第17話

 見慣れた町、御徒町。生活の範囲。そこに、俺はドレスを着た野音さんを連れて凱旋する。向かう先は中華料理屋だ。

「野音さんは、チャーハンとニラレバだったらどっちを食べたい?」

「両方」

「両方はダメ。理由は、お互いを殺し合ってしまうから。一度の食事ではどちらかしか食べられない。そしてこの二つが俺のお勧めなんだ」

「じゃあ、チャーハンかな。あ、でもお店入ってからフィーリングで決めるよ」

「確かに」

 三分もかからずに中華料理屋に到着する。

 野音さんの姿を見て、入り口付近のカウンターに座っていた男性が、ぎょっとした顔をする。野音さんは特に気にしていない様子で店の奥のテーブルに座る。道中にすれ違った客も一様に目を見張っていた。彼女の向かいに俺も座り、早速メニューを見せる。暫く黙考していた野音さんは、うん、と頷いて、メニューを俺に返す。

「決まった?」

「うん。チャーハンが輝いてる」

「O K、俺もチャーハンだ」

 親父さんがわざわざ注文を取りに来た。と言うよりも冷やかしに来た。

「どうした? ドレスの女の子連れて。どっかから拐って来たのかい? て言うか、美人さんじゃないか。あれれ? もしや?」

「拐ってはないですよ」

「私が春さんに付いて来たくて、来たんです」

 親父さんはふうん、と「俺は納得した」顔になる。

「よかったじゃないか。ここに連れて来るってことは、見せに来たんだろう? 彼女脈ありだ」

 俺の恋の葉はまだ告白していないもので、彼女がどう想っているかはまだ知らなくて、大好きな親父さんでもそこの場所だけは土足で入って来ては欲しくなくて。とっても柔らかいところなんだ。

「店長さん、注文いいかしら?」

「おう。そのために来たんだった」

「チャーハン二人前で、一つ大盛りでお願いします」

「おうよ。しばしお待ちを」

 親父さんは関心が注文に移ったようで、軽やかに厨房に戻って行った。

「春さん、暗黒の顔をしてたから、取り敢えず店長さんには退散して貰ったわ」

「ありがとう」

「私達の関係について、人に言われるのが嫌なのよね。変な名前と形を付けられるみたいな気がするもの。私も同じ。今の二人の関係にはまだ名前がなくて、それが特別で必要なことだって分かってる。けど、外の人から見たら分かり辛いものだから、人間の性なのかしら、何かに当て嵌めて理解しようとする。でも、特別な関係の上に居るってことはそう言う外からの攻撃に対処しないといけないの。普通じゃないことを普通に出来ないのだから、戦わなくちゃいけないの」

「野音さん。それ、俺が感じていたことと、その説明と対処の全部だ」

「俺、じゃなくて、俺達よ」

 野音さんはにっこりと笑う。だから、もう分かったから流していいじゃない、そう言われている気がして、俺は頷く。そんなことより、と言う一言も聞こえた気がした。

「さっき、凄かったね。やっちゃったね」

 野音が笑いを堪えきれないのを頬を両手で抑えて隠しながら、立ち戻る興奮にうっとりしながら、小声で、最上の秘密を共有するように。

「めっちゃ走ったね」

「そうよ。人生で一番本気で走ったわ」

「最高の一曲だった」

「一人で弾くよりもステージの方がいい演奏になり易いの。だけど、今日はさらにもう一レベル上に居た気がするわ。ゲリラだからかしら。病院だからかしら。それとも春さんが居たからかしら」

「どれもありそうだけど、全部が初めてだよね?」

 野音は頷く。そして口角を上げる。

「病院ゲリラはなかなか出来ないだろうけど、ねえ、春さん、今度私が演奏会とかでステージに上がるときに来てくれる?」

「それは客として?」

「仲間として居て、お客さんとしても聴いて」

「いいよ、もちろん」

 ジャーッ、ジャーッと言うチャーハンが炒められる音がする。耳をそちらに取られたら、延長線上にあるテレビの音も飛び込んで来た。

「俳優の後藤田雅樹さんのお別れの会が今日行われました。ご本人が亡くなって四ヶ月以上経った今日行われたのは、代表作『灰色の果実』の公開日に合わせてとのことです。各界からの著名人が多数参列し、しめやかに会は執り行われました」

 このナレーションは野音さんにも確実に届いている筈なのに、彼女は何のリアクションもしない。それなら何も言わずに流してしまえばいいのかも知れないけど、俺はどうしても彼女が平気な理由が知りたい。仮にも六年間愛人をしていた相手だ。何も感じないと言うのはむしろ不自然じゃないか。

「後藤田、お別れの会したみたいだよ」

「レクイエムで本当に過去になったんだって思うわ。残酷ね、本当の過去って、今に全く影響しないのね」

 気圧されて、黙る。もう済んだことをつついて、それは疑いの目を向けるように彼女に映ったのかも知れない。違うんだ。そう言う気持ちで言ったんじゃない。じゃあ何か。後藤田なんてどうでもいいと言って欲しかった。そしてその通りの言葉が返って来ているのに、そこに彼女の僅かな怒りを見付けて、自分のしたことがエゴまみれの行為だったとやっと気付いて、自分で自分をへこませている。

「ごめん」

「全然大丈夫よ。でも私もちょっと意地悪言ったわ。過去が過去になっているのはレクイエムのせいじゃないわ」

 俺は黙って次の言葉を待つ。

「今が最高だからよ。春さんといる今が」

「俺も」

「おいおい、最高の笑顔じゃないか。はい、チャーハン。こっち大盛りね」

 親父さんこそ最高の笑顔で割って入って来た。やっぱり親父さんも大好きだ。

「野音さん。ここのチャーハンは世界一なんだ」

 半ば親父さんに向けて言う。彼は聞いているんだか聞いていないんだか、何も言わずに戻って行った。

「ご飯食べるのにワクワクするなんて、いつぶりかしら。世界を受け取るこころのひだが開いて来たみたいに、たくさんのことが鮮やかに彩ってる」

 モノクロがカラーになるように、天然色が既にあるならそれが輝くように。もし君が俺と同じ理由で世界の見え方を変化させていたら、そんな素敵なことはない。

「春さん? 食べようよ。我慢出来ないわ」

「おう。いただきます」

「いただきます」

 香りだけで涎がじわっと出て来る。初めてここでこのチャーハンを食べたときの感動は、ひっくり返りそうな程だった。でも、二回目三回目になると初回の感動は味わえない。同じように美味いのだけど、最初のパンチは二度と喰らえない。野音さんはその最初のパンチを、今日味わうことが出来るのだ。羨ましい。

 一口食べた野音さんは、言葉に出来ない悶えを発して、しかし飲み込んだらすぐに次の一口を入れる。ああ、初めましての感動の中に野音さんは居る。何も言わずに、脇目も振らずに、野音さんは食べ続ける。俺もそれを邪魔しないように自分のチャーハンを食べる。まるで潜水をしている間だけ快楽がある体質の人が水に潜っているかのように、黙々と野音さんはチャーハンを口に運ぶ。動物園のときもそうだったけど、彼女の好きに対する集中は見ていて気持ちがいい。どんどんチャーハンがなくなってゆく。

「美味しかった」

 平げた野音さんの満足の表情はどこか少女のようだ。少し遅れて俺も食べ終わる。

「これが俺の日常で、世界一のチャーハン」

「贅沢ね」

「まあね。今度は野音さんの最高の日常を紹介してよ」

「うん。期待しててね」

 野音さんの言葉が二人に馴染んでから、俺は小さなコップにつがれた水を飲む。

 入り口のドアが開く音。

 何となしに振り向くと、シバイヌだ。俺を認めた彼は流れるように俺達のテーブルまで来た。

「おー、サカナ、やっぱりここの味が恋しくなったか」

「確かにそれもあるけど、今日はこの人にチャーハンを紹介しに来たんだよ」

 野音さんを見てシバイヌは会釈をする。

「俺はシバイヌ。もちろんあだ名だけど、サカナの友達。シバイヌって呼んでね」

「サカナって?」

 野音さんが少し混乱した顔になる。俺が説明する。

「苗字が坂梨だから、みんなサカナって俺のこと呼ぶんだよ」

「そうなのね。私もサカナさんって呼んだ方がいいのかしら?」

 シバイヌが応える。

「もう呼んでいる呼び方があるなら、そっちの方がいいと思うよ。で、何故にドレス?」

 俺も野音さんもニヤリとして、秘密の話をするからこっちへ耳を寄せてと手招きする。

「さっき、病院でピアノをゲリラで弾いて、逃げて来たところなんだ」

「え! まじ! あれ、お前達なの?」

「あれ、って何?」

「まあ、ニュースって程ではないけど、ブログでフォローしているのがあって、そこに病院でピアノをいきなり弾いて居なくなった二人組の話が出てたんだよ。ドビュッシーの『月の光』?」

 野音さんと目を見合わせる。

「それよ」

「結構バズってるよ。もちろん俺は情報を漏らしたりはしないけど」

「それを『弾き逃げ』と言うのよ」

「そこで書いてあったのは、とにかく演奏が素晴らしかったってこと。生まれて初めて音楽で泣いたって」

 再び俺達は顔を見合わせる。

「大成功にさらにおまけが付いたね」

「嬉しい」

「いやー、サカナ、面白いことやってんなー。また何かやるときには可能なら声掛けてくれよ」

「分かった。企画内容的に可能なら」

「ん、じゃ、またな。俺も早くチャーハン食べなきゃ」

「あ、ちょっと待って」

 野音さんが引き留める。シバイヌが、はい、と素直に待つ。

「私、野音って言います。シバイヌさん、よろしく」

「よろしく、野音さん」

「それだけです」

「うん。サカナをよろしくね、野音さん」

 シバイヌは空いてる席を探すが遠くの端っこのカウンターしかなくて、そこに着席してチャーハン大盛りを注文した。

「ブログでバズってるって、しかも、泣くほど感動したって」

「不思議ね。演奏会で泣かれたことはなかったわ。でもやっぱり、嬉しい」

 やろうとしたことと結果が独立に存在しているような浮遊感がある。俺達はゲリラで曲を弾くことが目的で、そこに感動させてやろうと言うのは含まれなかった。いや、野音さんは演奏をするからにはそう言う意図が少なからずあったのかも知れない。でもそれはいつも演奏するときにはあるものの筈で、今日はことさらと言うことはないと思う。なのに、いつも以上の結果が生まれている。ネットの中でその事実が広がっている。俺達がチャーハンに感動しているその間に、演奏に感動した事実が拡散されていて、野音さんがチャーハンのことしか考えていないときに、ゲリラ演奏の存在が徐々に知れ渡って行っていた。演奏への感動が情報のドミノを倒したのだと思うと、彼女のしたことがさらに素晴らしい誇らしいものだと、自分のことのように思って、でも反面、逃亡の安全ラインが予定と狂うことが予測されたので、店を出たらすぐにタクシーを拾って野音さんを家まで送った。家には上がらず、彼女がドアを閉めるのを見届けてから帰路に就いた。帰り道、野音さんから「今日は最高だった。本当にありがとう」とメールが来たので、すぐに「俺こそ最高だったよ。こちらこそありがとう」と返信した。

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