第一章 『少女の頬は赤く染まる」
第1話
俺は、普段と何の変わりもない日常を謳歌していた。
あんな事件に巻き込まれた日の翌日なのでお休み──、そんな怠慢なことが許されるはずもなく。
その程度で学校を休めると少しでも考えた自分を殴り飛ばしたい。そう思えるほどには、世間は甘くはなかった。
怪我でもしていたらサボる口実にはなったかもしれなかったが、筋肉痛くらいではそれすらも厳しい。
かくして俺は体の怠さと戦いながら、三限の授業を受けていた。
受けている──、という言い方はやや語弊があるだろう。
眠気を必死に堪えながら、ほとんど聞き流していた。
「⋯⋯はーい、黒板の地図見ろー」
地理担当の強面な先生が、黒板をバシバシと乱暴に叩く。
その度、俺とその前に座る友達が、息を合わせたかのようにピクッとした。
そしてチョークが折れんばかりに黒板に殴りつけると、略地図の中央に大きな赤丸をつけた。
「ここからここまでの山脈はテストで出やすいから、この授業中に全て覚えておくよーに。
──覚えた? 後でテストすッからな」
先生のタバコ臭い息が、ドスの利いた声にやや遅れて教室まで届く。
モワッとした煙の重苦しい空気が教室全体を支配するころには、任侠物の映画の中のような、独特な雰囲気が形成されつつあった。
そして、その雰囲気にも負けず劣らずな、先生のルックス。
夏なのでジャケットこそ着ていないものの、妙にパリッと仕立てられたワイシャツに、その上からでもわかるほどの筋肉質な体つき。
恐らくは、昔ラグビーをやっていたと言われても誰一人として疑わないだろう。
噂では、赴任したての頃、あまりの外見の怖さに生徒指導の先生から頭を下げられたこともあるらしい、とか。
そして、だからこそ俺が思うに、ある意味では最も
「せんせー」
「⋯⋯なんだ?」
低く唸るような返事をすると、先生は龍のようにクリッとした目で教室中を一瞥する。
教室の真ん中で手を上げる生徒を認めると、そいつギロッと睨んだ。
「あのー。安定陸塊のところ、飛ばしてますけど」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
謎の沈黙──。
その後、先生の目が自前のノートと教科書を何度も行き来する。
あれっと首を傾げた後、腕を組みながら黒板をじっくり見て──。
「⋯⋯やっちった」
小さな声でそう呟くと、先生は恥ずかしそうに頭を抱えながらその場にうずくまる。
そして先生の姿は教卓の裏へと消えていった──。
「あのー。せんせー?」
「⋯⋯⋯⋯っ」
──そう。先生は外見と性格に結構なギャップがあるのだ。
一部始終を見ていた生徒から、どっと笑いが起こる。
授業で内容を飛ばしたりするくらいのことは他の先生でもあるし、それくらいなら堂々としていればいいものを──。
そんなことでも、予想外に恥ずかしがるのがこの先生の面白いところだ。
またこれは先生本人の弁だが、新入生や新人の先生・転校生が来ると必ずと言っていいほど怖がられてしまうらしい。
そしてそのことに相当ショックを受けているあたり、先生の性格がよくわかるだろう。
実のところ、先生は授業中に居眠りをしたり、舐めきった態度で授業を受けていたりしない限り怒ることはない。
それを知らないうちは、みんな自然と遠ざけてしまうのである。
そしてその度にショックを受けているらしく、飲み会では酔うといつもその話をしている⋯⋯と、某数学科のT先生が心底めんどくさそうに証言していた。
結局のところ、このギャップが結構癖になるのだ。
ようやくメンタルを回復した先生が、何事もなかったかのように授業を再開する。
「──てなわけで、安定陸塊の位置は覚えられないから。新期と古期の位置から消去法的に推測、いいね?
はいそれじゃあ、地図帳の⋯⋯」
そして先生の指示通り俺も地図帳を開く。
だが、俺は昨日の疲れからか相変わらず上の空のままだった。
──しかし誰だったんだろう、昨日俺を助けてくれたのは。
俺は、ふと昨日のことを思い返す。
小さくて華奢な身体で
遠くから放たれたあの光線のようなものは、また別の魔法少女が放ったのだろうか。
そして巨大蜘蛛が倒れたのを確認すると振り返り、彼女は確かに俺を一瞥する。
その顔をみてふと思い浮かんだのは、俺の幼なじみの舞だった。
そう。他の誰でもなく。
──なぜ、アイツの名前が浮かんだ?
確かに似ていると、そう感じたから。髪の色が違くても、瞳の色が違くても。
確かに似ていると、その時はそう思ったから。それならば⋯⋯。
──どうして俺は、あのとき「似ている」と感じたのか。
偶然の一致か、それとも単純に判断能力が狂っていただけなのか。
九死に一生を得たような状況だったからこそ、ほっとするあまり身近な人を投影してしまったのだろうか──。
ふと俺は、舞の席の方を一瞥する。
それが答えを求めてだったのか、それともこの堂々巡りから逃れようとしたためかは分からない。
すると舞は──、机に突っ伏しながらぐっすりと眠っていた。
アイツ、また寝てやがる⋯⋯。
そう思った矢先、舞の机の脇に先生がそうっと近く。
そして胸ポケットから赤ボールペンを引っこ抜くと、舞の机に打ち付けた。
「ひゃうっ!」
カツンという音に驚いて、舞がガバッと顔を上げる。
そして舞の顔を覗き込むようにして、先生が皮肉まじりに言った。
「どうも、グッスリとお休みだったようで」
「⋯⋯⋯⋯あ⋯⋯っ」
「──それで、答えは?」
「⋯⋯⋯⋯っ」
やっと目が覚めたのか、舞が慌てているのが後ろからでもわかった。
「答えはッ?」
「は、はいっ、寝てましたっ! ご、ごごごごめんなさいーっ!」
舞の謝罪と重なるようにして、授業終了のチャイムが鳴る。
「はい、じゃあ次回、冒頭テスト。⋯⋯それと神田は筆箱の中身拾っとけ。んじゃ、終わり」
教室の扉を荒っぽく開けて、先生が教室を後にする。
先生の足音が遠ざかっていくのを聞きつつ、俺は舞の席へ。
「おい、まーた寝てたんかい」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「聞こえてるか? おーい」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
舞に声をかけてみるも、ぴくりとも反応しない。
まだ寝ぼけてやがるか、コイツは。あんだけ大きな声を出したくせに。
直接体に触れて目を醒ささせるのも躊躇われるし、何かいいものは⋯⋯っと。
たまたま舞の机に出ていたボールペンを一本拝借し、肩の辺りを突いてみる。
「おーい、おーきーてーるーかー?」
「⋯⋯⋯⋯?」
やっと目を覚ましたのか、舞が顔だけを俺の方に向ける。
「⋯⋯ったく。昨日お前、寝たの何時だ?」
「昨日は⋯⋯、十一時半くらい⋯⋯?」
こてん、と首を傾げながらそれだけ答える。
そして俺の顔をまじまじと見つめると、突然大声を上げた。
「⋯⋯って、ざっ、ザッカー?!」
「えっ? そ、そうだが⋯⋯」
すると、みるみるうちに舞の顔が真っ赤になる。
「ひぎゃーっ!」
かつてないほどの悲鳴とともに、舞は俺を思いっきり押し飛ばす。
その反動でふらついた俺は、隣の机の角に尻をぶつげた。
そして舞は、奇声に似た悲鳴とともに廊下へと走り去っていく。
──なんだったんだ、一体。
痛いところをさすりつつ、俺は呆気にとられる。
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