る。

「で、どうよ、恋の芽は?」

「俺は摘むことにした」

 俺は正面を見たまま、ことさら渋い表情を作って応える。

 ほう、とシバイヌがその顔を覗き込み、ふーんと納得する。

「この顔は、摘んでないな。また電話掛かって来たんだろ?」

「ああ。昨日な。正直、さらに素敵な人だと思ったよ」

「職業倫理が壁になってるんだろ? でもさ、電話相談にガチ面談のそれを持ち込むのはどうなんだ?」

「面談である以上は守らなければならないラインと言うのは一定にあると思う」

「サカナは時々こう、硬いよな。例えばさ、俺の仕事のこと考えてみなよ。不動産仲介。俺は、何も作ってないんだぜ。書類くらいだよ。でも金を貰ってるってことは、誰かと誰かを繋ぐことにはバリューがあるって言うことの証明だと思うんだ」

「それで?」

「ダイレクトに客と繋がる仕事をするってのは、それはそれの面白さがあるんだろ。だからサカナは医者を辞めても同じような形式の仕事を続けているんだろ?」

 話が見えない。いや、シバイヌが導きたい結論はバッチリ見えてるが、どう言う筋道に俺を通して説得しようとしているのかが全然分からない。

「それはそうだけど」

「大事なのは、俺もサカナも、仕事の何に対して対価が発生しているかと言うことを知らなくてはならないと言うことだよ。そして、それを最高にすることが出来るのならば、他の全ては枝葉末節、どうだっていい。俺が見立てるに、サカナが恋をしてはいけない的なルールは、捨てていいと思う。自分が医者で、クライアントが患者だったら、そこに医者の恋を持ってくるのはかなり問題があるとは思うよ、パワーバランス的に。でも今ってもっとずっとフラットな関係での想いでしょ? それはいいんじゃないの? トモの彼女だって取引先の営業だよ? そう言う出会いの全てを拘束するような良識にはパンチが必要だ」

「フラットなのかな」

 呟いたところでチャーハンが来た。親父さんが俺の顔をまじまじと見る。

「おいおい、世界を終わらせそうな顔して、どうしたんだい?」

「いや」

 はぐらかそうとしたのにシバイヌが嬉々として親父さんに話しかける。

「重要な選択に迷ってるんですよ」

「そうか。人生必ずそう言うときはある。よく言われる、苦しい方に進むのが正解ってのは、大間違いだ。かと言って楽な方に進むのも違う。そもそも苦しいからとか楽だからと言った基準で道を選んじゃいけないんだよ」

「じゃあ、何で選ぶんです?」

 俺だって苦楽で道を選んだつもりはないし、これからもそうだと思う。

「好きだと思える方に進むんだよ。自分が何が好きか分かるのも大変だけど、もし好きが分かるなら、そっちに進むんだ。あたしの年だともう人生の結果が周りでは出てるだろ? 金のため、名誉のため、そう言うので人生を曲げた奴ってのは、人生の結果が出たときに受け入れられないんだ。反対に、好きで人生を進んだ奴ってのは、その全部の責任を取る代わりに、いいところも全て自分のものにしている。笑って生きてる」

「親父さんはどっちなんですか?」

「見れば分かるだろ、好きで生きて来たさ。女房だって恋愛結婚だ。趣味だってバリバリだぜ」

 サムアップして見せる親父さんから漏れ出る「人生を楽しんでいる」気配が、彼の言葉が借り物ではないことを証明している。決めポーズを解いたら「考えるにはチャーハンは丁度いいから、熱い内食いなよ」と厨房に引っ込んだ。

 電話相談は好きに進んだ結果だと思う。精神科医が嫌いな訳じゃなかったけど、いつしかあの世界に居るのが息苦しかった。そこから楽になりたくて辞めた訳じゃない。負の理由で押し出されたのではなくて、正の理由で引き上げられた、そうやって自分の人生を一歩前に進めた。安定した収入がなくなると言う、苦しいことを求めて今の仕事を選んだ訳でもない。俺は面談が好きだから、それに特化しようと思った。そうだ、面談が好きなんだよ。

「シバイヌ、俺は面談が好きなんだ」

 チャーハンを口に運びながらシバイヌは相槌を打つ。

「さっきシバイヌは仕事としての肝の部分が何かと言うことを言っていたけど、それは俺にとっては面談で、しかもそれが俺のやりたいことなんだ。だからそれを破壊するようなことはしたくない」

「分かった。俺がサカナの固いところのどこを壊さなければならないかが、分かった」

「どこだ?」

「一人のクライアントと恋愛をしたら、全ての面談、相談がダメになるって、思い込んでるだろ。あと、恋愛の仕方によっては、と言うか恋愛だからこそ出来る相手をよくする可能性を、全否定している。これも壊さなくてはならない」

 限りなくど真ん中を撃ち抜かれた。確かに間違いなくそう考えている。精神科医であるときには、生じた患者の恋愛感情が抜けるまでをやり合って、ワークスルーと呼んでいたり、つまり恋愛を終息させることも仕事の内と考えていた。それは行動に出さないとしても、生じた自らの恋愛感情についても同じだった。でも、それって恋愛をすることは悪とは捉えていないけども、やっぱり卒業と言う形で排除していくと言う方針に常にあると言うことだ。それが当たり前だった。同時に多数の患者を診る関係上、誰かに恋をすることは他の患者への背信行為にもなると言う信条もあった、でもこれは恋愛をしないと言うルールが先にあるから生じるものだ。俺は未婚だし、誰か一人だけを真剣に愛するのならば、それがクライアントだったとしても、他の面談を悪化させはしないのではないか。影響はないのではないか。いや、きっとそうだ。無秩序に手を出しまくるのはダメだけど、唯一人を愛するのは、ありなのかも知れない。そして、恋愛だからこそ相手をよくする可能性は、あると思う。精神科医としてそれを禁じていたのは、俺のプライベートを守るため以上にその愛が安定的に供給されなければ、手に入れた安寧は脆く崩れるからだと言う理由がある。精神科医は捨てられるべき杖であって、患者の一部を構成するものではない。でも、生涯を懸ける、いや、普通の恋愛と同じ濃度での恋と愛ならば、杖である必要性はないのだ。

「シバイヌ。俺の中を駆け巡ったよ。たった一人を愛すると言う条件なら、他の面談は壊れないのかも知れない。愛した相手とは通常のものでは到達し得ないところまで、行けるのかも知れない」

 シバイヌがニヤリと笑う。

「なら、その一人にその相談者の女性を選ぶか、選ばないか、と言う問題に置き換わった訳だ」

「そうだな。今のところはもちろん彼女がその第一候補だよ。でも、もう少し考えてみたい」

「ああ。親父さんの言うとおり、好きであることを分かることが一番大変だからな。まだ恋の芽だし」

 皿を空にして店を出る。小雨が降り始めていた。シバイヌと、じゃあな、と別れる。

 街に向かわずに、家に帰る。思っていた以上に濡れていたので、シャワーを浴びる。

 ノートさんのことを考えるとき、最初は必ず小夜を引き合いに出していたのに、今はその必要がない。何度試してみてもそうで、そうなのだ、俺の中の小夜は枯れたんだ。俺は自分が次の恋に進む準備が完了したように感じながらも、次の恋が前の恋愛の息を止めると言うことを改めて理解した。この前に別れ話は済んでいるが、小夜にはただの迷惑だと分かっていても、もう一度別れの話をちゃんとしたい。俺自身の純潔を担保したい。

 結論に突き動かされるように、シャワーから出たら髪だけ乾かして電話を取る。きっと、この電話が終わったらこの番号は消そう。

「もしもし、何?」

 小夜は明らかに訝し気な声を上げる。

「いや、今こそ正式にお別れを言おうと思って」

「もう、私達別れたじゃない」

「それだけだから」

「分かったわ。じゃあさようなら」

「さようなら」

 ふう、とため息をつく。予測していても、迷惑を前面に押し出されると気持ちがくしゅっとなる。小夜は俺よりも早い時期から根を枯らしていたのだろうけど、それが先週別れ話をしたことで、枯らした根すら取り除かれているようだ。元恋人に人生の袂を分けたことを改めて突き突けられるだけの電話は、俺の中の根も彼女と同じように枯れから排除まで進めた。俺は自信を持って次の恋に進んでいい。

 何が好きではないかを知ることも、大変で重要だ。雨が段々強くなっている。


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