第2話 倭王 皇子の戦い

 西暦五八七年ころでは、大和(やまと)の国は、邪馬台国(やまたいこく)から続く大王家(だいおおけ)だけでは統制されていなかった。

 大和の国で権力の中心にあったのは、大和朝廷の他に、蘇我氏(そがし)、物部氏(もののべし)などの豪族ごうぞくと呼ばれる一族、勢力の存在もあった。

 その強大な豪族の蘇我氏は、対抗する排仏派の物部氏を攻め滅ぼしたのです。

 蘇我氏は、中国大陸、朝鮮半島との交易利権から得た利益で、大陸から最新の武器を揃えておりました。

 物部氏は、大和朝廷が成立する以前から、この日本の国の神々を祭る豪族として存在しており、仏教の教えを広めようとする崇仏派の蘇我氏と対立しておりました。主要な物部氏のメンバーが物部の領地に戻り、一同、皆、集まっていたところに蘇我の大軍隊は攻め込んだのです。

 物部氏は蘇我氏により全滅させられました。

蘇我氏の力は、王族、大和朝廷の大王より強大となり、大王を操るがごとくでした。朝廷内では誰も蘇我氏の頭領、蘇我馬子(そがのうまこ)に逆らえません。気に入らないとされる者が次々に消されていったのです。

 崇峻(すしゅん)天皇が蘇我氏に殺され、その後の天皇として、蘇我馬子は炊屋姫(かしきやひめ)を推しました。

 陰謀いんぼう…うごめくなか、炊屋姫は、推古天皇(すいこてんのう)、女王となられたのでした。

 大和朝廷では、王族は、肉親、親や子を蘇我氏に殺されるということだけではなく、身内での血まみれの権力闘争、生き残りを掛けた戦いの中にもあったのです。


西暦六〇四年

 聖徳太子(しょうとくたいし)と当時の蘇我氏の頭領であった蘇我馬子(そがのうまこ)により、十七条の憲法(じゅうななじょうのけんぽう)が制定されました。大和の国も、大和朝廷を中心にして、海外からの圧力、特に中国大陸からの圧力に対抗できるような、律令国家りつりょうこっかを形成しようとしていたのでした。


 聖徳太子は、墨で文字の書かれた木片を蘇我馬子に渡します。

大臣おおおみ、馬子殿、これくらいで良かろうか、と思います」

 蘇我馬子は、木片に書かれた言葉を読み、

「これで、大和の国の皆々が、従うべき法理、憲法が出来ましたな」

と、安堵した。

 ここに聖徳太子は、十七条の憲法を作り、大和の国民に周知させたのでした。

 そのころ、中国大陸において

西暦五八九年

 隋(ずい)という国が、南方の陳を攻め滅ぼして、中国を統一しました。

 聖徳太子(しょうとくたいし)は、この日本の国が、大陸の大国に攻められて、その属国ぞくこくになることを恐れておりました。

 そこで、この日本の国を、仏教を中心とした、ひとつの独立した立派な律令国家りつりょう こっかであることを内外に示したいと考えられていたのです。

 日本の人々が、やたら海外の大国にへりくだることなく、あくまでも、

「同等で対等の立場である!」

そのような態度で各国を相手に対峙するよう努められておりました。

そして、

西暦六一八年

 中国大陸においては、李淵(りえん)という人が、隋(ずい)に替わって、唐(とう)王朝を建国したのです。

 隋(ずい)の国は腐敗ふはい、衰退していったようです。

 混乱、衰退した隋の最後、山西の地方長官であった李淵は、隋の煬帝(ようだい)の歿後、中国を統一し、都は長安のまま、自分を高祖と名のり、唐を建国したのでした。

 唐は、隋の廃退を繰り返さぬよう、しばらくは内政の充実に力を注ぎました。対外的に他国に圧力をかけたり、攻撃をしたりという領土拡張は一時停止し、お預けとしたのです。内政に重点を置き、国力を高めようとしました。

 そのような唐の二代目の皇帝、太宗におかれては、律令制りつりょうせいを完備され、また、房玄齢(ぼうげんれい)、吐如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)、李靖(りせい)という賢人を家臣として登用し、非常にすばらしい政治を行うことが出来ていたと云われております。

唐は大帝国を形成してゆくのでした。


 この時期、日本、大和朝廷においては、蘇我氏(そがし)が、ますます勢力を伸ばし、蘇我氏の専横ぶりは目に余るものとなっていたのでした。

 大和朝廷は、蘇我馬子(そがのうまこ)に続き、その子、蝦夷(えみし)、孫にあたる入鹿(いるか)と続いた蘇我一族に支配されておりました。

 大和朝廷は、蘇我入鹿(そがのいるか)の勢力に対抗しようと、次の天皇には、聖徳太子の直系である、山背大兄王(やましろのおおおえのおう)を建て、大王、天皇にしようとしておりました。

 聖徳太子の遺志を継ぐ者。

 相当、できた人物であったと云われております。

 しかし、相当な人物というのは、悪だくみをしている相手でさえ、許してしまう。そんなところがあります。

 聖徳太子(しょうとくたいし)の遺志と云われている、大和の国の教え、大和の魂⁉

十七条の憲法(じゅうななじょうのけんぽう)で、その十条は説いております。


十曰。

(十にいわく。)

絶忿棄瞋。不怒人違。

(いきどおりをたち、いかりをすつる。ひとのたがうをいからず。)

人皆有心。心各有執。

(ひとみなこころあり。こころ、おのおのとらえるあり。)

彼是則我非。我是則彼非。

(かれはこれ、すなわち、われにあらず。われはこれ、すなわち、かれにあらず。)


 今風に漢文授業のように訳しますと、


十条 

いきどおりを絶って、いかりを捨てなさい!人の思いが違うことを決して怒ってはいけません。

人には皆、それぞれの心が有り、思いが有ります。

彼は私ではなく、私は彼ではないのです。


というものです。


 山背大兄王(やましろのおおおえのおう)は、相手のことを悪い者とも、たくらみのある者とも思わないような、心の持ち主だったのでしょう。

 この方の人の世の思いは、恩人や家族を殺してでも、明日のわが身の富を案ずる者がいることなど想像すら出来なかったのでしょう。


 蘇我入鹿(そがのいるか)は、蘇我氏をかねてより批判している山背大兄王と、その后(きさき)と、一族を敵視しておりました。そして真っ向から対立をしておりました。


 蘇我入鹿は、幼い頃より一族が、仏教を尊び大和の国の柱にしようとしていた為、今で言う宗教系私学、学習塾のような処に通い勉強をしておりました。大陸からの学問、仏教を学んいたのです。また、家には、聖徳太子と祖父、蘇我馬子(そがのうまこ)が創ったと言う十七条の憲法の原本が保管されておりました。彼は、その環境によって大変勉強熱心であったとも云われております。

 しかし、祖父、父親の多大な影響もあり、蘇我入鹿(そがのいるか)は、同じ蘇我の一族、従兄弟であろうと、自分の意に背く気に入らない、邪魔者は排除してしまう様になっていきました。人の為など考えたことも無い人物になっていったとも云われております。生まれた時から、蘇我の頭領の嫡男であり周囲は敵ばかり。如何なる場合も気を抜くと、命の危機にあったのでした。中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と似た境遇とも言えます。


蘇我氏の頭領であった蘇我馬子(そがのうまこ)が、亡くなり、その息子、蘇我蝦夷(そがのえみし)が、蘇我の頭領として、大和の国で、絶対的な権力を持ちました。

そこで蘇我蝦夷は、舒明天皇を擁立したのですが、その治世は、流星、大風、二度にわたる不吉な彗星の出現、日蝕、青天の雷といった天変と、相次ぐ遷宮と宮殿の火災、飢饉といった地異の続く騒然とした時代となりました。そして舒明天皇の時代も終りを告げ、蘇我蝦夷の思惑により、舒明天皇の皇后だった宝皇女が、皇太子の成長を待つ間、というかたちで即位し、皇極天皇(こうぎょくてんのう)(女王)となられたのでした。


蘇我蝦夷は、桂城の高宮という処に先祖の廟を新設しました。さらにそれに続いて、全国から大勢の人夫を徴発、徴用し、今来の地に自分と息子の蘇我入鹿(そがのいるか)のために双墓を造営しました。蘇我蝦夷が、「墓の建設は、自分の死後、人に苦労をかけないためだ」と主張したのに対して、上宮王家からは、「蘇我は、国を私物化し、自分勝手な行いが目に余る。天に二つの太陽はなく、国に二王なし、と言うのに、なぜ王のように全国の民を勝手に使役するのだ」と非難が出たのでした。

大和の国、明日香(あすか)の地に、全国から徴用された大勢の人夫達により、巨大な方墳が造営されている。それを見渡せる小高い丘に、当時、大和朝廷において、強大な権力を持っていた豪族、蘇我氏の宋家当主、頭領、大和朝廷での大臣(おうおみ)である蘇我蝦夷と、その子、蘇我入鹿が、並び立ち、その壮大な作業を満足げな顔で眺めている。

蘇我蝦夷は、多くの人々で、巨大な石を運び、積み上げ、そして巨大な方墳が造営されているのを、満足気に眺めながら、隣に並ぶ、息子、入鹿(いるか)の頭を軽く片手で撫でながら、言い聞かせた。

「これが、我ら蘇我の力だ。そなたの祖父、蘇我馬子が、豪奢な法興寺(ほうこうじ)を建立させた時は、その後、蘇我に負けじと聖徳太子など、当時の王族は、法隆寺(ほうりゅうじ)を建立したもんじゃ。今、このような壮大な方墳など、王家に造営する力など無いわ!」

と、大きく笑い、吐き捨てる様に言う。すると、その丘の直ぐ近くに、この方墳の造営を眺める、皇極天皇と、皇太子、皇子のの姿が目に入る。

皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、朝廷内で最近、蘇我蝦夷(そがのえみしが大王に推した、女王である。

 丘から、この方墳の造営を眺める、皇極天皇と、皇太子、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と次男、皇子、大海人皇子(おおあまのおうじ)の姿を目にした蘇我蝦夷)は、中大兄皇子と同い年くらいになる息子、蘇我入鹿(そがのいるか)を伴い、挨拶に訪れた。そして、蝦夷は、女王に深々と頭を垂れ、

「これは、これは、大王おおきみ。このような、場所にお出でとは」

と、少し嫌味っぽく挨拶をした。

大臣おおおみ、随分、巨大な墓を造営されておりますね?」

「いや、私が死んだ後に、墓の造営に揉めたり、皆に苦労掛けぬよう、自分が元気なうちに、造っておこうと思いましてな……」

と、言いながら、お辞儀もせず隣に立つ息子、入鹿の頭を下に押して、お辞儀をさせた。いやいや、お辞儀させられる入鹿は、女王の横に立つ、中大兄皇子を上目遣いに睨みつけている。そして、その入鹿は、中大兄皇子の横に並ぶ、まだ幼い弟、大海人皇子(おおあまのおうじ)の足を蹴飛ばし、倒した。

「これ、何をしておる。気を付けよ!」

と、蝦夷は、入鹿の頭を軽く小突き、大海人皇子が立ち上がるのを支えた。

皇子おうじ、しっかり自分の足で立っていないと、この国の王には、なれませんぞ」などと、説教じみた言葉を残し、一礼し、入鹿を連れて元居た場所に戻って行く。入鹿は、ふと、中大兄皇子を振り返る。睨むような、その姿に、フン、と、あざ笑うかのような仕草を見せるのであった。


 蘇我入鹿が、この時より少し成長した少年であったある日、入鹿は、斑鳩(いかるが)の村の近くの林の中で、入鹿の従兄弟いとこたちが、村の娘とその弟と思える子供をイタブッているところに出くわしました。私塾から家に戻るところであった入鹿は、従兄弟たちを無視して、通り過ぎようとする。

助けを求める娘の弟。

 ニヤついて入鹿を見ている従兄弟いとこたち。

(蘇我の一族は、この国では何をしても許される)と思っている。

入鹿は、従兄弟いとこたちに、

「おい、止めとけ!相変わらず、品のない獣みたいな奴らだな!」

と、軽蔑した視線を送り、注意した。 それに対して、普段から蘇我の宗家の入鹿に反発していた従兄弟たちは、

「なんだと?宗家の長男だからと思って、スマシテるんじゃね~よ。学問だとか、何だとか、早く家に帰って、坊主のマネでもしてろ!意気地なしが!」

と、罵るのでした。

入鹿(いるか)は、近くのお付きの者の弓を獲り上げた。そして、矢を装填して弓を引く。狙いを従兄弟に定める。その獲物を狙うような鋭い眼差しに、従兄弟たちは、慌てて、入鹿を制止する。

「おい、おい、おい、本気じゃないよな‥‥‥」

 入鹿は、村の娘と弟に目をやり、この場から逃げるように合図する、が、二人が走り出したところで、娘、弟を狩りでもするように矢で射抜いてしまうのだった。

「面倒くさいんダヨネ‥‥‥」

と言って、次の矢を従兄弟いとこたちに向け、それから、薄ら笑いをしながら、従兄弟たちの方に矢と弓を投げ捨てた。そこには、後に、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)のクーデターに加担し、朝廷の中心として右大臣となる、倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)がいた。

 入鹿は、

「お前らが、殺したんだからな⁉面倒なこと、俺様にかけるんじゃないぞ!」

と、言い捨てて、お付きの者たちと、その場を去って行ったのだった。


 大和の村々で飢饉が始まっていた当時。それでも、大和朝廷としての蘇我氏は、そんな村からも年貢は取り立てる。村の状況など我関われかんせず、

「持ってこい!」

とだけ命ずる。困窮する者、飢餓に苦しむ者、関係ないのだ。

 そんな蘇我氏の暴挙に、聖徳太子の嫡男、山背大兄王(やましろのおおおえのおお)は、苦慮しており、きさきと供に蘇我入鹿(そがのいるか)をあからさまに非難した。

 その後、山背大兄王の一族は、聖徳太子(しょうとくたいし)ゆかりの斑鳩宮(いかるがのみや)にいたところを蘇我の軍隊に、夜、暗闇に襲われてしまったのです。

大和の国で、蘇我氏は、やりたい放題だったのです。

 大和の国の天皇(王)までも、蘇我氏が指名するようになっていたのでした。

 蘇我入鹿は、父 蝦夷(えみし)の指示でもあり、次期天皇には、舒明天皇(じょめいてんのう)と蘇我蝦夷(そがのえみし)の妹の子である古人大兄王(ふるひとのおおおえのおう)を次の天皇にし、自分達一族の権力をより強固なものとしようとしていたのです。ついに慢心した蘇我氏は朝廷側の王族たちと天皇の跡目問題で争う姿勢をみせたのでした。

 大和朝廷は、次の天皇には、聖徳太子(しょうとくたいし)の直系であり、また朝廷の慣例では天皇の正式な跡目である山背大兄王(やましろのおおおえのおう)を建てようとしておりました。

しかしながら‥‥‥

山背大兄王(やましろのおおおえのおお)の一族は、聖徳太子(しょうとくたいし)ゆかりの斑鳩宮(いかるがのみや)で蘇我の軍隊に夜に襲われてしまったのです。

 たまたま、その時、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、自分が尊敬する聖徳太子の話を聞くため、斑鳩宮を訪れ、聖徳太子の嫡男、教養も人望も豊かな、そして、次期大王にもなられるであろう山背大兄王と、そのご家族と会食の最中でした。

 中大兄皇子は、蘇我入鹿(そがのいるか)の軍が、山背大兄王の一族を殺しにその館、斑鳩宮に襲撃をかけて来た時、たまたま居合わせた。

皇極天皇(こうぎょくてんのう)・女王の実子、中大兄皇子は、聖徳太子を大変尊敬しておりました。が、自分のためには非情な戦いをする人であったと云われます。一種の強力な殺人兵器、鬼の子とも云われたとか?

 中大兄皇子の戦い方は、弓と槍と剣を使い、あちらこちらに、飛び回り、舞うようにして敵を殺す。

 芸術的な瞬殺しゅんさつ

 中大兄皇子にとって、敵というのは身内であれ、何であれ、自分の意向に逆らう者、自分の命、地位を狙う者達である。腹立つ奴、気に入らない奴、殺したい奴である。物心ついた時には、皇子(おうじ・みこ)として、周りは敵だらけ!であった。自分を獲物(えもの)のように狙っているやからが、次から次に現れてくるのである。弟でさえ、信用など出来なかったのだった。

 逃げ、隠れ、反撃する。

 成長し、訓練、鍛錬、経験を積み、そのうちに中大兄皇子は、誰にも何者にも負けない強靭で、非常な人となっていったのでした。

 

 斑鳩宮にて、山背大兄王の家族と、夕餉を共にしている中大兄皇子は、山背大兄王に、ご機嫌このうえない笑顔で聖徳太子のことを訊ねる。それに山背大兄王が、聖徳太子について、それはご自身の父親の話でもあるが、穏やかに語る。

 中大兄皇子は、それを一言も聞き漏らさないよう、熱心に聞き入るのであった。

「父、聖徳太子は、この国を、人々が安心して暮らせる穏やかな国にする為にと、先ずは道徳のようなものを、国中に広めようとされていました」

 山背大兄王は、太子を懐かしむように語られたのでした。

「十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。(十にいわく。いきどおりをたち、いかりをすつる。ひとのたがうをいからず。)人皆有心。心各有執。(ひとみなこころあり。こころ、おのおのとらえるあり)」

 途中から中大兄皇子も一緒に唱和する。

 山背大兄王は、十七条の憲法の内の十条を唱え終えて、続けた。

「最初の一条は、一曰。以和為貴。無忤為宗。(一にいわく。わをもってとうとしとなす。さからうことなきをむねとす)」

と話されているところで急に外が騒がしくなる⁉

叫び声まで聞こえてきたのであった。

 皆が集う部屋の戸が力強く開けられ、宮廷の警護兵が、弓矢が体に二、三本刺さったまま倒れ込んで来て叫ぶ!

「王様!お逃げを!蘇我の夜襲です!」

 すぐさま、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は立ち上がり刀を腰に差し、弓と槍を持ち武装した。

 そして、山背大兄王(やましろのおおおえのおお)一家に、

「皆さま、奥の部屋にお移り下さい!私も直ぐに参ります!」

と言って部屋を飛び出した。

 中大兄皇子は遠くの敵には弓をひき、近くまで迫ってきた敵には、槍を突き、刀で差し切り、殺してゆく。なぜかダンダン中大兄皇子の顔がニヤケてきている。

 中大兄皇子は返り血を浴びて、恍惚の表情になっている。敵を殺すごとに何かを呟き始めているようだ。

(人を生かしてこそ人の道・・・、人で無いものは生かさぬ・・・)とか、

(生きとし生けるもの、等しく成仏せい!)など、

 仏教に通じる言葉のようだ。

 中大兄皇子は、敵を次々と何人も殺し倒した時などは、力強く、

「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)!究竟涅槃(くきょうねはん)!」

(誤った心、妄想などから遠く離れている!心は平安の境地にある!)

と念仏のようなものも唱える。

 それから中大兄皇子は、こちらに近寄る敵が無くなってきたのをみて、山背大兄王(やましろのおおおえのおお)の一家の控える奥の部屋に急いだ。山背大兄王の一族を、蘇我の兵士に囲まれた宮廷から逃がし、蘇我の兵を楽しみながら、ことごとく殺戮し、自身は蘇我の兵に紛れてサッサと逃れたのだった。

 その日の夜、中大兄皇子は蘇我の襲撃を知るや、素早く武装し、最初は館の部屋の内から弓で、宮内に入って来る遠目の敵を射抜いておりました。しかしながら、次々に侵入してくる蘇我の軍隊の数が増えてきたため、山背大兄王の一族とその護衛、自分の護衛達を裏門から逃げるよう指示したのです。それから、宮の兵たちに、正面の門を閉ざさせ、その後、門を開け放ち、敵、蘇我の軍を迎え撃つ体制をとらせたのでした。

 中大兄皇子は、みずからが裏門の外に出て、山背大兄王の一族の皆を逃がすために、裏門外の敵をことごとく殲滅せんめつしたのです。その行いは、少年とは思えぬ残虐な殺傷能力を会得しており、すでに、地獄の王を思わせたのでした。

 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、弓を一度に三本も四本も射て、一瞬で敵を何人も倒しゆきます。

 近くに寄ってきた者は槍で刺し殺し、それから両手に細身の長い剣を持ち、舞う様にして、剣で大勢の敵を切り倒してます。美しく舞うように剣を振り回し、中大兄皇子の舞い通り行く後には、蘇我の兵たちが、バタバタと倒れていったと云われます。

 中大兄皇子は、敵を殺していくごとに、何かをブツブツと唱えます。

「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)!究竟涅槃(くきょうねはん)!」

(間違った考えや、妄想からは遠く離れている。心は平安の境地にある)

 その姿を、蘇我入鹿は、馬上から遠目に眺めていたと云います。 

「あのガキか・・・」

 そう呟いて、苦虫をかみました。


 中大兄皇子は、山背大兄王(やましろのおおおえのおお)の一族を、蘇我の軍に襲われている宮の裏門から無事に脱出させました。そして、自らは戦闘に残り、宮を守る兵に正面の門を開けさせ、我先に突入してくる蘇我の兵に対し、自分は楽しむように敵軍に突っ込み次々に蘇我の兵を切り倒してゆきました。

 次々と増えていく敵の数に、恍惚のうちから我に返った中大兄皇子は、これ以上の対応は難しいと判断し、再び館(やかた)の奥に入り込み、槍を取り、館(やかた)の中に入って来た追手を一人ずつ刺し殺しました。そして、倒した一人から武具をはがし、蘇我の軍隊に紛れ込んだのです。外に出て、前向きに後ろ足で、軍の後方にソロ~リと、逃げるのでした。 今で言う ムーンウォーク と言うところ。

 途中、軍の中心にいた馬上の蘇我入鹿(そがのいるか)に声をかけられます。

「おい、お前、帰るならさっさと帰って勉強でもしろよ!これからは、武力では何も解決できない時代になる。勉学と知識が最大の武器となるのだ」

 中大兄皇子は、びくっ!として、固まった。まるで、自分を見透かされて言われていると思われたからです。

 兎にも角にも、中大兄皇子は斑鳩宮(いかるがのみや)からの脱出に成功?した。

(もしかしたなら、見逃してもらったのかもしれない⁉)とも思えた。

 山背大兄王の一族は、中大兄皇子のおかげもあり、一度は裏の山に逃げ、一夜を明かして隠れられていたのですが、山背大兄王は、

「家臣や、里の人々が、自分のために蘇我入鹿に苦しめられ、殺されるのは耐えられない」

と言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)ゆかりの斑鳩寺(いかるがのてら)、法隆寺(ほうりゅうじ)に一族の皆と入られて、一族と供に自害されたと云われております。

 ここに聖徳太子歿後から二十二年、その末裔は断絶してしまったのです。そして、蘇我氏の暴挙はとどまるところを知らなかったのです。

 蘇我入鹿(そがのいるか)は、山背大兄王(やましろのおおおえのおお)を死に追いやった時、父、蘇我蝦夷(そがのえみし)から言われました。

「これが、政治(まつりごと)だ!」


 蘇我入鹿は、もともと争いごとなど好きではなかったと云われています。ですが、蘇我氏の一族からは、蘇我氏宗家の家長の嫡男であることで、常にその命、立場を狙われるため、強く、非常になるよう努めていたと云われます。

 蘇我入鹿は、聖徳太子(しょうとくたいし)とご自分の祖父、蘇我馬子(そがのうまこ)が作ったとされる「十七条の憲法」の原本を大切に保管して読みふけっていたとも云われております。

 一方、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が幼い少年のころは、天皇である母、宝皇女(たからのひめみこ)をはじめ、自分たち王族が、蘇我氏に遠慮しながら、見下されながら生活しなければならないのが嫌で仕方なかったのでした。

 それでよく、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と斑鳩宮(いかるがのみや)の外の村に遊びに出かけて行きました。

 二人とも、宮中で、蘇我氏に遠慮しながら大王家の人間として生活していくのをヨシとはしていなかったのです。反発していたのでした。しかしながら、今のように安穏に暮していけるのも、蘇我氏のお陰であることも分かっておりました。

中大兄皇子は、母が、蘇我氏によって女王として祭り上げられ玉座に坐らされてはいるが、肉親の血みどろの戦いの末、無事であるのも蘇我氏のおかげであること、一族の安全は、蘇我氏の手の中にあることを知っており、理解はしておりました。だから、中大兄皇子は、宮中において、自分が、何時かは蘇我に歯向かい、刃を向けるであろうと感じていたのでした。


 中大兄皇子と大海人皇子の二人は、度々、斑鳩宮を出て、近くの村に行っておりました。

二人で村の祭りに飛び入りで参加させてもらったり、田植えの手伝いをしたりもしておりました。また、牛に乗って畑を耕したり、馬を走らせて技を競い合ったり、森で狩りをしたり、川に行って村の水くみを手伝いながら、ついでに魚獲りをしたりと村での生活を存分に楽しんでいたのです。

 中大兄皇子と大海人皇子の二人は、ことのほか、村の子供たちと遊びまわるのが好きでした。そこにある限り、中大兄皇子には残虐性は芽生えないし、持ちえない。宮中にある時こそ、残虐性は芽生えてくる、育ってくるのでした。宮中での生活において、中大兄皇子、自らの身は、戦闘兵器と化していったのです。


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