#10 ファミリー・アフェア

おにしま家での家庭教師アルバイトが決まった日の、翌日は金曜日だった。


僕は昨日とは違って朝六時過ぎには起きて、大学へ行く準備を始めていた。


きょうは午前中に一コマ、午後にも一コマ授業があるためだ。


そしてその後は、夕方から居酒屋のアルバイトがある。


時間は五時から十一時までの六時間。


つまり朝から晩までけっこう予定の詰まった、ハードな一日なのだった。


僕が洗顔を済ませてからリビングに顔を出すと、オヤジことわが父茂部もぶ壮一郎そういちろうが、ポロシャツにチノパンツ、つまり会社に出勤する格好でソファにゆったりと腰をかけてテレビのニュース番組をじっと観ていた。


おふくろは、隣りのキッチンで朝食の準備をしている。


オヤジが僕に気づいて、声をかけてきた。


「おはよう。きょうは早いんだな、ヨシト」


「うん、大学の授業が二コマあるからな。その後はアルバイト」


「そうか。勉学に勤労、まことにご苦労さまだな」


「オヤジ、それがまたさらに忙しくなりそうなんだ。


実は、昨日佳苗かなえ伯母おばさんに久しぶりに電話したんだ。そして……」


僕は昨日、鬼ヶ島家に挨拶に行き、そこでのアルバイト採用が正式に決まるまでのいきさつを、かいつまんでオヤジに説明したのだった。


「そういうわけで、新しいバイトがまず一件決まったんだ。


そこのバイト代は、いつものとは違ってとんでもなく高給なんだが、それでも短期間で一年分の学費を稼ぐにはまだ不十分なんだ。


だから、これからさらに佳苗伯母さんに頼んで、あと一、二件、別の家庭教師の口を紹介してもらおうと思っているんだ。


当分は、毎日のようにバイトを入れることになる。


その代わり、これまでやって来た居酒屋のバイトは少しシフトを減らしてもらうつもりだ。


これでなんとか、学費の納付期限までに間に合わせられると思う」


そこまでオヤジは僕の報告を黙って聞いていた。


そして、口を開いた。


「ヨシト、お前が昨日の俺の頼みに、そこまで迅速に対応してくれるとは思わなかったよ。


いつものお前なら二、三日ぐずぐずして、それでもいい考えが浮かばなくて、俺に泣きついて来るんじゃないか、そう考えていた。


予想をはるかに上回るスピーディな動き、お前のこと見直したよ」


「そうかい。でも今回はオヤジの頼みを引き受けた以上、出来る限り早く動かないと、どんどん自分が苦しい状況になるだけだって思ったんだ。


いわば自己防衛策だな。先手を打ってやるだけのことはやらないと、後でキツい目に遭うのは目に見えているからさ。


ふだんは甘ちゃんのモブヨシトも、やる時はやるのさ!」


僕は身振り手振りを交えて、オヤジにこう大見得を切って見せた。


オヤジはどこか安堵したかのような表情で、こう言った。


「よし、それでこそ俺の息子だ、ヨシト。


俺もこれで安心して会社の整理業務に打ち込めるわ。


よろしく頼んだぞ」


そう言って、僕の肩をポンと叩いたのだった。


いつの間にか、エプロン姿のおふくろが僕たちの近くまでやって来て、その様子を見ていた。


オヤジはおふくろに声をかけた。


「かあさん、ヨシトが言ってくれたよ。


自分の学費はなんとか自分で稼いでみせるって」


それを聞くとおふくろは、心なしか目を潤ませてこう言った。


「へえ、ヨシトがねぇ。いつまでも子供だ子供だと思っていたけど、ようやく大人らしいことをするようになってくれたんだねぇ。


まあ、父さんに代わって学費を稼ぐって大変なことだけど、がんばっておくれ」


そしておふくろはにっこり微笑んだ。


おふくろにそう言われて、僕はいささか照れくさかったが、それと同時にこれからの道のりのしんどさを想像すると、身が引き締まる思いがするのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


ここでちょっと説明しておこう。


僕、茂部凡人よしとの家族は、実はこれまでに登場した三人だけではない。


もうひとり、僕の五歳上の兄である勇人はやとがいるのだが、現在同居はしていない。


彼は、四人家族の中ではひとりだけ少し異質なところがあって、昔から『浮いた』存在だった。


個人主義というのだろうか、独立心が旺盛というのだろうか、十代の半ばぐらいから、家族全員で出かけたりすることを拒むようになっていった。


勉強はよく出来たので、某都立高校から西北大学の理系学部に入ったのだが、それもオヤジに言わせると「本来なら帝都大学に入れるくらい学力があるくせに、わざとランク下の西北だけ受けたひねくれ者」ということになっている。


要するに既成の権力におもねることが大嫌いな、はみ出しっ子。


僕のように親や教師に逆らわずにずっと「いい子」でやって来た人間とは、正反対のタイプなのである。


就職の時も大企業にはまったく興味を示さず、学生仲間らと在学中から始めた、いわゆるIT系のスタートアップ企業にそのまま残るかたちで、いまはそこの代表取締役になっている。


したがって、兄とオヤジとは同業者どうしということになる。


しかし、オヤジは叩き上げの苦労人でありながら、むしろその苦労を子供に味わわせたくないと考えており、「しないで済む苦労はしないほうがいい」が持論のひとなのである。


それゆえにオヤジは兄については「あいつは地に足がついていない」「若いから許されているだけで、夢ばかり見ている。そのうち奈落に落ちるさ」とケチョンケチョンなのである。


だから、親子仲もいいわけがない。


当然のことながら、二年くらい前、兄の会社の経営が軌道に乗ってから彼はこの家を離れて自活している。


わが家には、年に一、二回、盆か暮れぐらいにしかやって来ない。


でも、そんな兄のことを僕はさほど嫌いではない。


とても僕には出来ないこと、つまり独立した会社を切り盛りしている才能には、素直に敬服しているのだ。


その敬意を兄に伝えると、彼もまんざらでないって表情になる。


そしてこう言ってくれる。


「ありがとう。ヨシトも、お前がどうしてもやりたいことを早く見つけることだな」


僕がどうしてもやりたいことか……。


それは何か、まだ見えていないけどね。


そんなわけで、僕と兄は仲が悪くないので、いまも細々とだが繋がりがある。


おもにスマホのメッセンジャー上で。


「後で兄さんにも、今回のことメッセしとこう」


そう思う僕だった。


       ⌘ ⌘ ⌘


大学の一限目が終わって、ノートや筆記具をしまおうとしていた僕に、声をかける人がいた。


明るく高めの、女性の声だった。


「モブくん、ずいぶんと久しぶりじゃない?」


顔をあげると、目の前に著しく立体的に隆起したセーターがあった。


いやこれは失言、豊かな胸部をお持ちの女性が立っていた。


次に僕は、その女性の顔をまじまじと見た。


大きめの目に、小ぶりでちょっと上を向いた鼻という愛嬌のある顔立ち。


名前は……そう、名越なごし彩美あやみさんっていったっけ。


教養科目では同じクラスだった。


それゆえ一緒に受ける授業も複数あったので、一応名前は覚えているのだ。


「そ、そうかな。うん、たしかに前回は体調が良くなかったから、サボっちまったって記憶があるけどさあ、それって一回だけだよ。


この授業は週イチだから、二週間しか経っていないわけで、それって久しぶりってほどでもないと思うけどね……」


「まあ、そうかもね。でも、前回、モブくんに会えなくてちょっと寂しかったのよ、わたし」


え、それってどういう意味? 僕は聞き返せなかったが、代わりにこう言った。


「そう? 僕って名前通り存在感薄いタイプだから、休んでもわりと気づかれないんじゃないかって思ってたけど、そうでもないのかな、名越さん」


すると、彼女はその問いに答えるより先に、僕の最後の一語にはげしく反応した。


「まあ、わたしの名前、覚えていてくれたのね! アガるわー」


アガるって、どういう意味だ?


「うぅん、モブくんって自分が思ってるほどジミなひとじゃないって。


わたしたち、女子の話題にもわりとよく出てくるのよ。


だって、モブくんって会社社長さんの御曹司なんでしょ? いまをときめくIT企業の、そうモブアンドなんとかという……」


意外な発言に、僕は内心動揺していた。


「まあ、そうだけど。でも、そんなに大した会社じゃないよ」


「やっぱり、そうなのね。茂部って苗字、そうそう無いから、絶対モブくんはそこの御曹司だと思ってたわ。


この間、『インダストリアルジャーナル』って雑誌を大学の図書館でめくっていたら、お父さまらしきかたがインタビューで登場されていて、お顔立ちもモブくんに似ていたから、もう確信したわ」


妙にハイテンションで、うれしそうに語る名越さん。


彼女のその話を聴いて、以前の僕ならまだ気軽に聞き流せていたのだろうが、きょうの僕は気が重いばかりだった。


何故ならその会社は、七月末には確実に消滅してしまうのだから。 


沈んだ表情の僕に、名越さんはおかまいなくこう言った。


「ところでモブくん、お昼、一緒にどう? 時間、あるでしょ?」


ええっ、マジすか? うっかり、そう言いそうになった。


大学で同じクラスの女子と、一対一で食事することなんて、これまで一度もなかったので、ドギマギしてしまったのだ……。


いや、別に彼女のことが嫌いってわけじゃないんだけどね。ただ、心の準備が出来てません……。


だがもう、イヤとか言えない雰囲気だった。名越さんは目をキラキラとさせている。


こりゃ、参った……。


そんな僕の困惑した様子を見て、名越さんはピピッとひらめいたようだった。


「ははぁ、わかった。学食とか行くと、みんなから注目されるのが困るんでしょ」


僕が無言でうんうんと首を縦に振ると、彼女は二本の指でOKマークを作りながら、こう言った。


「そうね、あえて学食なんて悪目立ちする場所は避けましょう。


わたしも、モブくんとあらぬ仲と誤解されたくないしね」


なんかさっきとニュアンス、違ってません? これが女心ってヤツ?


でも、彼女の返事を聞いて、ひと安心した僕だった。


そして、こう提案した。


「ありがとう。じゃあ、僕の知っている隠れっぽい店にでも行こうか?」


「いいわね、その提案。いろいろと、モブくんのことを聞きたいわ」


僕と名越彩美のふたりは、そうして学生街の外れにある「ポムドテール」という名の、閑静なビストロに移動したのだった。(続く)


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