第4話

 バーと言う場所は空気中にアルコールが飛んでいるのか、次の日は朝をすっ飛ばして、昼まで寝た。

 昼食はカレーだ。水曜木曜の休みを挟んで、金曜日からスタートする俺の一週間は毎日昼食を家で食べる。なので作り置きの出来る献立にして、ご飯とそれを組み合わせると言うコンセプトなのだが、今のところカレー以外にレパートリーがないから、ずっとカレーを食べている。仕事の前には必ずお腹をいっぱいにするべきだ。空腹では頭が回らないし、相談関係の仕事ならお腹が空いていると不安になり易くなることに対策を講じないのは職務怠慢だ。だから満腹になるまで食べる。こんなに食べているのに飽きないのだから、カレーが偉大か俺がカレー好き過ぎるかのどっちかなのだろう。

 十三時五十五分からはワイドショーが始まる。病棟で患者さんが見ていたのを横目でチラリとしてたものを、自分の家で見るようになるとは思わなかった。毎日は見ないが、インスピレーションがテレビを点けろと言ったらそうしている。今日は天啓のある方の日だ。

「今日は訃報です。俳優の後藤田雅樹さんが亡くなりました。四十二歳でした。葬儀は家族だけで執り行われるとのことで、お別れの会が近く催される予定です」

 後藤田雅樹。知らない。

「今日は予定を変更して、後藤田さんの生涯について振り返ってみたいと思います」

 アナウンサーの子が言うと、三人のコメンテーターにカメラが切り替わる。一番左の小太りの女性が発言するようだ。名前を見ても、知らない人だ。

「後藤田さんとは生前に親交がありまして、あの人は、本当に人を大事にする人だったんですよ。その中でも、ご家族! 奥様と二人のお子さんに対しての愛情は、そう、海よりも深いとはあのことでした」

 受けて、アナウンサー。

「後藤田さんは家族愛の塊と言うあだ名があった程だと伺っています。何かエピソードなどありますか?」

 小太り。

「後藤田さんは撮影のときに愛妻弁当を持って来ていたんですよ。よく、お子さんの描いた絵も鞄に入れられてました」

 それは愛していたのではなく愛されていたのだろう。いや違うか。愛していない相手から貰ったものを職場にまで持ち込むと言うことはしない。

「そして、休みの日には家族で旅行に行かれてましたね、よく。バーベキューをしたことがあって、そこに家族連れで参加した後藤田さん、まあよくお子さん達と遊んでましたよ」

 小太りがひと笑いした後に涙を溢れさせ、ハンカチで押さえる。

 次に真ん中のスリムな男性。年の頃は後藤田雅樹と同じくらいだろうか。

「僕は俳優として同期で、苦しい時代からずっと一緒にやって来ました。僕はまだまだですけど、チャンスをモノにした雅樹は今や日本を代表する俳優です。それが急に死ぬなんて、信じられません」

「若い頃のエピソード、ありますか?」

「もう時効だから言うけど、そりゃ女にモテましたよ。列を成すってこう言うことを言うのかなって。でもね、美香ちゃん、奥さんね、と出会ってからは一切他の女に手を出してません。僕が保証します。奥さん一筋。まあ、お子さんが生まれてからはそっちに愛情が向いていた節はありますけどね」

「いずれにしても家族想いと言うことですね」

「そりゃ、もう。……雅樹、何で死んだ?」

 スリムもハンカチを出す。今日のゲストの持ち物リストには絶対にハンカチが入っていた筈だ。

 三人目、髭の男性。六十は超えてるだろう。

「後藤田を失ったのは、日本演劇界、テレビ界、つまり芸能界としての今世紀最大の損失だ」

「もう少し詳しくお願いします」

「俺の映画に後藤田を抜擢したとき、周囲の反対はものすごかった。若干十五歳の後藤田雅樹は、しかしそれ以上に輝いていた。俺は惚れた。こいつしかいない。こいつなら。そして出来たのが『灰色の果実』。その結果は誰しもが知っているだろう。あいつは期待以上の成果を出した。あいつこそが金色の果実だ。その後の活躍も運やコネではない。実力が違う。あいつは俳優をやるために生まれて来た男だ。男だった」

 髭もハンカチ。

「ではここで後藤田雅樹さんの代表作をご紹介させて頂きます」

 画面が切り替わって、若い男性と少女が農村を歩いているシーン。下段に「灰色の果実」と出ている。

『遠くまで行こうよ。胸が鳴る内にさ』

 男性のその言葉に一緒にいる少女が頷く。走り去る二人。

「後藤田さん十五歳のときの作品。主役の荒川駿を演じました。明日を夢見る少年の旅立ちの話です」

 次は何か狭くて天井ばかり高い場所に、さっきの男性、つまり後藤田雅樹が少し成長した姿で、白い服を着せられ、息を切らしている。下段には「筒」。

『来る。来る。来る』

 何をしているのか全く分からない。きっとファンからしたら名シーンなのだろう。

「十八歳のときの作品。準主役の蛇長クヒト役。閉鎖空間でのスリラーです。このときのクヒトの真似をする人が現れて、クヒターと呼ばれました」

 その後も連綿と作品の紹介が続く。後藤田雅樹がどのような人生を本当は送って来たかは分からないままなのに、スクリーンの中の彼が徐々に成長してゆくのを見ていると、知り合いの子のような錯覚に陥る。同時に、ダイジェストし過ぎた紹介では、その映画の面白さは全く伝わらないことも分かった。

 太陽に向かって掌を向けているシーン。本人はティアドロップ型のサングラスをかけていて、昭和のハードボイルドのよう。下段に「掌の太陽」。

『まだ早い。踏み出せ。それだけだ』

「テレビでの人気ドラマ『掌の太陽』、四十一歳のときの作品です」

 それで終わりのようで、小太りのコメンテーターが映し出される。

「こうやって見ても、名作揃いですよね」

 一同頷く。しかし俺はこの中の作品を一つも観たことがない。映画もテレビもそこそこ観るのに全くかすりもしないと言うのは、それはそれで奇縁のような気もする。俺は後藤田雅樹のことを何も知らない。もちろん彼も俺のことは知らない。相手を知っていることは生きている間こそ意味があると思う反面、作品の中に彼の生を閉じ込めることが出来ているのなら、死による初対面にも意味があるのかも知れない。だが、演じている役こそが作品に載っているものであるなら、それは後藤田雅樹と言えるのだろうか。後藤田雅樹は素材であって、荒川駿や蛇長クヒトが記銘されているだけなのではないのか。演じると言うことを繋いで行くならば、それは常に色々の仮面を被って生きていると言うことではないか。俺が親戚のように感じたのは後藤田雅樹ではなくて、彼の演じている誰かの連続体でしかないのだ。俳優がそれが仕事だと言うのは分かってる。他の仕事だってプライベートの自分とは異なる姿を作っているのも分かっている。ああそうか。俺の中に芽生えた違和感の正体は、彼の出演した作品の連続が、彼を表していると言うことが前提になっていることなんだ。作品は監督の作品だ。素材である彼はその役をいくら繋げても、それは彼を反映していても彼にはならない。だから俺は彼に出会ったような気になりつつも、彼に全く出会えていないと言うことを感じていたんだ。

 ゲストと司会で後藤田雅樹を主題にした話がひと段落して、次の話題に切り替わる。女優が覚醒剤で捕まった話だ。俺はテレビを消す。

 皿を洗う。

 俳優は死してなお正体が分からない。出演をして遺したもの達は全て、誰かの作品だ。いわゆるアーティストが自分の作品を遺すことと根本的に違う。それだけで満足出来るのだろうか。どんなにその役に成り切ろうとも、その役そのものになれる訳ではない。信長役は信長ではない。それは役と演じると言う名を借りて、嘘の自分になっていると言うことなのではないか。職業まで昇華された嘘、それが後藤田雅樹のしていたことであり、彼の本丸に触れられない理由なのだ。

 後藤田雅樹は俺よりずっと、嘘を生業としていたのだ。

 俺は俺のこころの中に後藤田雅樹のためのスペースがしっかり生まれたことに、笑う。それが無駄だと言うことではない。有用かはまだ分からない。でも、テレビで観ただけ誰かのためにこのようなスペースが生じたのは初めてのことだ。やっぱり、コンタクトの取れない相手なのに、と言うところに笑ったのだと思う。

 家族をこよなく愛した俳優、後藤田雅樹。初めまして。そして、さようなら。

 そう思ったら切り替わって、仕事までの間にもう彼のことは思い出さなかった。十六時になり、アプリを起動する。


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