第15話
子ども動物園を出てちょっと行ったところで、分かれ道に差し掛かった。
「最初の重要な選択。今は西園の端っこにいる。右の坂を登れば東園。まっすぐ行けば西園。どっちに行きたい?」
「私の足は直進を所望しているわ」
「O Kじゃあ真っ直ぐ行こう。ゴリラがどっちに居るか訊かないんだね」
「聞いちゃったら、直観に対してアンフェアじゃない」
どちらからともなく歩き出す。
「情報を遮断するのがフェアなの?」
「情報があってもいいけど、今回はフィーリングで道を決めると言う遊びをしているのだから、私が見たいゴリラだけは情報から外す方が面白いと思うの。何て言うか、気持ちに付着する情報は、直観と相性が悪いように思うわ」
「なるほど。遊びをより楽しくするためのルールみたいなものだね」
「そうね。動物の説明を読まないのと同じね」
前方にペンギン。しかしこれはスルー。さっきの子ども動物園のときも彼女は半分以上の動物に全く興味を示さなかった。全部の動物を「集めて行ってコンプリートする」と言った見方ではなくて、遠くからでもセンサーに引っ掛かった動物とじっくり時間を掛けて対話するような見方。彼女は多分いつもそうなのだろうけど、その見方こそが最も直観的な動物園の味わい方なのではないか。でも、俺の意志はどうなるんだ? そうだよ。俺が見たい動物を一緒に見る時間があってもいい。子供を連れて来たお父さんではない。対等な大人と大人だ。
「でも動物園って独特の匂いがあるわね」
「生き物だからね。俺はあんまり気にならないよ」
「私も気にするほどじゃないわ」
ペンギンを越えて、フラミンゴも抜けようとする。
「野音さん、フラミンゴ見ようよ」
野音さんは立ち止まって、ほんの少しだけ考えて、「そうね」と頷く。
柵の近くに並んで立つ。
「フラミンゴは群れなのね」
「俺はこの鳥の羽の色がとても好きなんだ。それが群れになっていることでさらに強調されていると思う」
「確かに、綺麗ね。そして少し不思議な気持ちにさせる色ね」
「元の生息地だとさらにずっと大きな群れなんだと思う。この色が生物学的にどう言う意味があるのか分からないけど、いつかその大きな群れの、一面のピンクを見てみたい」
「私、旅行とか景色とか全然興味がなかったけど、そう言う『見る』をするのは、いいかも知れない」
「俺も旅行は全然行かない方だよ。場所とか景観とか特産物のために旅行の計画を立てたことは一度もない。専ら、誰かに会いに行くための旅行しかしないし、それも数年に一回くらい」
野音が短く黙る。それがフラミンゴによらないものであることが伝わって来る。
「誰に、会いに行くの?」
「親友だよ。小学校からの。大学から京都に行っちゃったからね、会いにときどき」
「彼女が東京には来ないの?」
「彼、だよ。もちろん来るよ。実家がこっちだもん」
「そうなのね。でも旅行の本質は、私も人に会うことだと思うわ」
野音さんに僅かに走っていた緊張が、抜けたことで分かる。
「だと言いながら、一面のフラミンゴにちょっと、興味惹かれてるでしょ?」
「ちょっとね。一面のゴリラの方が見たいわ」
「それは俺も見てみたいけど、絶対に近寄りたくはないな」
フラミンゴに手を振って、ハシビロコウを一瞬見て、キリンもサイもカバも通過して、シマウマの前で止まる。
「シマウマって、白馬に黒線なのかしら。逆なのかしら」
「それって、毛を剃ったらどう言う色かってこと?」
「違うわ」
「生物学的な起源ってこと? 進化ではどうなった的な」
「それも違うわ。シマウマの気持ちよ。この子は機嫌が悪そうだけど、そう言う気持ちじゃなくて、縞を作る気持ちよ」
俺には目の前のシマウマが不機嫌なのかどうかは分からない。俺には見えなくて彼女にだけ見えているものがあるとしても、その差異は面白くはあっても不安の種ではない。相手との同一化の幻想に縋るよりも違いの面白さに耽溺する方が、俺の性に合っているし、未来に開いていると思う。
「白ベースから黒を描いたか、黒ベースに白を着たか、そう言う二択ってことだよね? 肌色ベースに白と黒を飾ったと言う説はダメ?」
「なるほど。それがあったのね。もちろん三択にするわ」
「俺は黒馬に白縞だと思う」
「どうして?」
「高級感の黒に、ラメとしての白。より美しくあろうとして、縞を入れたんだ。逆だと入れ墨みたいになっちゃうでしょ?」
「気持ちを『美しさを求めるこころ』としたのね」
野音さんは納得した、と言う表情で俺の顔を覗き込む。
「野音さんは?」
「白馬に黒よ」
「どうして?」
「あの縞はね、彼がついに光の速度で走ったときに、流れ落ちるの。はらはらはらりって。だから彼の気持ちは、覚悟なの。いつか、光の速さで走ってやる、って」
「じゃあ、彼が光の速度に至ったら」
「白馬になるのよ。でもそれが本当の姿とかではないわよ。縞のある今だって本当の姿よ。いつだって、彼は彼であることから逃れることは出来ないのよ」
「俺も、俺であることからは逃れられない?」
「そうよ。私もよ。普通のことよ」
彼女の普通は彼女の普通であって、俺の普通ではない。そしてそれはシマウマの普通でもない。それぞれ独立した普通だが、少しずつ彼女の普通を知って、俺の普通に混ぜて行きたい。いや、二人の普通と言うものを生み育てたい。
「彼はいつかここから抜け出すわ。そして光になって、本懐を果たすの」
「本懐って?」
「光になること自体よ。その後のことは分からない」
「まるで最高の一曲を作り上げて、その後の話をしているみたいだね」
「似てるわね。でも彼と私は違うわ。彼は囚われているけど、私は自由よ。彼が光になるのに必要なスペースを私は既に持っているわ。あとは駆け出すだけなの。だから種が必要なのよ」
だからこうやって探している。
野音さんは俺を促して、一緒に歩き出す。
東園に向かう。急に二人とも黙って、でもその沈黙を食むように慈しむように、歩く。それはまるで密約の沈黙で、言葉と言葉のやり取りである電話から始まった二人にとっての、何も言わないことに泳げる特権を味わう時間だ。
ゾウの前に立ったときに、野音さんの唇が動く。
「春さん。私、今日はもう十分な気がするの。春さんは?」
「俺もそう思う」
「帰りましょ」
「そうだね」
たった今来た道を戻り、弁天門まで歩く。目に飛び込む動物のことを少し喋ったけれども、そよ風のような会話で、実質俺達は再び黙って歩いていた。胸の内側がやさしく、そして確かに、満たされている。野音さんもそうなのだと言うことが感覚で分かる。だから今日はもういいのだ。
門を出て、別れ際。
「じゃあ、野音さん、次のはまた連絡するね」
「うん。今日はありがとう。すごく、色々分かったわ」
穏やかで、でも何かが溢れ出そうな彼女を、抱き締めたいと初めて思った。
「じゃあね」
「あ、答えは?」
「もう出てるわ。大丈夫よ」
「分かった。じゃあ、また」
俺達は別々の方向に歩き出す。野音さんは答えを聞かずに帰ったが、きっと彼女が今手にしているもの達をナイーブな状態に保つために、硬く決まった答えを自分に入れたくなかったのだろう。それでこそ最初に秘密にした甲斐がある。仕掛けは最高の形で作用して、それは俺の恋の葉とは関係ない形式だが、野音さんが求めている「曲の種」への道を進めた筈だ。俺がしたのは「二人で何かを一緒に見て、話す」と言う単純なことだ。その単純なことから多くのものが生まれる。「何かは生き物がよい」と言う条件を足して動物園を選んだ。そんなことでももし開示されれば身も蓋もなく、二人を白けさせる。嘘も秘密も、その内容が現実と切り離されると言う効果は同じで、そうやって保たれることで現実が色づくことはある。今日は秘密がそのように機能した。だから、一人に戻ると、秘密を保持する必要もなくなって、自然と自分の組み上げたものがほつれて俺の現実に帰って来る。その段になって、無理に秘密の暴露をせずに持ち堪えた自分を、野音さんのために「よくやった」と独り言ちて、不忍池を右手に見ながらニヤニヤと、ちょっと歩速が増す。
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