第11話

 朝の中央線であっても、御茶ノ水から下りなので座れるほどに空いている。赤の他人とは言え墓参りなので黒のスーツの上下で来たが、暑い、上着はずっと荷物のままだろう。鞄の中には数珠がある。祖父が亡くなったときに母が「一生使いなさい」と渡してくれたもので、実際にそれから十年以上使い続けている。これからノートさんに会うのに、数珠を準備していたら母のことが思い出されて、今日のことが終わったら久しぶりに電話でもしようか、そう言う風に思い出させる仕掛けとして母は数珠を渡したのではないか、だとしたら見事に機能しているな、と頭の中を母のことが飴玉を転がすように巡っている内に約束の駅に着いた。

 電車を降り、一つしかない改札を出てその脇で待つ。

 蝉の声が聞こえない。あの鳴き声は夏のどのあたりで始まるのだっただろうか。思い出せない。

 もしノートさんと一生を共にするのならば、母にも、無論父にも、会わせることになる。きっと自信を持って紹介出来るだろう。でも、それにはまだ越えなくてはならないものが幾つもある。その最初のものとして、後藤田を終わらせる。それが達成出来ないと俺の恋の茎は花を咲かすことは叶わないと俺の過半が確信し、残りの部分は関係ないと言っている。その二つはモザイクのようにそれぞれの意味と形を保ちながら一様に混じり合っている。どの一部を切り取っても、確信と否定が同時に含まれている。清濁を併せ飲むように俺はそれらをこころのフィールドに並べて、それがノートさんにとっても必要なことだと言うことを確認した上で、選択をした。後藤田をノートさんから終わらせる。

 だからこうして彼女を待っている。

 次の電車の音。まばらに改札を出る人々。

「おはよう」

 横からノートさんの声。振り向けば、真っ黒なワンピース。俺は息を飲む。黒が女を美しく見せると言うのは嘘だ。黒は、その人の正体を映すのだ。生命力と愛、探究と情熱、そして繊細、それらが同時に彼女の纏う黒に在る。その全てが交われば、引力となって、俺は動くことも出来ない。

「ありがとうね、付き合って貰って」

 俺の横に立つ彼女。俺は辛うじて声を出す。

「いえ」

 そのまま、二人で暫く立ったまま、何も言わない。

 これから暑くなりますよと宣言するような青い空。彼女は何を待っているのだろう。俺は何を待っているのだろう。でも何となく、ここから一歩を踏み出したらもう戻れないストーリーが始まる予感がする。それがハッピーエンドかバッドエンドかは分からない。望む人とその結末を迎えられるかも不明だ。でも、ここから引き返すことはしたくない。この場所まで来たのは俺の意志だ。そしてきっと彼女も同じ。だとしたら、俺が先頭に立ってもいい筈だ。いや、むしろそれを彼女は望んでいるのかも知れない。だって、勇気の足りないところを俺が補っているのだから。

 俺は気取られないように小さく、深呼吸をする。息が出切ったところを開始点と決めて。

「そろそろ、行きましょうか」

「……はい」

 ノートさんはグッと腹に力を込めてから、返事をした。

 道はネットで予め調べていたので分かる。徒歩十五分程度の距離だ。二人して何も言わずに、てくてくと、俺が前でノートさんが後ろで、歩いてゆく。道すがらの町は民家が殆どで、それらには時間を進めることに抵抗をしているような、沈黙がある。拒否されている訳ではないのに、圧迫を感じながら進む。緩い坂道を登ってゆく、ただそれだけなのに、体力と精神力が削られてゆく。

「大丈夫ですか? 休みますか?」

「これくらいは大丈夫よ」

 足を止め振り向けば、ノートさんは涼しげに微笑む。俺が盾として機能しているのか、独り相撲をしているのか、一瞬その判別に意識が向いたが、すぐに、ノートさんが大丈夫ならいいか、とほっとする。

 坂道を登り切ったところに目的の寺があった。開け放たれた門扉から臨む本堂は寺らしく枯れた風情をしているが、駐車場には高級車とジープが止まっていて、この場所も人間の営みの内であることを感じさせる。

「ここですね」

「大きなお寺ね」

「中の人にお墓の場所を聞いた方が良さそうですね」

 境内に踏み込む。現世からちょっとだけあの世に近い場所。ノートさんと血の濃さの関係があるような錯覚に陥ったのは、異界の香りのする中で似たような服、喪服、を着て歩いているからだろう。階段を昇り、恐らくこの界隈で最も高い位置に建っているお堂の中へ進む。

「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?」

 声を上げると、奥からお坊さんが出て来た。

「はいはい、どうしましたか?」

「あの、お墓参りをしたいのですが、お墓の場所を教えて頂けませんか?」

「どちらのお墓でしょう?」

 後藤田雅樹とフルネームで言おうとして、待てよ、本人は四十九日を過ぎていないからまだ埋葬されていないことに気付く。さて、どうしよう。

「後藤田雅吉さんのお墓です」

 ノートさんが横から答えた。誰だ。雅吉って。

「そうですか、感心なことです。今場所を示す地図を持って来ますから、少し待っていて下さい」

 お坊さんはにっこりと微笑んで、奥に向かう。

「誰ですか? 後藤田雅吉って?」

「後藤田のお父さんよ。早くに亡くなってるの。名前が似ているから覚えていたの」

 ちょっとだけピンチだったことにお礼を言ってをしている間に、お坊さんが戻って来る。

「この地図の印を付けたところがそうです」

「ありがとうございます」

 二人して頭を下げて、墓地の方に向かう。

 広い寺の敷地の、割と端っこの方にあるようだ。墓地の入り口で線香の束とろうそくとライターが売っていたのでそれらを買う。お墓のエリアは迷路みたいで、気が付けば前も後も誰も居ないインスタントな二人きりの秘密の空間になって、緊密な気持ちが育つ。手を取ってもいいのかも知れない、いや、まだだ、これからすることを越えるまでは、決して侵してはいけない。

 小径を辿って、俺達は「後藤田家之墓」の前。

「ここね」

「そうですね。間違いない」

 空は相変わらず真っ青で、世界には俺と彼女とお墓しかないみたいだ。

「普通のお墓ね。あまり手入れはされてないみたい。掃除用具くらい持って来た方がよかったかしら」

「それはノートさんの役目じゃないですよ」

「そうね。でも、四十九日の前だから、後藤田はこの中には居ないわ」

「居ます。骨はここにはないですけど、ノートさんにこの場所を示した手紙を書いた以上、彼はここに居ます」

 ノートは黙る。本当は彼女の中にこそ後藤田は居るのだが、彼女はそれを否定している。だったら、実際に会えばいい。会えば、自らの胸の中に棲む者が何か自ずと分かる筈だ。

 ノートは少し俯いて暫くそのままで、俺はそれを見ていて、彼女が決まるのを待つ。

「居るのね。分かったわ。覚悟が決まったらって、こう言うことだったのね」

 まるで予め定められていた行動のように俺は彼女にろうそくとライターを渡し、彼女は火を点け、線香を受け取りそれに火を移し、香炉に立てる。ポケットから数珠を出して、ノートさんはしゃがんで、手を合わせ目を閉じた。

 時間が止まった。目を閉じてる長さが想いの重さとイコールではないことは分かっていても、そのままずっと動かないノートさんを見ていたら、これが彼女の中の後藤田を終わらせるための行動の筈なのに、逆に後藤田が彼女の中に永遠に根付いてしまうのではないかと思える。記憶は消せない。経験はなかったことには出来ない。だから、彼女の中に後藤田との日々が在り続けることは回避出来ない。だけど、想いは別だ。終止符を確実に打ったところで想いが消える訳ではない。でも、その想いが色を失い、形を失い、枯れて灰になるためには、踏まなければいけない手続きがある。その初期のものが、終止符なのだ。俺は俺のために彼女を墓の前まで連れて来た一面はあるが、それ以上に彼女が進むための一助になりたい。ノートさんが幸せになるために必要なことを今、している確信がある。

 ノートは目を瞑った同じ表情で、最後に小さく息を吐いて、すくっと立ち上がった。涙はない。そして俺に参れと促すから、線香に火を点けて、数珠を構える。

 こんにちは、後藤田雅樹さん。あなたのことは全然知らないけれども、俺の大切な人にとって特別だったことは確かみたいです。確実に終わらせて見せます。そうですね、これは宣戦布告ではなく、勝利宣言です。こちらの世界のことはもう気にせずに、あの世でゆっくりして下さい。では。

「ずいぶん短いお参りね」

「言うことが少ないからですね」

 連れ立って歩き出す。でも、ノートさんがとてもゆっくり歩くから、そのペースになる。

「あのね、なんか、ね」

「はい」

「なんか、やっぱり、後藤田は私の中に、少しだけ居たみたい」

「そうですか」

 ジャリジャリという足音が、ちょっとずつの間を挟みながら続く。

「お墓の前で、お墓の中の後藤田と話をしていたの、最初は」

 空気が沈黙しているから、彼女の声がよく響く。

「なのにね、気が付いたら、私の中に居る後藤田と話をしていたの」

「どんな話か、聞いてもいいんですか?」

「ハルさん。きっと他の誰にも言えない。ハルさん、聞いてくれる?」

「もちろんです」

「後藤田は、消えたくないって言ったわ」

「消えたくない?」

「死んでも、私の中から消えたくない、って」

「それを聞いてどう思いましたか?」

 ノートは言い淀む。足音だけが続く。幾らでも待つ気持ちと、内容が不安なのとが混じって、奥歯を噛み締めてから緩める。

「消えかかっているから、そんなこと言うんだろうな、って。可哀想とか、そうだね、とか、全然思えなかった。私、冷たいのかも知れない」

「冷たくはないですよ。そして正直です。自分のこころに嘘を掛けないで言葉にするのは勇気が要ることです」

「そうしたら、私の中にあった後藤田が全部集まって、ひとつの棘になった」

「棘?」

「こころに刺さる、棘。もう何も言わないわ。でもこのまま放置したらこころにウオノメが出来てしまいそう」

 ウオノメか。そうなる前に棘を抜かなくてはならない。でも、これは後藤田が存在の痕跡を残すためにした攻撃ではなくて、ノートさんが後藤田を終わらせるための準備として後藤田をまとめた、そっちの方が解釈としては合っているだろう。ウオノメの危機は、こころに棘を置いたままにするとこころがひしゃげる危機のことであり、それは後藤田をまとめて一箇所に置いていると言う状態から生じている。より正確に言うと、死んだ後藤田への全ての想いを集約させたものとしてそれがあるのであり、ウオノメを生むリスクは後藤田そのものではなくて、彼女の想いの集合体の方だ。

「どうすれば取れるか、わかりますか?」

 墓地を出る。ノートは何も言わない。境内を出る。ノートは何も言わない。

 俺も何も言わない。

 行きに苦しんだ坂をゆっくりと下る。今度は彼女が前で、俺が後ろ。

 その半ば、ふと、ノートが足を止める。振り返る。

「私なりの取り方が、分かったわ」

「どうしますか?」

「それは秘密。でも、出来上がったら、聞いてくれる?」

 どうしてそこだけ秘密なのだ。その上最終的には俺に話すってのは、意図が分からない。

「ハルさん、眉毛がこんがらがってる。でも、今日ここまで一緒だったハルさんには、出来上がってから聞く、権利と義務の両方があると思う」

「分かりました。でも、どうして秘密なのかだけ教えて下さい」

 ノートは、るーっと空を目で追う。そしてピタっと俺の顔を見る。

「その日が来たら、秘密の理由も分かるわ。持ち堪えて、秘密の重さに」

「しょうがないですね。承りました」

「その日には、またあの電話を掛けるから。待っていて」

 俺は頷く。

「待ってます。きっと待ってます」

 坂を下りて、電車に乗り、別れた。嘘と秘密は双子の姉妹だ。どちらも、本当のことを、言わない。その言わなさの形式が異なる。ノートさんの生んだ秘密に、俺は不満よりもわくわくしている。後藤田の棘を溶かす何かなのだ。彼女はきっと前に進める。そこに俺が居ようと居まいと、その「前」は幸せに近付く方向だ。

 自宅から見る空の色が、墓地のそれと違って見える。

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