第10話

 こんな夜までやっている喫茶店もあるのだな。レンガ作りに木の板の階段を登って二階が「梓屋」だ。入り口から見える店内は一つひとつの席がボックスシートになっている。秘密の話に適した作りだ。席は客でかなり埋まっている、この時間なのに。流石は新宿だ。

「いらっしゃいませ」

 制服の男性がスーっとやって来た。

「あの、待ち合わせなんですけど、ノートさん、いらしてますか?」

「少々お待ち下さい」

 男性が他のスタッフに確認を取りに行く。少しだけ薄暗くて、白熱電球の光をイメージする店内。

「どうぞこちらに」

 ノートさん。どんな人なんだろう。電話の感じからして、会ってみたら奇矯な人だってことはない筈。見た目、綺麗だといいな。でも分からない。それは全く分からない。ピアニストだから綺麗とか、元愛人だから綺麗とか、それは分からない。でも、あのこころと声だから、醜いと言うことはないだろう。

 一歩一歩がスローモーションで、目に入る全ての人物の姿を吟味する。鼓動が高鳴っているのが分かる。

「こちらです」

 店員の声にハッとする。観察と自分の緊張と期待に没頭していたことに気付く。

 見れば、麦わら帽子を被っていて顔が見えないが、女性が席に座っている。小さな花の柄のワンピース。アイスコーヒー。店員に礼を言いながら席に就く。

「ハルさん?」

 彼女はそう言いながら帽子を取る。肩までの髪が微かに揺れる。電話で聞くのよりずっと、貫通力のある声はしかし、慈愛の丸みも帯びている。

「はい。ノートさんですね?」

「はい。ようこそ新宿まで」

 ニコリと笑う。可憐。今、恋の芽は茎くらいまで成長した。

「よくこのお店来るんですか?」

「そうね。でも、常連って程ではないわね」

 俺もアイスコーヒーを頼む。初夏とは言え、汗が出る。それともこの汗は全て、彼女に初めて会うと言うことに由来するものなのだろうか。少なくとも、俺のこころの躍動が、俺のホメオスタシスを少なからず乱していることは把握出来る。

 ノートが少し身を乗り出す。それだけで、ドキっとする。だけど、一ミリだって引けないし、引きたくない。

「ハルさん。さっきのこと、私も考えてみたんだけど、やっぱり私の中に後藤田が居るって言うのはちょっと分からないの。それでも、ハルさんの意見は変わらないの?」

「ええ。変わりません。世界の中に違和感を持っている正体がそれだと思っています」

「そっか。まあ、こうやってここまで来ているってことは、私もそれをどうにかしたいと思っていると言うことなのよね」

「その通りです」

 ノートは鞄の中から封筒を出す。青い、封筒。それを丁度二人の真ん中の位置に置き、二人に対して九十度、どちらから見ても文字が読み易い方向に向ける。そこには電話で聞いていた通りに「覚悟が出来たら開けて欲しい」と、角ばった字で書いてある。

「これを開けるのね。でも、ちょっとまだ勇気が足りないわ。少し、関係のない話をしてもいいかしら?」

「もちろんです」

 さっきは俺が勇気を貰った。店の入り口の方で「いらっしゃいませ」と聞こえる。開いたドアから夜の精が少しだけ流入した。

「私は両親ともに音楽家で、物心ついたときから音楽に触れて生きて来たわ。でも両親は別に私の将来は私の好きにすればいい、って考えだったの。とは言え、ピアノは幼い頃から習い始めたし、他の楽器にも触れていたし、何より父のライヴを見て、こう言うことがやりたい! って私は音楽の方を向いたの」

「お父さんって何をされてるんですか?」

「ギタリストよ。母はピアニスト。接点は不明だけど、音楽に対する情熱は二人は似てるわ」

「ギターやりたいってならなかったんですか?」

「やったわよ、もちろん。他の楽器も色々。でも、やっぱりピアノが好きなの」

 ノートさんの眼が熱く、そして微かに潤んでいる。人が大好きなものを語るときの眼だ。

「で、ピアニストになり、作曲家になり、先生になったのよ」

 途中が大きく省略されている。

「たくさん努力したんですね」

「そうね、努力はしたわ。でも、努力って、それ自体が目的でも、何かのための過程でもないと思うの」

「と言うと?」

「努力は結果よ。何かが欲しいと言う想いが情熱が、結果として努力をさせるのよ」

 これまで常に何かと何かの間にあった努力が、いきなり最終産物のような位置になって、奇妙な心許なさを感じる。ノートさんが言っている努力なら、その後に欲しい何かが来ると言うことは分かっていても、断端に努力が置かれたように思う。でも。

「そう考えると、努力が苦しいと感じるのが緩和されそうですね」

「苦しいときはあるわ。大事なのは、先にパッションがあると言うことよ」

 中華料理屋の親父さんも似たようなことを言っていた。何かを好きであることと、誰かを好きであることは、同列に論じてもいいのだろうか。多分、ちょっと違う。その違いは、相手が人間であることだけではないように思う。面談を愛するように人のことを好きになると言うことはないと思うし、逆もそうだ。それはまるで温度と味が違うように違い、温もりと旨味が違いながらもいずれも俺のこころを動かすように似てもいて、それでもやはり別のもののように思う。ノートさんも親父さんも、何かをすると言うことについての好きを、言っている。恋ならば、どうなのだ。その相手に向かうか、向かわないか。好きに向かうか、向かわないか。そうか、二人が恋について論じないのは、恋の方がシンプルだからだ。苦楽とか努力とか考える以前に、十分に恋の中に居たら向かう以外の道がないのだ。だとしたら、俺はシバイヌの言うように、恋の芽に過ぎなかった。今は茎だ、それはまだ躊躇があると言う意味でだ。

「ノートさんのパッションって、どこに向かっているんですか?」

 ノートはアイスコーヒーを手に取り、軽く啜って、置く。

「最高の音楽を作りたい。そしてそれを演奏したい」

 真っ直ぐな眼。本当にそれを求めているのだ。人生を、若い時間を投じているのだ。俺はまだ彼女の作品を一つも聴いたことがない。でも、だから、この眼をする彼女の作品を、聴きたい。聴いてみたい。

「でもね、ハルさん。音楽は、相手に届いたところで初めて完成するの。私一人が最高と思っただけでは半端なのよ。それが残酷で素晴らしいところ」

 俺でよければ。その一言が言えない。そこはまだ踏み込んでいい限界の向こう側だ。

「私は必ずこのパッションを作品に仕上げるわ。有名になるかも知れないし、そうじゃないかも知れない。でも、多くの人に届けるには、多少は知名度があった方がいいとは思うわ」

 力のあるものが知名度を得てのし上がるのが当たり前と言う程には、シンプルには出来ていない。ノートさんもそれでつまづいたことがあるのだと思う。いい音楽をすることよりも、宣伝が上手い方が広く認知される結果、仕事も増える。圧倒的に素晴らしければ大勢に支持されると言う幻想を保つのは難しい。ノートさんの言葉の中に、初めて現実に刻み付けられたものの痕跡を見つけた。

「ねえ、ハルさん。一つ嘘をついてよ。何か、素敵な嘘」

 ため息のような声。自分に張り付いている現実を振り払うような。それとも、彼女は何かに縋ることを求めているのだろうか。勇気が足りない。だから、それを補うような話を、もしかしたら補うような俺を、求めているのだろうか。

「狼と嘘と言えば、狼男でもウルフマンでもなくて、狼少年を思い出すと思います」

「そうね」

「狼少年は、何回も『狼が来た』と嘘を言って、それが信用されなくなった、そう語られることが多いのですけど、本当の問題は嘘が摩耗したことじゃない」

 カラン、とノートのアイスコーヒーが音を立てる。

「少年は最初に嘘をついた。そのときには嘘によって引き起こされるパニックなど想像も出来なかった筈なのに、生きていく上では必要の全くない、人に迷惑な嘘を、ついた。それまでの世界がゼロで、平穏な日々だとしたら、彼が嘘を投入することによって世界は一になったんです。ゼロから一への跳躍、その最初の一歩ほど重要なものはありません。世界はもう一を知りました。もうゼロだけの世界には戻れません。ゼロか一かです。狼少年は悪い方に世界を進めましたが、実にこの話は、世界を変える最初の一歩の話なんです。ノートさん」

「はい」

 ノートの声に微かな緊張が張り付いている。

「世界を変えるときは、嘘ではないもので、変えましょう」

「そう、するわ」

 嘘生まれの面談師が言うからこそ、狼少年の嘘の意味が多義的になる。狼少年の話の解釈にこのようなものがあることは嘘だが、解釈の内容自体は真実と思っているものだ。でも嘘面談の男が言っているのだ、そこまでも嘘かも知れない。否。コンタクトを取り合っている俺達には、もうそこの真偽の判定は自動で、完璧な精度で、双方がすることが出来る。俺が伝えようとしたことが彼女に伝わらない訳がない。

 ノートは黙って、俺の方向と言う虚空を見つめている。寓話が消化されるまでそう長くはかからないだろう。アイスコーヒーをゆっくりと吸う。

「ハルさん」

「はい」

「手紙を開けるわ」

 ノートは手元に、置きっ放しにしていた青い封筒を持って来て、端をビリビリと開ける。中からはやはり青い便箋が出て来た。

「一緒に、見て」

 二つ折りの便箋を開けると、住所と寺の名前、「俺の墓はここにある」の一文のみが記されていた。

「寺、ですね」

「そうね。後藤田の墓がそこにあるのね」

「墓参り、行きましょう」

「どうして?」

「世界にある違和感の答えがきっとそこにあります」

 ノートは黙って、もう一度便箋を見る。まるで、後藤田に意見を訊いているかのよう。

「分かったわ。行く。でも、ハルさんも一緒に来て欲しい」

 それとも後藤田に訊いていたのは俺を連れて行く許可だったのだろうか。だとしても、墓参りに俺を呼んでくれるのが嬉しい。これまでの間にきっと、彼女の勇気を補うものに俺はなったのだ。

「分かりました。私は明日明後日は仕事がないので行けますけど、ノートさんはどうです?」

「私も明日が都合がいいわ。明日、朝の九時にお寺の最寄り駅で集合と言うことでどう?」

「そうしましょう」

 決まったら、俺達はすぐに店を出て駅まで一緒に歩いてそこで、別れた。明日に備えるために早寝をしなくちゃならないのに、もう十一時だ。睡眠時間を思うとげんなりするけど、俺の胸はホカホカとしている。ノートさんは会ってもやっぱりノートさんで、まだ触れてもないけれどもとても、大事にしたいと思う。

 車窓から見える闇と光も、パレードのそれのように思える。

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