第9話
結局ノートさんからの電話は六日目の昨日までには掛かって来なかった。
これまでのパターン、と言っても二回だが、からすると丁度一週間の今日は期待が持てると思う。多分九時に掛けて来るだろう。こう言うとき、こちらから電話をすることが出来ないと言うのは不便だが、それがこの電話相談の妙味でもあるから、一方通行を維持することに疑問はない。朝十時から相談を受け付けている土日祝日と違って火曜日の今日は十六時からスタートなので、その時間までは絶対に電話が掛かって来ないと分かっているにも関わらず、俺は何度も電話を見てしまった。何かを待ち遠しく思うなんていつ以来だろうか。子供のときには結構あったような気がする。正月は特に待たなかったけど、誕生日とクリスマスは数えていたように思う。恐らく、毎日がパンパンに詰まっている大人の日々にはない時間的なゆとりが、未来をじっくり待つと言うことを可能にしていたのだろう。今の俺も、時間的にゆとりがある。待つと言うことに集中するだけの余裕があるから、時間の使い方を「待つ」に置くことが出来るのだろう。国家試験の結果発表だって、遊ぶのに忙しくて、気にはしても待ってはいなかった。重要度だけが待つ待たないを決めるのではないのだ。重要でかつ、待つ構えがこちらにある、その双方が揃って初めて、待つになる。
十六時。開始とともに電話が鳴る。
「はい、こちら『嘘生まれの電話相談室』担当ハルです。どうしましたか?」
「あの」
ノートさんではない。若い男の声。
「大なり小なりってどう言う使い方をするのがクールですか?」
「トイレに行くときに『大なり小なりして来る』と言うのがいいでしょう」
「この前、意中の人とファミレスに行ったときに、『大』と言ってトイレに彼女は行きました。脈はあるでしょうか?」
「『大』なりイコール、脈なしです。友達以上家族未満の沼から抜け出せません」
「分かりました、ありがとうございます」
ほぼ悪戯電話に、悪戯で返しているだけのような相談も、一定数あって、もしかしたら嘘生まれと言う看板にとってはこっちの方が本丸なのかも知れないと気持ちが揺らぐ。俺がしたいのはコンタクトに届くような面談なのだけど、看板の解釈はそれぞれによるから、どう言う話が来てもそれに対応するしかない。もちろん、それが自分には出来ると言う自信がある。これまで重ねて来た夥しい量の面談という経験の側面、それをしながら付けて来た技術の側面、そして、応じるという行為のバリエーションを知っていること、そしてそれを使うことが出来るという知識と力の側面、どれを取っても大きな不安はない。嘘を標榜している以上は電話の内容の幅は広くなる。その中に自分の望むような面談があるならば、他に引っ掛かって来るものは甘んじて受け入れるしかない。当然、一切手は抜かない。
だから、相談の電話の間は俺はそれに集中して、ノートさんのことをいっとき忘れる。
電話を切れば、また、待つ。鳴る度に期待する。そして通話を開始して、バレないように違うことに落胆する。まるでガチャポンのような電話。
「ありがとう、ハルさんまたね」
常連の「つらいの」の子の電話を切ったら、八時五十五分だった。
来るのか、来ないのか。いや、来て欲しい。きっと来るはずだ。
鳴れ、鳴れと携帯に念を送る。そんなことをしても結果は変わらないと分かっていても、念じる。
部屋の時計がカチカチと、時間を削ってゆく。運命のその時まであと三分。
尿意はない。水も飲んだから喉もカラカラではない。眠気ももちろんない。
伸びをして、首を鳴らして、対戦相手を待つレスラーのようにリラックスをしながらもいつでも動けるように構える。あと二分。
そもそも九時ジャストに掛けて来る保証はない。分かってる。これは俺の予想で期待だ。胸がドキドキして来た。思わず自分の胸を抑える。あと一分。
三十秒、十五秒、五秒、三、二、一……。
来ない。
いや待て。秒針までがうちの時計と揃ってるということはあり得ないから待とうじゃないか。もう一分待ってから結論を出してもいいだろう。落胆するのはまだはや
電話が鳴る。電光石火の受話。
「はい、『嘘生まれの電話相談室』担当ハルです。どうしましたか?」
「ハルさん、こんばんは。すごいスピードで出るからびっくりしたわ」
ノートさんだ。来た。来た。来た。嬉しい。
「たまたま近くに居たので」
ふふ、と笑うような小さな間。そこから急峻に、真剣の気配。
「後藤田が現象だって、ハルさんが看破してから、その現象のない日々をもう一度見返してみたの」
「どうでしたか?」
「日常に問題はないわ。でも、きっとその現象の中で解消していた何かが、溜まっているのでしょうね、薄く、本当に薄い違和感を時々感じるの」
「それは嫌なものですか?」
「何て言えばいいんだろう。嫌とか快いとかそういう色味を持たない、違和感なの」
「他の色もないですか?」
「透明よ。強いて言えば、忘れ物をした感じに近いかも知れないわ」
ピンと来る。それは後藤田の現象がなくなったから生じたものではない。認めたくはないが、ノートさんの中に後藤田は居たのだ。
「ノートさん。それは、後藤田さんを失ったことを、消化出来ていないことによるものだと思います」
「消化?」
「そうです。重要な他者を失った場合、こころに少なからずダメージが生じます。それは、喪失をちゃんと受け入れることで初めて消えるものです。ノートさんは以前、自分の中には後藤田さんは居ないと仰りましたが、やはり、少なからず居たと言うことなのだと思います」
「私の中に、後藤田が、居たの?」
単純に意外と言った声。
「今も、居る、なのに現実には居ない、そう言う状態の方が的確だと思います」
「そんなことはないと思うわ」
押し問答をしてもしょうがない。だが、俺としては癪だがノートさんの中に後藤田が居ることを彼女に認めて貰いたい。死者との付き合い方の一つとしてずっと、その死者の存在を内側に抱えると言う形もある。生きていく上で問題がないのならそれでもいいのだけれども、今回は話が違う。つまり、ノートさんは後藤田の死を現時点では受け入れておらず、下手をすれば知性的には理解していても情緒的には全く理解していなくて、それが「違和感」として生活に顔を出しているのだ。それが今後彼女の生活をどれだけ脅かすかは不明瞭ではあるし、時間と共に消える可能性もゼロではないのだが、今こそがそれと向き合い取り除く最大のチャンスだ。いや、それだけじゃない。後藤田がノートさんの中に息づいているままであると言うことが、俺が嫌なんだ。じゃあそこに俺のエゴがあるから必要と思えることを実行しないと言うのは間違いだと思う。今回はたまたま、面談師としての正解と俺のパーソナルな願いが一致しているから、進めばいい。違うのならば、面談師としての判断が優先だ。ああ分かった。今俺は、ほぼ、俺が唯一愛する相談者にノートさんを選ぶと自分で宣言した。
「後藤田さんの、二通目の手紙、読みましたか?」
ノートは黙る。問題の鍵を握られたような、うろたえのある沈黙。
「まだ、読んでないわ」
「きっと、その手紙を読んでから、改めて後藤田さんと向き合ったときに、今のやり取りの答えが出ると思います」
「どうしてか、読めないのよ。開けられないの」
「『覚悟が出来たら』でしたっけ、書いてあったのは」
「そうよ『覚悟が出来たら開けて欲しい』と書いてあるわ。でも何の覚悟なのかさっぱり分からない」
後藤田が死んだことを受け入れる覚悟、俺はそう思っているが、しかし通常の人間とは明らかに異なるこころの形をしていただろう後藤田が同じように考えているのかは疑問が残る。
「もし、一人で開けられないのなら、今、電話をしながら、開けてみると言うのはどうですか?」
「それは嫌」
シャープなカウンターのような拒否に、俺のこころが怯み僅かに萎える。
「そうですか。自然と開けたくなる日まで待ってもいいとは思いますけど、今は開けるいい機会だとも思います」
「違うの。電話だと嫌なの。ねえ、ハルさん。これから会わない?」
今度は俺が沈黙する番だ。この「会う」は俺の覚悟の問題だ。唯一人の相談者を愛する、その人にノートさんを選ぶか。うん。選ぶ。さっきこれはもう解決したテーマだ。むしろこれまで守って来た面談者としての矜恃を突破するかどうかが問題だ。
「ハルさん、無理にとは言わないわ。ただ、一緒に開けてくれたら心強いと思っただけなの」
新しい世界は新しい行動の先にある。理論的にはもう詰め切っているんだ。何を恐れる。
「もし、プロとして、会えないのなら、それでいいわ」
「会いましょう」
俺はプロとして、新しい次元に進む。プロだからこそ進む。足りなかったのは勇気だ。彼女の元に飛び込むことがそのまま、俺の面談を進ませることだと感覚的にも理論的にも理解しているからこそ、勇気を要した。その最後のピースをノートさんに今、貰った。いや、今を逃したら二度と会うことが叶わないと言う条件も、俺の覚悟を促した。絶対に選択を誤ってはいけない問いに応えるまでの時間が十秒ちょいしかなかった、それが今後の人生を大きく左右するのに、どう応えても取り返しが付かない未来なのに。しかし、人生の中で限界まで濃度の高い十秒は、彼女の言葉とそれによる勇気の注入で、いとも簡単に解に至った。
「よかった。でも、物理的に遠過ぎたら無理ね。ハルさん、新宿までどれくらい?」
「三十分以内です」
「じゃあ、十時半に新宿の東口、『梓屋』ってコーヒー屋さんで。私がきっと先に着くから、『ノート』で探して」
「分かりました」
「じゃあ、後でね。手紙は持って行くわ」
電話を置く。すぐにアプリを落とす。
髭を剃って、髪を整えて、服は、スーツはやり過ぎだと思うから今のまま、ワイシャツにスラックス。
そうだ、歯を磨こう。これは決してデートではない、だけど、素敵な俺で居たい。
待ち遠しかったその分、ご褒美のような、勝ち取ったもののような、偶然のような、でも、ノートさんと会うことに、少年のように胸がドキドキしている。
玄関のドアを開けて、新宿へ、向かう。
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