第14話
シバイヌに半分正直に「恋の茎が育とうとしているから水曜日をくれ」と電話で言うと、「今はそっちが重要だから、気にするな。俺達の関係こそ『死が分かつまで』だから、暫くは恋にかまけてくれ」と笑っていた。俺としてはシバイヌの恋の予言がそろそろ出るんじゃないかと期待していたのだが、まさか俺達が一生ものの友情であることを予言されるとは思わなかったので、肩透かしを食いつつ、嬉しくもある。
一週間が長い。仕事で埋まっている筈の日々なのに、そして仕事はしっかりやっているのに、カウントダウンをジリジリと毎日することが生活の中心になっている。電話を待つときには開き直れたのが、確実に会えると思うせいなのか、正確に刻まれる時間よりもずっと一秒が延長されている。あの日別れてその日の内にメールをした。開園時間が九時半であること、弁天門から入るので分かり易いように集合場所は上野駅でどうか、の簡素な連絡のメールに、野音さんからは直ぐに、九時二十分に弁天門現地集合でどう? の返信、それに、了解、と返した。野音さんとのメールはそれだけで、それだけなのに本文を打つのに二時間くらい推敲した、いや、悩んだ。返信が来てから「了解」の二文字を打つのにも一時間かかった。野音さんにそれ以後、新たなメールを送信する勇気は出なかった。野音さんからもその一通だけだ。
やり取りはそれだけなのに、俺の恋は葉まで成長した。次にいつ会えるか、もしかしたら一生会えないかも知れない相手を想うときには育たなかった恋が、次に確実に会えることを分かりながら待つと育つ。それはきっと、次に会う約束を交わしたときに二人がお互いに自分の一部を相手に預けるからなのだ。相手から預かった相手の一部を大切にしながらも水をやり、育てる。それが想いを育てると言う行為に他ならない。だから、再会したときには育てたそれを相手に返す。そして次の、相手の一部分を借りてゆく。その反復が自転車をこぐように恋の道を前に進めるのだ。見渡す限り地平線の中にある真っ直ぐな広い道を、二人で走るのだ。晴れ渡る空の下、野音さんは麦わら帽子を被っている。どこに向かおう、どこにだって行ける。でも恋の道に終着点はない、何故なら、その道こそが恋だから。
茎から葉になって、夢想が顕著に増えた。葉っぱにそう言う成分でも含まれているのか。
弁天門に向かう途中で野音さんを見付ける。今日はTシャツとジーパン、帽子はキャップ。でもすぐに分かった。小走りに寄る。
「野音さん、おはよう」
「あ、春さん。お互いぴったりの時間ね」
左手にテキヤの列、前には人の列。
「お腹空かない?」
「流石に朝ごはん食べたばかりよ」
列と言っても平日の午前中だからだろう、数分もあれば園内に流れ込む程度の長さだ。その最後尾に付ける。
「でも、どうして動物園なの?」
そこには明確な意図があるのだが、それを口にしてしまったら効果が半減する確信がある。実のところは動物園でも水族館でも、もしかしたら映画館でもその狙いは達成されるので、上野動物園でなくてはならない必然性がある訳ではない。しかし、曖昧に誤魔化すのも大切にしていない感じで嫌だ。
「理由はあるんだけど、最大の効果を発揮させるためには秘密の方がいいと思う」
野音さんは眉を顰めて不貞腐れたような顔をする。俺は自分の言葉に自信があることをアピールするために余裕の顔を押し出す。そのままじっと見つめ合ってたら、急に二人して吹き出す。
「春さん、にらめっこじゃないんだから!」
「野音さんも!」
「でも分かったわ。秘密にする方がいいことも確かにあるわね。この前それ、私がやったもの」
「そう言えばそうだった。うん。じゃあ約束する。今日が終わるときに種明かしをするよ」
「やったぁ! 約束ね」
野音さんは右手の小指を出して来る。あの音楽を弾いた指。野音さんの人生の十分の一が乗っかっている指。いつも見慣れている自分の指と、同じ指と言うのが信じられないくらいに繊細な作りをしていて、それでいて歴戦の勇者のような力強さがある。とても大切な指。
だからすごく丁寧に自分の小指を絡めた。手と手を握り合うときとは全く異なるフィット感。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った」
「そう言えば野音さん、げんまん、ってどう言う意味か知ってる?」
「え、おまじないじゃないの?」
「ゲンコツ一万回の略らしいよ。流石に死ぬよね」
「死ぬわね。私としては指を切られる方が嫌だけど」
確かに! と俺は大笑いしたから、前に居たカップルが三組もこっちを見た。
笑っている内に開園していたようで列に動きが出る。二人分のチケットを買って、中に入る。
園内に入った途端に空が開けていて、左手の池と相まって地平線を意識する程に広いところに出たような錯覚がする。開放感を伴うそれを、野音さんは同じように感じているのだろうか。
「どう? まだ入ったばかりとは言わずに、今の上野動物園の感触は」
「広いわ。とっても広い。急に広いって、それだけでワクワクするものなのね」
「俺も全く同じ感想。もしかしたら今が今日のピークかもよ?」
「それは切ないわね。やっぱり動物園らしく動物にピークが来て欲しいわ」
「見たい動物っている?」
「ゴリラ」
野音は右の人差し指をピンと立てている。
「了解。ゴリラは見よう。それ以外は直観でフラフラしようよ」
「いいわね」
「お、右手をご覧下さい。何かあるよ」
そこには子ども動物園すてっぷと掲げられた、小さな動物園がある。
「何だと思う?」
「きっと幼児のための動物園ね。あの家みたいなとこが特別なアトラクションをしていそう。大人は入れないんじゃないかな。でも、ほら、見て、あそこ! フクロウが居るわ」
野音は走って行ってしまうから、追いかける。確かにフクロウが居る。白くて、目がまん丸なのに鋭い。
「そうだ、野音さん。今日は一つルールを決めようと思うんだけど、いい?」
野音はじーっとフクロウを見ながら頷く。
「今日は説明の文章をなるべく読まないようにしたいんだ」
「それなら問題ないわ。私、名前以外は読まないの、元々」
「O K」
「生き物って、人間以外も居るのね。当たり前なのに忘れてたわ」
「綺麗なデザインだよね」
「人間も他の生き物から見て、綺麗なデザインって言われるのかしら」
「人間同士だと、綺麗汚いの両方があるとは思うけど」
「きっとその判別はつかないのかも知れないわ。全く人間と違う生き物なんだもの。でも、綺麗」
「きっと彼等には彼等同士の美醜があるんだよね」
「この箱の中にずっと居て、窮屈じゃないのかしら」
俺は、うーん、と考える。同時に複数の応えが出て来たから、その整理に。
「人間も意外と狭い範囲でそれぞれ生きてるのかも知れない。物理的にそうと言うだけじゃなくて、こころの動く範囲と言う意味でも」
でも一番言い淀んだのは、愛人と籠の中の鳥の比喩だ。でも、後藤田はもう要らないからこれは言わない。
「エサがあって繁殖出来れば、生き物としては勝ち組って考えもあるよ」
「私はそうは思わない。人間だってそれだけじゃつまらないじゃない。フクロウが飛べるから飛ぶのが快い行為だとイコールで結ぶことは出来ないと思うけど、人間だって色々なことをするのは半分はその能力があるからだと思うの。でも大事なのはもう半分で、何かをしたいと言う気持ちを達成させることがその人間自身と世界を変えることが、生きている意味だと思うの。フクロウはこの中で、そう言うパッションをぶつけるものに出会えるのかな、それが疑問なの」
いいペースだ。この調子で行けば、目的は達成されるだろう。
「箱庭の中ならそのサイズに合わせたパッション、ってのはつまらないとは俺も思う。情熱に最初から打算を加えるなんて。だとしたら、彼は不満だらけの筈だ。狭いし、人は見に来るし。でもその悲哀は動物園の動物全部に言えることじゃないのかな」
「そうね。動物の側に立ち過ぎたかも知れないわ。だって、だからこうやって私は動物を見られるのだものね」
「そうだね。でも、考えが広がることにブレーキをかける必要はないんだよ。少なくとも俺と二人の時は」
野音がくるりと俺の方を見る。笑顔。
「知ってるわ。何故だかとっても広がるの。一人で観ててもこんな風に深くは考えなかったと思うわ」
「最高だね。俺も同じだよ。一人より二人の方がいい。でも、誰でもこうなる訳じゃない」
「そうなの。不思議ね」
野音さんはまたくるりとフクロウの方を向き、しばらくじっとしていたかと思うとタタタタ、と左の方へ駆けてゆく。今度は俺は歩いて追う。
「春さん、早く来て。モコモコよ!」
興奮気味の声に大仰に振る手。もし娘が居たらこんな気持ちで小走りをするのだろうか。
「アルパカだね」
「そうか、君はアルパカか。アルパカのルパ君と呼ぼう。これから私が去るまでの間は、ルパ君だからね?」
黒目しかない眼は大きいのに、つぶらな印象を受ける。ルパ君は野音さんの話なんて風と同じだと言わんばかりに微動だにしない。正面ではなく微妙に首だけ左側を向いているのが気になる。もしルパ君だけがここに居たら時間が止まったようだと思っただろう、でも、しきりに話しかける野音さんとセットだとむしろ時間が早回しになっているように感じる。
「ルパ君、何か言ってよ」
「僕は忙しいんだよ」
俺が応えたのだが野音さんはこっちを見ずに続ける。
「立ってるだけじゃない」
「違うよ。左を見てるんだよ。左を見るのに忙しいんだよ」
「左に何があるのよ」
「インスピレーションだよ」
野音さんは自分の左を首ごとキョロっと見る。
「ないわよ」
「そっちは右だよ」
「私から見たら左よ」
「頭柔らかくしようよ。僕の頭、フワフワでしょ?」
「違うわ。モコモコよ」
「硬っ。じゃあいいよ、右を見てよ」
俺と目が合う。
「当たらずとも遠からずね。ルパ君はどんなインスピレーションを得たの?」
「言い辛過ぎるから墓まで持ってく」
「どんなこと考えたのよ!?」
もう俺は堪えきれなくなって声を上げて笑い出して、釣られるように野音さんもお腹を抱えて笑う。二人で笑うとここだけが別の世界になったみたいだ、暖かいサンクチュアリのよう。
アルパカはやはり微動だにしない。
ひとしきり笑ったら、野音さんはルパ君に向き直る。
「じゃあねルパ君。君の沈黙が私達を笑わせたんだよ。眉一つ動かさなかった君の顔、きっと忘れないよ」
そう言うと、野音さんは歩き出す。子ども動物園はそこまでで、二人してその外に出て、進む。
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