#11 あの子は聞き上手
学生街の外れにあるビストロ「ポムドテール」。
昼間にしてはやや薄暗いその店内に入り、ボックス席に腰を下ろした僕と
お昼は三つのメニューに限られていたので、僕らは一番先に目に止まった「本日のランチ」を当然のように選び、二人前を店のマスターに注文した。
マスターは三十代後半とおぼしき男性。いまどき珍しく口髭を蓄えている。
ここではランチタイムは、すべて彼ひとりで店を取り仕切っているのだ。
開口一番、名越は僕にこう言った。
「さっきの経営学って前回のノート、まだ手に入れてないんでしょ、モブくん」
「うん、まだだけど」
僕はうなずいて答えた。
「じゃあ、わたしのを貸してあげるね。
前回、先生が『ここは重要なポイントだから』っておっしゃっていた箇所があるから、ノートの抜けがないほうがいいと思うの。
でもあの
名越は、そう含み笑いをした。
僕は彼女の思わぬ申し出を素直に受け入れることにして、こう答えた。
「そうか、ありがとう。借りることにするよ。
頼んでもいないのにそんなことしてもらって、悪いな。恩に着るよ」
僕は、名越がベージュのトートバッグから取り出して差し出したパステルカラーのノートを、そのまま受け取った。
「それにしてもえらいよな、名越さんは。
僕はたいてい、
すると、名越は意外そうな口ぶりでこう言った。
「そうかな? わたしはこのやり方が自分に合っていると思うから選んでいるだけよ。
わたしだって、合理化、オートメーション化出来るところはしても構わないって考え方だよ。
たしかにモブくんの録音するってやり方は、授業を受けてる時はラクでいいんだけどね。
でも、後でもう一度聞き直すとけっこう時間をとるのよ。
つまり、二回同じ授業を受けている勘定。
だからそれがもったいなくて、わたしはいったん講義を抽象化して、圧縮したかたちにしたノートを見返すだけにしてるの、試験の前には。
ノート持ち込みOKの科目なら、たいていこれで十分いい成績が取れるし、ノートに少し抜けがあっても、たいていはノープロブレム。
だから、このやり方で問題ないって考えているの」
「そうかあ、名越さんの考え方ってとても合理的かもしれないな。そう思えてきた。
たしかに授業を聴きながらノートをとるというのは決してラクではないけど、先憂後楽というのかな、先に苦労したぶん、試験前にしんどい思いをしなくて済むのはたしかかも。
僕もこれからは、きちんとノートをとるようにしようかと思うよ」
名越は、それにうなずいてこう言った。
「うん、それがいいかもね。別に紙のノートじゃなくてもタブレットだっていいんだよ。
最近、教室でもタブレットに講義内容を入力しているひと、よく見かけるよね」
「うん、そうだね。タブレットなら手書き入力より速いから、デバイスに慣れているひとにとってはいいかもな」
そうこう言っているうちに、本日のメニューの一部、グリーンサラダとオニオンスープがマスターによって運ばれてきた。
それらの料理をいただきながら、僕はふと視線を少し下、つまり名越の顔より下にずらした。
今まで話に集中していたせいだろうか、まるで意識していなかった事実が、その時判明したのだった。
外では着ていたコートを脱いだ名越は、その下にニットのセーターを着ていたのだが、その襟ぐりがかなりオープンだった。
言い換えれば、彼女の豊かな胸の谷間が、相当深いところまで露わになっていたのだ。
そう、氷河のクレバスのように。(現物、見たことないけど)
こいつはヤバいな。僕はそう思った。
それまで意識していなかったことをいったん気にし始めてから、僕のメンタルはいちじるしく不安定になった。
心拍数も上がっているかもしれない。
『こんなこと意識しているって名越に気づかれたらまずいよな。
下手すると、セクハラで訴えられるかも。
いやいや、そこまではいかないにしても、いやらしい目で見るキモ男認定、間違いなしだろ。
とにかく、視線を彼女の喉元より下においてはダメだ。
ダメ、絶対!』
僕はどこかの標語のような呪文を、心のなかで何度も唱えた。
そして、極力視線を下におろすまいとする努力を続けた。
そんなさなか僕はふと、男子のクラス仲間、いわゆる悪友たちとのだいぶん前の会話を思い出した。
こんな感じだ。
『教養で同じクラスの名越っているじゃない。あの子すごいよなぁ。
E、下手するとFあるんじゃない?』
『うんうん、最低でもEは間違いないな。K点越えって感じ』
『なんだい、EとかFとか。何かの科目の評価?』
『なぁにカマトトぶってんだよ、モブ。カップの話に決まっているだろうが』
『ああ、そういうことね。バストサイズのことか』
『ああ、そういうこと、じゃないだろ、一番重要な案件だよ』
『そうかなぁ、僕はバストサイズで女の子を品定めしたことはないけど』
『何をきれいごと言っているんだろうねぇ。
胸はないよりあったほうがいいに決まっているじゃないか。
あぁ、一度でもいいから、名越の豊かな谷間に顔を埋めてみてぇ』
『んだんだ』
もし知り合いの女子に聞かれたら、即座に学生生活がバッドエンドを迎えそうな発言だったが、幸い周囲には女子学生がひとりもいない喫茶店だったので、かろうじてセーフだった。
だが、こんな発言を黙認してしまっては、僕もあとのふたりと同類項と見られてしまいかねない。
そこで僕は毅然として、こう言ったのだ。
『そんなに名越の胸がいいんなら、彼女に告白して恋人になってもらえばいいじゃないかよ』
その言葉に対する友人Aの返答は、こうだった。
『やつ、あの
そんなヤバい女に、うっかり告ってみろよ。絶対、拒否られるか、バカにされるかに決まってるだろ。
そんなの、いやだぁ〜』
と、マジ泣きしかねない勢い。ダメだ、こりゃ。
それって、どう考えても経験値不足、というかドーテイのきみゆえの恐怖、あるいは妄想としか思えないんですけど。
ま、未経験なのは僕も同じなんで、ひとのことは言えないんですが(自爆)。
……そんなしょうもない記憶が、いっとき僕の頭の中をかけ巡っていた。
一方名越も、食事のためしばらく無口になっていたが、まもなく口を開いた。
「そういえばモブくんって、何かサークルとかやっていたっけ?
会話を向こうから振ってくれたので、僕は内心ホッとしていた。
何を喋ったらいいのか、頭の中がパニックになっていたからだ。
これでようやく、彼女の『谷間』のことを過剰に意識しないで済みそうだ。
「サークルかい? 一応、入学した頃は何も入らないのはどうかと思って、あまり時間のしばりのなさそうな、いわゆるライトなやつに入っていたこともあったけど……」
「ふーん、どんなサークル、具体的には?」
やはり、そういうツッコミ、当然受けますよね? よねよね?
出来れば、あまりこの話はしたくなかったんだが……。
でも、この際しかたない。僕は覚悟を決めて、こう言った。
「えっとね、ライト文芸サークルというのがあってだね。
今はあまり、活動が盛んじゃないみたいなんだけど」
「みたい? ということは、モブくんはそこを完全にやめちゃったんだ」
「ああ、そういうことなんだ。
ちょっと、サークル内の人間関係に問題が起きちゃってね……」
僕のその発言を聞いて、名越の大きめの目が伝説のヤマネコのように一瞬『ピカッ』と輝いたように見えた。
もちろん、気のせいなんだろうけど。
「よくある話よね。つまり……恋愛関係ってやつでしょ?」
うわ、ストレートにツッコんで来るよな、この子。
でも……その通りなんです、ハイ。
「あ、あぁ、そんなところだよ。
つーか、サークル内ではよくある話なの?」
「ええ、男女混成のバンドと同じくらい、日常茶飯事って話よ。
もちろん、ひとに聞いたことだけど」
さいですか……。
もう、この話、終わりにしたいんすけど……ダメ?
ところがどっこい、まだ先があった。
「で、ライト文芸サークルって、具体的にはどんなことをやるのかしら?
わたしもライトノベルとか、まったく興味がない訳でないから、知りたいのよ。教えて欲しいんだけど」
好奇心のとどまるところを知らない、名越サンだった。
「うーんとね、ライトノベルを少しは読んでいるようならわかると思うけど、ああいうジャンルの文芸にはイラストがつきものじゃない。
表紙とか、口絵とか、本文とか。
ていうか、その作品が売れるかどうかを決めるのは、作品の出来よりも、人気のあるイラストレーターと組んでいるかどうかがポイントだったりするんだよね。
まったく、身も蓋もない話なんだけど」
名越はその話に、コクコクと無言でうなずいてくれていた。
「で、そのサークルでは、文章を書くひとだけでなく、イラストを書くひとも広くつのって、文画合作という体制をとっていた訳さ。
そうして、会誌を作って学祭で売るし、有名な同人誌イベントにも参加した。
けっこう、女性部員も多かったよ。
高校時代までは受験勉強の妨げになるからと、自粛したり、やるにしても人目につかないよう隠れてやっていたひとたちが、大学合格によって、ようやく大っぴらにやれるようになったからね」
そこで再び、名越は口を開いた。
「それで、モブくんはどちら担当だったの? 文章とイラストの」
「うーんと僕はね、もともとは漫画家になりたいなと思っていたひとなんだ。
中学生の頃まではね。
小学校の中学年までは絵画の塾に通っていたので、絵心にもわりと自信があった。
でも、ある時、自分の能力を客観的に見てみると、絵のそれは平均的なひとより少し器用、というレベルに過ぎないなという気がしてきたんだ。
実際、中学でも僕より漫画を書くのがうまいやつがいたし。
そして、実はこれが一番重要なことかもしれないんだけど、絵を描くってものすごく時間と手間がかかる、根気のいる作業なのさ。
勉学もおろそかにするわけにいかない身としては、単純に描く時間が絶対的に足りない。
それに比べると、ストーリーを作るほうは、まだなんとか自分の得意技として続けていけるんじゃないかと思えたんだ。
純粋に芸術である絵と違って、勉学、それも実学とよばれる学問ともどこかでリンクしている文章書きは、学生生活とも共存可能だ、そういう結論に達したんだよ。
だから、高校以降は僕は絵描きからすっかり足を洗って、もっぱら文章書きに徹している。
そういうことさ」
そんな僕のうちあけ話を、名越彩美は
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