第13話

 握っていた手をゆっくりと離す。二人ともがその手を自らの場所に戻すのに、呼吸を取る。意識が二つの手からようやく相手に向き、目が合う。俺のこころと体に疼きが走って、反射的にそれを隠す。俺が規定する俺自身や俺が彼女が規定していると思っている俺の像に嵌め込みたい訳じゃない。これから始まる素晴らしいことにとって、要らない疼きだと瞬間的に判断したのだ。

 野音さんはまだ弾き終えた興奮から醒めていないのだろう、瞳を微かに潤ませつつ、そこからその体に携えた熱量が漏れている。いや、興奮は俺も同じなのかも知れない。捉えてみれば、閉鎖された部屋は二人の興奮で満ちている。

「春さんは、嘘つきではないわ。真理を見抜いているわ」

 そうなのかも知れない。でも、自分ではよく分からない。ただ、それを見付けようとはずっとしている。

「でも今は、嘘生まれの電話相談室をしている。どうして春さんが今の仕事をしているのか」

 前職は知らない筈。本名が分かれば検索もしようがあるが、数分前のことだ。俺だって自分の最底流の部分でこの転職の判断をさせた何かがあることには気づいている。でも、その正体は分からない。

「電話面談の中でその見抜く眼は、相談者にとってとても効くものだと思うの。そう言う意味では適職を選んだと思う。でも、春さんが他の職業を選ばなかった理由は別にあるわ。同僚や上司が居る職場で横や縦の関係がある中では、真理を見抜く眼と言うのはひどく恐ろしいものに映るの。普通の人間が日常的に晒されるには耐えられないものよ。だからどれだけ春さんが正しいことを分かっても、それは通り辛かったり、無視されたり、煙たがられたり、そしていずれ人間関係自体が少しずつ歪みを得て、ギクシャクしてしまう。天性のものなのか努力して培ったものなのかは私には分からないけど、その眼は春さんと一体となっているから都合よく切り替えられない。だから、独りでの仕事を選んだの」

 俺は石になって野音さんの説を聞く。説? これが答えなんじゃないのか? 俺は真理と名付ける程大逸れたことを常に周囲に突き付けて来たつもりはない。ないが、真理に近付こうとは常にして来た。それは真実の積み重ねの上にあることもあるし、探索の結果発見することもある。コンタクトが取れたときには、相手の中の真理に手が届くのだ。そしてそれを言葉にすると、相手の世界が変わる。それが俺の面談のやり甲斐で、精神科医の時から変わっていない。でも、それは面談の中のことだ。外ではそれをする条件が足りないし、そもそもそれをする動機も必要性もない。だから、そんなことは生じ得ないと……放置していた。まさか、生じていたのか。もし俺がそう言う眼で周りと付き合い、見えたものを前提に話を行動をしていたら……それは相手に対する傷害行為になってもおかしくない。それぐらいに相手の真理を言葉にすることは侵襲性が高い行為だ。だから安全と安心のある面談の中でしかしないし、生じないものだと思っていた。違うのか。まさか。違うのか。意図的にオフにしなければ、俺の眼は垂れ流しになってしまうのか。

「どうしてそれを?」

「曲を弾いた後に、手を握ったら、流れ込んで来たわ」

「俺が、関係を破壊したのか」

 野音はほんの刹那考える。

「別にいいじゃない」

「え!?」

 素っ頓狂な声を上げてしまった。待て待て。俺の性質と化した真理を見抜く眼によって俺の人生が変わったんだよ? あれ? それって当然のような気がする。そうだ、そこじゃない。意図的にオフにすることをすれば回避出来たかも知れない関係の破壊をしてしまったんだ。それにずっと気付くことが出来なかったのだ。

「もう分かったんだから、次は上手くやれるわよ」

「確かに、そうだけど」

「過去は絶対に戻っては来ないわ。それに、私はその眼で見抜かれても、大丈夫よ」

 そのような気がする。と言うよりも今見抜かれているのは俺の方だ。いつも俺がしていることをされているのだ。俺の最低流に流れていたものの正体はこれだったのだ。自分では正しいと信じていたものが、対象としていない同僚や上司に対しても漏れて、関係を歪ませていて、しかも、その仕組みに全く俺だけが気付いていなくて、でもその社会での居辛さだけは感知していて、それが底流に流れ込んで。

「解かれてしまえば、これしか答えはありえない。……野音さん、あなたは俺を解いた。俺の一番根深いところを。……ありがとう。そして、この眼と居ても大丈夫と言う言葉、信じるよ」

「ええ、信じて」

「どこか爽快で、ずっとあったものが急になくなった『欠けてる』感があって。核心を突かれるってこういう感じなんだ」

「私も、前に春さんに突かれたわ。別に真似しようと思った訳じゃなくて、自然に起きたの」

「うん。次は上手く出来る気がする」

「そうよ」

「そして、だからこそやっぱり、前に進まなくちゃって思う」

「あのときも、そう思ったわ」

 野音さんが笑顔になる。大仕事を二つも連続で成功させたのだ。もっと高揚してもいいだろうに、落ち着いた笑顔。きっと俺も笑っている。

「さあ、次に進みましょう」

「分かった。それは最高の曲を作曲することについて、だよね」

「そうよ」

 作曲と言う行為は俺にとっては未知のもので、きっと作文とは違うのだろうなくらいにしか分からない。それでも何かを作るのだから、やはり始まりが必ずある筈だ。

「最高の曲って、どう言うものか、取っ掛かりみたいなものはあるの?」

「ないわ。と言うよりも、その取っ掛かりを一緒に見付けて欲しいの。曲の種と言えばいいのかしら、それがあれば、後は私が自分で蓄積したものと、インスピレーションで曲になると思うの。さっきの曲も、表現したいものが先にあったから、曲になったの。音を並べたらいいメロディだから曲にするんじゃなくて、表現したいものが先になくちゃいけない、そう思うの」

「つまり、種さえあれば、花は咲くと言うことだよね」

 野音は頷く。

「これまではどんなものを種にして来たの?」

「そうね、物語りを読んでイメージが湧くってのが多いわ。あとは絵や写真でもインスパイヤーされることもあるし、他の人の作った曲から構想が生まれることもあるわ」

「それって一人で?」

「そうよ」

「野音さんって、外で誰かと遊びに行ったりはしないの?」

 野音は言い辛そうな顔になる。

「大学生の頃はあったけど、卒業してすぐに後藤田の愛人になって、それから二十八までの六年間は、人と外を出歩いたりはしてないわ。ピアノの練習もあるし、仕事もあるしで、空いている時間は後藤田と過ごしていたことが多かったから」

 野音さんの口から出る後藤田の響きが、生命を持つものではなくただの記号になっている。それでも彼女が後藤田と発声するのは嫌だけど、必要があって仕方なくと言うニュアンスがちゃんと伝わって来ているから、持ち堪えられる。

「ちなみに俺は三十二歳だよ。分かった。じゃあ、俺と二人で上野動物園に行こう」

「子供のとき以来行ったことないわ」

「なおさらいい。いつなら行けそう?」

「来週の水曜日なら。と言うか今後も水曜日に会う形でいい?」

「分かった」

 ごめんねシバイヌ。

「じゃあ来週の水曜日ね。開園時間に入っていい? あまり帰るのが遅くなるとピアノの練習の時間が足りなくなっちゃうから」

「もちろん。時間は調べてメールするよ」

「ありがとう」

 野音はもう一度微笑む。

「じゃあ、連絡先、交換しよう」

 本棚に向かったので紙とペンを取って来たと思ったら手に携帯電話。俺はじっとそれを見る。この電話と、俺の電話がアプリで繋がって、それが今を生んだのだ。二人の物語に欠けていいピースはないけれど、その中でも最重要の位置にあるものがそこにある。そして俺の手の中にも。

 電話番号、メールアドレス。お互いが一番シンプルな連絡先だけの交換を意向した。携帯の中に宝物が入ったような気がして、ギュッと握り締める。

 野音さんが玄関まで送ってくれて、まるでピアノのレッスンの後のようで、いや、恋人のようでもあり、俺は「それじゃ」と手を振って、振り返り振り返り帰った。帰り道、宿痾の取れた胸は軽く、未来に向けての行動の中に居ることが足場をくれて、何より野音さんと一歩近付いたことが嬉しくて、空を見上げた。

 こんなに空って広かっただろうか。散り散りに雲があって、遠くには入道雲が居て、でも、てっぺんは青。青が全てを吸い上げてくれる。失敗した過去も、気付けなかった自分も、全て。それは空色のワンピースの野音さんそのものだ。最初で最後の「俳優のためのレクイエム」が耳の中に戻って来る。

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