#26 コードネームは、みっこ

辰巳たつみ姫子ひめこの「お姉ちゃん推し」のすさまじさにタジタジとなっていた僕だったが、その一方で少しホッとしてもいた。


この感じならば、姫子は僕とみつがまったくの初対面であると信じ切っているのだろう。


姫子がもし、過去に僕たちが恋人同士であったことを嗅ぎつけたりなどしたなら、推しプッシュの度合いはこんなものじゃなくなるはずだ。


本気で、僕とみつ子を元の鞘に戻そうと、いろいろ仕掛けてくるに違いない。


そうなったら、さすがに僕の辰巳家での居場所がなくなってしまう。


下手すると、家庭教師の仕事をおりなければならなくなるかもしれない。


だから、姫子にだけは僕たちのかつての関係を知られぬよう、僕は慎重に行動しないといけない。


僕は自らに厳しくいましめを与えたのだった。


さてさて、このまま姫子に誘導されて恋バナなぞしているとうっかりボロを出してしまいそうなので、本題である学業に立ち戻ることにした。


「さあ、休憩はこのへんにして、火曜日までにきみに何をやってもらうか、決めておこうじゃないか」


姫子はそれを聞いて、ちょっと頬を膨らませた。


明らかに不満顔だ。


「えーっ、この話、まだ終わってないと思うんですけど。


もっと、掘り下げましょうよー」


「掘り下げるもなにも、僕はきみとそういう話をしにここに来た訳じゃないからな。


勉強を教えに来たんだ。


横道にそれた話は、いい加減これでおしまい。


ほら、ちゃんと座り直しなさい」


「ふぁーい」


膨れっつらのまま、それでも一応返事をして姫子は椅子にきちんと座り直し、机に向かった。


脱線好きではあるが、基本的には素直な子なんだな。


そのへんは、助かるぜ。


それから僕は、次回の火曜日までに姫子がやっておくべき課題を決めていった。


英語は、サブテキストに載っている英文和訳と和文英訳の例題。ともにかなりの長文だ。


国語は、これまでの国語、そしてそれ以外の科目も含めての、漢字を間違えた回答を抜き書きしたノートの作成。


世界史は、かつて「帝国」と呼ばれたことのある国々をリストアップし、そのおのおのの崩壊の原因について述べるという課題。


理数系は、特になし。上の3科目だけでも十分なボリュームだろうし。


「うわー、こんなにあると、あす日曜日とか遊びに行っていられないよー」


姫子が軽く悲鳴を上げるが、僕はおごそかにこう告げた。


「戦いは、もうきょうから始まっているのだよ。


欲しがりません、勝つまではだぜ。姫子くん」


「わーん、それ勝てなかった戦争ときの話じゃん!」


姫子はいよいよ泣きが入るが、僕は余裕の微笑みで彼女の部屋を出たのだった。



「ありがとうございました、茂部もぶ先生。


わたしは姫子の母親役としてはまだまだ駆け出しですが、彼女がなんとか志望校に合格できるよう、しっかりバックアップしていきたいと思っています。


どうかよろしくお願いします」


帰りは姫子とともに辰巳夫人が、玄関まで見送ってくださった。


さすがみつ子の実の母親、挨拶もしっかりしている。


この人に僕は「継娘ままこの新任家庭教師」としてだけ認識されているのか、あるいはそれに限らず「実の娘の元恋人」としても認識されているのか、それはまったく分からなかった。


かつてみつ子が僕のことを母親に語ったことがあるのならば、僕のことを最初から「実の娘の元恋人」という目で見ているのかもしれない。


だが、みつ子の慎重な性格ならば、そういった話は母親にはまったくしていないという可能性も高い。


その場合、母親にとって「茂部凡人よしと」は、まったく初耳の名前ということになる。


でも、そのどちらであったとしても、僕にとってはまるきり同じことだった。


僕が一度引き受けた仕事を遂行するにあたって、何らさまたげとなることではない。


僕はやるべき家庭教師ことをやる。それだけなのだ。


「こちらこそ、姫子さんの勉強は責任を持って指導させていただきます」


僕は辰巳夫人と姫子に、深々と頭を下げたのだった。


      ⌘ ⌘ ⌘


帰り道、僕は新宿駅で途中下車をした。


新宿、久しぶりの場所だ。


住まいにしても学校やアルバイト先にしても、もっぱら城南エリアである僕にとって、ふだんこちら方面に来ることは稀だ。


だから、久しぶりに出かけたついでに、新宿駅周辺の店にも立ち寄ろうと考えたのだ。


新宿といえば、その文化の象徴ともいうべき場所は、紀伊国屋きのくにや書店だろう。


僕は駅の東口を出て、大通り沿いに足を進めた。


すぐに本店が見えてくる。


僕は一階のエスカレーターに乗って、階上へ向かった。


行き先は、ライトノベル売り場だ。


ここはライトノベルに関しても、大学近辺にある書店よりはずっと品揃えが豊富だ。


そこには入荷されていない本も、紀伊国屋にならあるかもしれない。


平積みになっている、今月出たばかりの文庫本を眺めているうちに、とある一冊に目が止まった。


タイトルに釣られた訳ではない。


そのカバーイラストに、既視感デジャビュを覚えたからだった。


ボニーテールの10代の少女の全身像。


その顔立ちに、明らかに見覚えがあった。


思わずタイトルと作者、そしてイラストレーターの名を確認した。


タイトルは「いもうとが僕の恋のジャマばかりするんですけど!」


まぁ、ありがちな題名ではある。


作者は、ハマダマハ。


聞いたことねー。


つーか回文かよ!


イラストレーターは、みっこ。


ん?


僕が大学のライト文芸サークルに所属していたとき、そこでただ一冊、制作に関わったサークル誌のことを思い出した。


その本に、僕が文章、当時川瀬かわせ姓だったみつ子がイラストを担当した小説を載せた訳だが、みつ子のペンネームがなかなか決まらなかった。


ようやく入稿日当日というギリギリのタイミングで彼女が決めたのは「みっこ」という、なんのヒネリもないペンネームだったのだ。


さんざん迷ったあげく、そんなベタで本名バレバレなペンネームとは!


僕やサークル代表の多賀たが先輩をはじめとするサークルメンバーたちの苦笑をかったものだった。


そう、みつ子はあまりシャレっけのあるひとじゃないのだ。


思いつきで独特なペンネームを付けるなんて芸当は無理なひとだったのだ。


まぁ、大学生のお遊びのサークル誌だから、本名を出したところで、とりたてて実害が生じるとは思えなかったけどね。


イラストの絵柄、そのペンネームから察するに、「みっこ=辰巳みつ子」はまず間違いなかった。


僕が姫子の部屋で見たポートレートは上半身像だったが、それを全身のイラストにまで仕上げたものにほかならなかった。


そうか。姫子もみつ子が投稿サイト「ピクリブ」で最近人気があるみたいなことを言っていたが、さっそく彼女の才能に目をつけてイラストを依頼した編集者がいたんだな。


僕は納得がいったのだった。


その昔、イラストレーターといえば、メジャーになるためにはまずコミックマーケット、略称コミケに同人誌を出展して、メジャー出版社からのスカウトを気長に待つ、それぐらいしかチャンスがなかったらしい。


イベントは年に2回。チャンスを逃すと、半年は待たないといけない。


だが、インターネットの普及、そして投稿サイトの発展により、イラスト発表即メジャーデビュー、なんてスピード出世も最近ではありになってきた。


文章と違って、イラストならば多数の候補者から編集者のニーズに合ったものを選別することもかなりスピーディに出来る。


そして、すぐに依頼が来る。


いわゆる「オーバーナイト・センセーション(一夜開けたらブレイクしてた)」も、イラストならば夢じゃない。


みつ子はどうやら、その出世街道に見事に乗ったようだった。


これからは紙の本になった彼女の作品を見て「ピクリブ」へのアクセス、そして仕事依頼もうなぎ登りになるだろう。


おめでとう、みつ子。


やっかみみたいな感情は何もなく、僕は素直に祝福の言葉を心の中で唱え、その本を元の場所に戻した。


木曜日にはたぶん、姫子からこのニュースを聞かされることになるだろう。


そうしたら、初めて知ったみたいな顔をして、ビックリしてみせようと思う。


      ⌘ ⌘ ⌘


特に買い物をするでもなく、服屋やレコード屋などいくつかの店を冷やかしたあとは、再び電車に乗って帰路についた僕だった。


自宅に戻ると、母がちょうど夕食の支度をしているところだった。


いい匂いがたちのぼっている。きょうはシチューかな。


「おかえりなさい。もうひとつのお宅、どうだったの?」


母に声をかけられたので、僕はこう答えた。


「ばっちり、合格をもらったさ。それだけじゃない。


娘さん本人も素直な子で、頭もいい。


ご両親もともにいいかたで、文句のつけようがない。


これ以上を望んだらバチがあたるくらいだよ」


「それはホントによかったわね。


姉さんに感謝しないと」


「ああ。佳苗かなえ伯母おばさんには、お礼の電話をかけとく」


そう言うと、母は満足気にうなずいた。


「あと30分ぐらいで食事が出来るからね」


そう言われたので、僕は自室に向かうことにした。


部屋で佳苗伯母さんに電話をかけようとスマホを取り出したその時。


1通のメールが飛び込んできた。


登録されていないアドレスからなのだろう、氏名は表示されない。


そして、タイトルもない。


「まーた迷惑メールかよ」


いつもなら中身も見ることなく、即ゴミ箱送りする僕だったが……。


英字と数字が組み合わさった、そのメールアドレスに見覚えがあるような気がしてきた。


アルファベットで「mikko」という文字列が、そのアドレスには含まれていたからだ。


すでに一年以上前、このスマホから削除したアドレス。


川瀬みつ子のアドレス。


それにはたしか、ペンネームと同じ「みっこ」が含まれていたという記憶がある。


そう、これはみつ子からのメールに違いない。


僕はおそるおそる、そのメールを開いた。(続く)

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