第12話

 墓参りから三ヶ月が過ぎ、蝉は鳴き白雨の降る季節になっても、ノートさんからの連絡はない。

 俺はしかし、茎まで成長した自分の気持ちに始末を着けようとは思わない。かと言って隔絶の時間がそれを育てもしない。コールドスリープのように停止して保存されるのではなく、胸の内で生きているままで、大きくも小さくもならずにそれは、在り続ける。もしこのまま連絡が来ずに時間ばかりが過ぎたら、俺はどうしよう、少し考えてみても、確かにある想いを分かりもしない未来にどうするかを決めることはひどく意味を損ねるように感じて、やめた。

 ただ一つ生じた変化は、電話を待つためにソワソワすると言うことがなくなったことだ。前提が掛かって来るかも知れない、と言うところから、今日も掛かっては来ないだろうと言うところに移ったのだ。諦めた訳じゃないのだけど、待ち方が変わったような。

 だから、九時の電話であってもあまり期待しないで取る。そして、ノートさんではない相手と話をする。

 電話が鳴る。時刻は九時。

「はい。『嘘生まれの電話相談室』担当ハルです。どうしましたか」

「ハルさん、久しぶり、ノートよ」

 だから、虚を突かれた。話すことが商売なのに、言葉が出ない。間違いない。この声を聞き間違えることは絶対にない。声はその人の魂に繋がっている。その色を取り違えることはない。ノートさん。ノートさん。待ち焦がれることはしなかったよ。待つのが普通に、俺の生活の一部になっていたんだよ。打ち消してはいたけど、もう二度と声を聞けないんじゃないかって、どこか不安だったんだよ。胸がじんとしてる。今俺をもうちょっと押したら、泣いちゃうかも知れない。

「どうしたのハルさん?」

「電話が来て、嬉しいんです」

「ごめんね。思ったより時間が掛かっちゃった。それで、あの日の棘を取る方法の秘密のこと、覚えてる?」

「もちろんです」

「それが完成したから、私の家に来て欲しいの」

 家? あの喫茶店ではダメなのか?

「他にも選択肢はあるのだけど、現実的なのが、家なの。ダメ?」

「行きます」

「明日は空いてる?」

「大丈夫です」

「じゃあ、明日の朝十時に飯田橋の西口で待ち合わせで、いい?」

 意外と近い。新宿の喫茶店よりずっと近い。

「分かりました」

「じゃあ、また明日」

 電話を置く。短い、短い電話。でもそれがあるのとないのとでは天地の開きがある。俺達は再び交わり、進む。アプリを切って、夕食と寝るまでの準備を迅速にして、ベッドに転がる。

「ノートさんの秘密の答えって、何なんだろう」

 無目的に両手を弄びながら呟く。待つ日々が始まったときにもこうやって考えていたが、皆目見当が付かないのでいつしか考えるのをやめていた。しかしいざそれが明日分かるとなると、待てば分かるのに、考え始める。考え始めてみて、なんだか予想をすると言う行為が、ギャンブルのような下賤さがあるように思えて、ノートさんを汚したくなくて、その思考を封じた。一部分に蓋がされたことで他に圧力が掛かったのか、俺の脳はノートさんの声を反芻して、やっぱり電話が来て嬉しい、そのまま寝付いた。


 飯田橋の改札を出たところでノートさんを待つ。ちょっと来なかった内にかなり駅の感じが変わっていて、改札の出口の場所も明らかに違う所になっていて、よそ者のように自分を捉えながら立つ。

 向こうから来る麦わら帽子、空色のワンピースの女性がノートさんであることは、距離がかなり離れていようとも、その部分が光って見えるから自信がある。俺はその姿をじっと見詰めながら、けれど彼女は帽子で目線が隠れているから、視線で一方的に空間を抱きしめる。駅の近くに至ると、彼女はつばを上げて、キョロキョロとし、すぐに俺を見付け、来る。

「ハルさん」

「ノートさん」

「じゃあ、こっちに、どうぞ」

 ノートさんに付いて歩くと、神楽坂もアウェイ感が消える。坂を登り切ってさらにもう暫く進んでから、横に折れると住宅街があった。こんなところにも人は住むのか。さらに進んで、一軒家の前で彼女が止まる。

「ここがうちよ。今日は両親ともに居ないから、気を遣わないで大丈夫よ」

 実家であり、実家暮らしであり、と言うことはこれから入る場所は彼女の人生の跡はあれど、後藤田の痕跡は存在しないと言うことだ。後藤田の用意した愛人宅に連れ込まれるのかと一瞬でも考えた自分を恥じる。

 さ、どうぞ、とノートに先導されるまま、家の中に入ってゆく。玄関からすぐ左の部屋に通される。そこにはグランドピアノ。部屋のサイズからするとちょっと窮屈そうに見えるが、収まっていて、本棚は楽譜らしきもので埋まっていて、あとは小さな二人がけのソファーがあるだけだ。ピアノを横から臨むソファーに腰掛けるように促される。

 ノートさんが入り口のドアを閉める。太い、この部屋に似つかわしくない取手がガシャンと下ろされたことで、この部屋が防音室になっていると分かる。ピアニストで作曲家のノートさんがこの部屋に俺を連れて来る理由は、一つしかない。

「私の答えは、棘を曲にして葬ると言う方法よ。ハルさん。出来上がった曲を聞いて欲しい」

 ピアノの前に立つノートさんは力に溢れている。彼女が、彼女のやり方で、棘に向き合いそして恐らく克服して、きっとその最後の仕上げに俺を要してくれている。嬉しい。でもこれは後藤田の曲だ、そう思うと胸が空洞のようにドキドキする。

「私が聞いて、初めて完成するんですね」

「そうよ。まさに、そうよ」

「聞かせて下さい」

 それには答えずに、ノートは頭をぺこりと下げた。拍手は要らないだろう。俺がここで見ている。

 空色のワンピースがグランドピアノの前に座り、それだけであの日の墓石と空のように思える。俺は何も言わないし、彼女も何も言わないまま、集中への緊張が累積する。

 爆発するような低音から始まる。低い音の中で蠢く何か。リズムはアップテンポと言えるだろう。

 そこに中音域のロングトーンが入り、次いで短いもの、長いもの、まだメロディーになっていない、断片をわざと並べているのか、ひどく不安定に感じる。いや、不安に感じる。よるべない、存在することがあまりに裸であることに対する不安だ。

 低音域が普通のベースくらいの低さに登り、リズムを刻み始める。同時に、バラバラだった中音域の音がメロディーにまとまって来て、ロマンの色の強い三つのテーマを巡る。その内の一つのテーマに絞られ、コードが進みながら、そのテーマと装飾達で一群を形成し、それがさらに回転しながら変化してゆく。それはとても激しくて、嵐の中を命をはち切らせながら踊っているような、その命で何かを生み出しているような、荒々しい多色の粒を撒き散らしている。その姿をただ見るだけで、俺すらも燃え上がる影響を受けてしまいそうな。

 小さな区切りのようなところから、高音域に全体がシフトし、そこで二つ目のテーマが中心になる。メロコアと言うのが合うような、パンキッシュなベースとコードのライン。左手だけ低音に還り、ヒステリックにテーマとそれが纏うジュエルを飛ばす。虚飾の世界。そこに表現されているのは、魂のない熱狂だ。なのに、曲自体に魂があるという矛盾が面白い。

 再び中音域から少し高めを中心にして、三つ目のテーマ。それはどうしても切なさを消し切れない。曲調はロックに収まっており、ときに複雑なコードを噛ませながら、切なさを踏み付けて血の声を叫ぶ。声だけが、存在の証明で、もし発しなければ、彼は存在しない。彼そのものはどこへ行ったのだ。それを省みることは永久になくて、だからずっと、その命が尽きるまで声を出し続ける。

 再び三つのテーマが織り混じる時間帯になる。しかし必ずテーマ順で、それは彼がどのように変化していったかを記録し続けているのだ。もう、彼は本体がない。本体を失った彼は、どこへ行くのだ。

 そう思った途端に、曲が終わる。いや、続きがある。

 三つのテーマを踏襲しながら、バラードだ。今度はクラッシックの曲と思える。それはまるで、安寧の場所を見付けたかのよう。ああでも、そこは素になることは出来ても、やはり愛の場所ではなかったのだ。無機質ではない。儀礼的でもない。でも、人間と人間のコンタクトがそこにはない。それは彼自身の問題だったのかも知れない。ノートさんはコンタクトのある人間だから。それとも、二人がその場所に求めたことがそうだったから、それ以上にはならなかったのかも知れない。今となってはもう分からない、でも、今分かることは、ノートさんはその場所をもう必要としていないという事実。過去の色を丁寧になぞって、なぞったところから砂になってゆく。そういう、音だ。

 再び、ロック。テーマがなくなった。いや、第四のテーマと言えばいいのだろうか。違う。これは歌だ。メロディーを歌っている。ノートさんが、歌を弾いているのだ。それは、歌う彼女が存在しつつも、歌の中にも彼女が居るということ。そして、これまで描かれて来た後藤田は、その歌には含まれない。砂に全てなった。砂は風に吹かれて、消えた。「消えたくない」と言っていた棘の元である後藤田は、消えたのだ。

 ノートさんの中の棘は消えた。今、ここで流れているのは、爽やかな風だ。優しいロックに変化した音楽が、そのまま風のように流れている、そしていずれ、風の後になる。

 弾き終えたノートさんは、暫くそのまま座っていた。

 俺も何も言わずに座っていた。時間は止まらない。ゆっくり動き続けている。

 ノートさんが立ち上がり、一礼する。

「俳優のためのレクイエム、でした」

 俺は頷く。

「しかと、聞きました」

「ハルさんが受け取ってくれたなら、この曲は完成で、おしまい。もう二度と弾かないわ」

「そうですね。さよならは完成しました。棘は取れてる筈です」

「そうね」

 ノートさんが俺の隣に座る。激しく弾いた熱気が空間越しに伝わって来る。

「ハルさん。私、やりたいことが出来たわ。手伝ってくれる?」

「どんなことですか?」

「最高の曲を作りたい。ずっと同じことは思ってたけど、違うの。ハルさんとだったら、本当の最高の曲が、出来るんじゃないかと思ったの」

 作曲を俺はしたことがない。でも、彼女がそう言うのなら、役に立つのかも知れない。俺とだったら出来る、と言ってくれたんだ、分からないけどやってみよう。

「分かりました。やりましょう」

「ありがとう。私、本名は春日野音、野原の野に、音楽の音。連絡先も交換しよう」

「私は、って言っても、プライベートでは俺って言ってます。これからはプライベートで、いいんですよね」

「いいわ。敬語も要らない」

「俺は坂梨春。春夏秋冬の春」

「お互い、本名を名乗っていたのね」

「そうですね。っと、そうだね」

「敬語のままでもいいよ」

「いや、そこは分けたい」

「じゃあ、これからもよろしく」

 野音が右手を差し出す。

 俺はその手を掴む。野音さんの右手は、燃えるように熱い。グッと力を込める。

「こちらこそ、よろしく」

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