第4話  倭王 北の民 蝦夷《えみし》

 古代の日本、倭(わ)の国、大和(やまと)の日々が、ゆっくりと過ぎてゆく。

 飛鳥(あすか)時代。

 現在の奈良県の一地方、飛鳥(あすか)地方の斑鳩(いかるが)の村、その古代日本の農村の平凡な日々の風景。

 かやぶき屋根の家々の合間から、炊飯(すいはん)のために薪(まき)をくむ、細く白い煙があちらこちらの家から立ち昇る。

 川では、小さな瓶(かめ)に水をくむ子供たち。各々の家の前にある大きな水瓶に川の水を移し替えている。


 ある日のこと、

 薪拾(まきひろ)いの途中であっただろう、中年の男性農民が、慌てて山を下ってきた。よほど、怖いものを見たのか目を見開いて真っ青である。

 男は、山のふもとの村の畑にたどり着くや、村中の皆に聞こえるように大声で叫ぶ。

「おーい!早く逃げて何処かにかくれろー!」

 北の民、蝦夷(えみし)(蘇我入鹿(そがのいるか)の父、蘇我蝦夷(そがのえみし)のことではない。後にエゾとよばれる民)が攻めて来たのだ!

 男は、村中に聞こえるように、両の手を口に当てて出る限りの大声で叫ぶ。

「蝦夷(えみし)が来たぞー!!」

 しばらくして、山から下り降りて来たのは、毛皮装束に、簡易な鎧当て(よろいあて)姿で、弓を持ち、短刀をかざす、いかにも野蛮な部族が、騎馬(きば)で次々と現れた。

 それを、里の寺の僧兵(そうへい)達が薙刀(なぎなた)を片手に持って追っている。白い袖なし衣(ころも)に黒い袴(はかま)と黒い僧衣(そうい)、この僧兵達も同じように簡易的な鎧(よろい)を当ている。薙刀(なぎなた)だけではなく槍(やり)や弓(ゆみ)を携(たづさ)えて蝦夷(えみし)を追って来た者もいた。

 僧兵たちは、徒歩にて山を駆け下り、北の民、蝦夷(えみし)を追って来た。

 蝦夷(えみし)は、コテンパンに僧兵にやられている様で、逃げるように村に下りくる。腹いせに、蝦夷(えみし)は弓矢で村人を射殺し、村に火を放った。馬から降りた者は、帯刀していた短刀で村人を刺しまくり、女や子供を腕に抱えてさらい、馬に乗せて村を去る。


 村も畑も焼けてしまった。


 蝦夷(えみし)は騎馬で次々と手あたり次第に村人を拉致(らち)し、さらって行ってしまったのである。


 サッカーのような遊びの村人チーム、ご近所、幼馴染の安曇(あずみ)と阿倍(あべ)の二人の青年は、安曇の妹、ヌカタを背にして囲み、必死に守ろうとしたのだが・・・

 しかしながら、ろくな武器がない。相手の弓矢をよけ、近づいてくるのを防ぐのが精一杯であった。

 阿倍は、長い物干し竿をこん棒のように振り回して防御するも、安曇もヌカタも蝦夷に連れ去られてしまった。そして阿倍は、ついには疲れ果て、座り込んで動けなくなっていた。そこを僧兵に保護され、斑鳩の里の山の寺に連れて行かれたのだった。


 山間(やまあい)の一面に残ったものは、焼かれて煙がくすぶる村と畑。倒れた人々。


 それから数日の後、村が襲われたことを何も知らない中大兄皇子(なかのおおおえのみこ)は、従者(じゅうしゃ)に牛車を牽(ひ)かせて、金・銀・銅などの装飾品、器具とともに、サトウキビの束を積んで、宮中を出(い)で、この村に現れた。

 この前のサッカーの試合の折、この村のチームのリーダーである安曇(あずみ)との約束であった、村チームへの約束の品を運んで来たのである。そんなことよりも、安曇の妹、ヌカタに会いたかったのである。ここのところ、ヌカタは宮中でも見かけない。

 弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)もこの村について来ていた。こちらも、兄と同じように村の安曇の妹、ヌカタに会いたかったから。

中大兄皇子と大海人皇子は、牛車を引き連れて村の外(はず)れに辿(たど)り着いたのだが、村の惨状(さんじょう)を目(ま)の当たりにした皇子二人は、崩れ落ちた。


 お供の者も呆然と立ち尽くしているばかり。

 それから中大兄皇子と大海人皇子は、焼き焦がされた村中を走り回った。

 叫びまわった。

 大声で叫びながら、泣き声になりながら、安曇!ヌカタ!阿倍!と、彼らの名を呼び続けた。彼らの家も焼かれており、その跡には、蝦夷(えみし)と僧兵(そうへい)と村人の屍(しかばね)が転がっている。

 中大兄皇子は、倒れている僧兵の僧衣を見て、(何処の寺の僧兵か?)と思いをはせた。そして中大兄皇子は、大体、どこの寺か見当がついたのか、急いで山の中へ走り出して行った。

とある蘇我(そが)の建立し、大和朝廷が庇護する寺に向かったのである。


 山の中腹に建立された、巨大な寺院の中では、本堂とその前庭において、僧兵の毎日の訓練が行われている。

 本堂の中では、白い装束に黒い袴(はかま)、僧衣を纏った(まとった)若い僧侶、僧兵たちが、隊列を組み、こん棒を槍(やり)にみたてて、体の中心に縦斜めに持ちながら、速足(はやあし)で行進をしている。

隊列は壮大なもので、八列にして、一列三十人以上は並ぶ。

 列の先頭の者は、列ごとに色違いの巨大な旗を持っている。

 走りながら、隊列を崩さず、右に左にうねる様(さま)は、まるで龍のごときである。行進では、床を踏む足音が本堂内に響き渡る。リズミカルに、まるで打楽器でも演奏しているかのように、早くなったり、止まったり。

 足音は乱れることなく流れるように調べを奏でた。

 そして次には、隊列は止まり、各人が動きやすいよう一定の間隔を取り始める。動きやすいように間隔をとり、そのため少しだけ縦横に広がり、こん棒を握り直し、そして構える。

 エーイ! 

と、大きな掛け声とともに、こん棒で突きの演武(えんぶ)である。そして、また隊列を組み直して小走りの行進が始まる。

 足音は乱れることなく流れるように調べを奏でる。

 孫氏の兵法に則した形のように隊列を組み変化させ、戦闘訓練をする。隊列は、八組八列に分かれており縦横無尽に変形して、訓練をしている。

 戦闘で組まれる隊列で、よく用いられ有名なのが、魚鱗(ぎょりん)のかまえと、鶴翼(かくよく)のかまえ。

 魚鱗は、向かう先を三角形の頂点のように隊列を組み、相手に突き刺さっていく感じであり、鶴翼は、左右に広がり相手を包み込む感じである。

 江戸時代前の三方が原の戦いでは、家康は、鶴翼で|臨み(のぞ)、武田軍の魚鱗の構えに大敗を喫(きっ)しているノダ。戦法とは、その時、その時の状況や場合によるものである。必勝ではない。

 飛鳥時代には、まだ孫氏の兵法は存在していない。孫氏自体はその時代より前に中国に存在してたのではあるが、その兵法研究については何百年も後に、翻訳され、日本の武将たちに愛読されたのだった。


 中大兄皇子は、聳(そび)え立つ、この広大な寺に似合った大きな山門を見上げながら、

「開門せよ、中大兄皇子である!」

と声高に叫んだ。

 門は、二人の強靭な身体をもつ不気味な巨大な僧兵の門番により、守られている。

 門番は、聞こえないふり、無視を決め込んでいるらしく、再度、中大兄皇子は開門を迫った。しかしそれには応じない門番は、中大兄皇子を軽く蹴散らそうとした。

中大兄皇子と、不気味な巨大僧兵の門番との戦いとなってしまう。

 どうしても門を死守するつもりの巨人僧兵は、一本杉から造られたのかと思えるほどの巨大なこん棒で皇子を追い払おうとする。それに対し、中大兄皇子は、器械体操のように飛び跳ね、舞うように、巨人僧兵二人を小さな木刀のようなもので倒してしまう。

そこで、巨大な山門は内側の誰かの命により左右観音開きに開門された。

 この巨大な山寺の本堂は、門より奥まった所にあり、本堂の前に広大な広場が広がっている。その広場では若い僧兵が、幼子も含め、戦闘訓練の真っ最中であった。本堂前のその広場では、千名に近い僧兵達によって軍事訓練が行われている。

 中大兄皇子が寺の中に一歩入るや、全員が動作を止め、中大兄皇子に平服した。

 本堂の前には、老人の僧侶と思われる、位の高そうな僧が立ち、中大兄皇子を眺めていた。たぶん、この寺の最高責任者であろう。住職というよりは、位がもっと高そうでもあった。

 中大兄皇子が、その本堂の前の僧呂に向かおうと一歩踏み出した途端、前庭に平服した僧兵たちが、道を開けるように移動した。

 中大兄皇子の前に、高僧までの一本の道筋が出来た感がある。

 両脇には、こん棒を縦に持った僧兵が並び固める。


 中大兄皇子は、本堂の扉前にたつ高僧へ歩みを進め、高僧の前に立ち止まった。すると高僧は本堂の扉をさし、中大兄皇子を、本堂の中に招き入れた。

 中大兄皇子、高僧、そして一人のお付きとも思える僧侶、三人が中に入ったところで、前庭に居た殆ど全員が、内と外に別れ、本堂内と外の四方の壁際を固める。屈強な僧兵によって、本堂の扉は閉められた。

 扉は閉められたが、他の小窓は開けられたままなので、暗闇ではない。陽は差し込んでいる。

 本堂に、中大兄皇子を招き入れた高僧は、もう一人の僧を従え、後ろに皇子を座らせ、一通りのお経を本殿に向かいあげた。そして、振り返り、皇子に向合う。

 高僧は、

「中大兄皇子、さて、本日のご用向きは?」

と、問うた。

 中大兄皇子は、反身を乗り出し、口に泡するごとく、

「この下の村の惨状について、詳しくお聞きしたい。ここは、朝廷と蘇我氏の庇護を請けており、僧兵を多く持つ寺院と聞いておるが、なぜ、蝦夷から村を守れなんだ!」

 責めるがごとくの皇子の言葉に、高僧は深いため息をつく。

 そして、続けて、中大兄皇子に静かに問うた。

「和をもって貴(とうと)しと為(な)す・・・ご存じかな?」

 中大兄皇子は答える。

「聖徳太子様、十七条の憲法、第一条?」

 高僧は、一度深く頷き、そして続けた。

「当寺院は、蘇我馬子ために建立(こんりゅう)された寺です。この寺において、この大和(やまと)の国を仏教を中心とし、仏教の教えを基本とした、律令(りつりょう)国家(こっか)としていこうとされた。また、秩序ある争いのない平和な国にするためには何をすべきか?と、政(まつりごと)を、聖徳太子さま、蘇我馬子さまのお二人で練(ね)っていらしたそうです」

 高僧は、昔の記憶を丁寧にひも解くように、続けました。

「そして、そのうえ更に、この寺で大和の国の土台固めとして歴史書、国史をお二人で編纂(へんせん)されていたとお聞きしております」

続いて、高僧は残念がるように呟いた。

「ただ、太子は、晩年、仏教をご自分たちの権力固めに利用したことを大変、後悔されていたそうです。政治へも、人民にも関心が無くなり、夢殿に籠(こも)っては瞑想(めいそう)の日々を送られ、そしてついに果てられたと聞き及(およ)んでおります。当寺の初代僧侶(しょだいそうろ)、慧慈(えじ)も気落ちし衰えてゆき、太子の翌年の命日に歿(ぼっ)したと云われます」

 高僧は、更に残念がるように、声を落とした。

「当寺院は、蘇我入鹿(そがのいるか)様の庇護(ひご)を受ける前は、聖徳太子の寺であり、その直系の子孫の方々の氏寺(うじでら)として、山背大兄王(やましろのおおおえのおう)の庇護のもとにございました。ここは、聖徳太子さまの寺とも言えます。むやみに、争いごとには関与いたしません。蝦夷(えみし)たちは、この寺を襲撃してきました。中大兄皇子は当院の守りが強固とみるや、早々に、諦めて村へ貢物の取り立てに、なだれ込んで行ったのです。  

我々は、なんとか食い止めようと追撃をいたしましたが、背後からの戦闘は、当院の僧兵は不得手でした。逃げるように背を向けている者たちを追撃するのは、もっとも不得手なのです。それでも、当院の僧兵は壮絶な戦いをいたしました・・・・・・」

 高僧は、深くため息をつく。

 中大兄皇子(なかのおううえのみこ)は合唱(がっしょう)し、目を閉じて僧のことばを静かに、感じ入るように聞いていた。

 目を閉じて深く考えた後、しばらくして、目を見開き高僧に、願い出たのです。

「この村に持ってきました、金銀銅の他、珍しき甘い汁のでるサトウキビという笹のような植物、南国の物を大量に持って来ております。それを、この寺に寄進(きしん)させて頂きたい。そして、この村の者たちの弔(とむら)いをお願いしたいのです」

 中大兄皇子(なかのおううえのみこ)は、高僧に続けた。

「また、生き残っておる者どもの生命を守ってやっては頂けないだろうか?」

と願い出たのである。

 高僧は、答えられた。

「昨日から、里の人々の亡骸(なきがら)のお弔いは手厚く行っておりますゆえ、それはそれで続けまする。僧兵は僅(わずか)ばかりおりますが、この寺を守るものばかりで、お経(きょう)をあげられる僧侶は数的には僅しかおりませぬ。まだまだ、お弔いは終わりそうにはございません。また、里の生き延びた者の面倒は当寺院でみさせて頂いておりまする」

 高僧は静かに合唱した。

 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)も静かに合唱し頷いた。

 そして、その場を立ち上がる前に、

「それでは、山門の前に、荷を置いて帰らせて頂きます。最後に、僧侶様」

と、中大兄皇子(なかのおううえのみこ)は、続けた。

「穏やかき、太子の理想とした国造りをするには、如何(いか)にすればよいでしょうか?」

と問うた。

 高僧は、合唱し深く考え、鋭く目を見開き、まっすぐに皇子をみつめる。

「蘇我入鹿(そがのいるか)を殺しなさい!」

と、強く言い放ったのだ。そして、高僧は続けて、

「太子の意思を継ぐ者は、宮中にも何人かは居ります。必ず皇子の意思に協力してくれる筈(はず)です。そして、あなた様の良き協力者となることでしょう」

と、呟(つぶや)いた。

 中大兄皇子(なかのおううえのみこ)は、実際には腰が抜けるほど驚いてしまった。

 蘇我入鹿(そがのいるか)といえば、現在の大和の国、大和朝廷の最高権力者である。先祖代々、大和の大臣(おおおみ)の地位にある蘇我総本家の嫡男(ちゃくなん)である。父 蝦夷(えみし)を追い出し、大臣、総本家|当主(とうしゅ)の座を奪い取ったとされる男だ。

 学問に優れ、そして残虐である。気に障(さわ)れば、何をされるか分からない、大和朝廷の大臣だ。女王の母でさえも恐れる存在である。

 皇子は、静かに席を立ち、合唱して本堂を後にした。

(高僧は、退室する自分を見守っているのであろう・・・)

 中大兄皇子(なかのおううえのみこ)は、今、振り返ると倒れそうな気がするので、振り返りもせず、粛々(しゅくしゅく)と山門を出て行った。そして、お付きの者に、荷を山門に回すように命じたのだ。

 荷を積んだ、荷車が、牛に牽(ひ)かれて山門前に到着する。

 山門は、まだ開かれている。

 本堂の前には、あの高僧が佇(たたず)んで、こちらに熱いまなざしを送っているような気がした。

 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、荷を山門前に置いていくよう付き人たちに命じ、本堂前の高僧に静かに頭を垂れ合唱した。そして、その場を離れ、帰路に就いたのだった。大海人皇子(おおあまのおうじ)は、寺から出て来た兄の様子がオカシイのを心配そうに見守り、寺の内を眺めるのであった。

 中大兄皇子(なかのおううえのみこ)には、高僧のことばが頭に残る。

「蘇我入鹿(そがのいるか)を殺せ。蘇我入鹿を殺せ!」

とその言葉が何回も繰り返し頭の中で、響き渡るのである。

 最初は高僧が、そして、そのうち命じているのが、聖徳太子に変わり、その後はあろうことか、蘇我入鹿(そがのいるか)の祖父にあたる蘇我馬子(そがのうまこ)まで、参加してくる幻覚幻聴(げんかくげんちょう)となった。

 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が、村を去る時には、寺の僧兵の多くが襲撃された後の村に出ており、屍(しかばね)を一か所に集め、手厚く葬(ほうむ)り、穴に埋め合唱、念仏を唱(とな)えていた。


 宮中に帰った中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、母親である皇極天皇(こうぎょくてんのう)の手前もあり、しばらくは、のんびりと蹴鞠(けまり)を楽しむ日々を送っていた。


 しかし、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺の計画は着々と進められていたのである。


 高僧のことばが頭に残る。

「宮中にも太子の意思を継ぐ者はいます」


 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と、中臣鎌足(なかとみのかまたり)、そして蘇我入鹿(そがのいるか)の従兄弟にあたる倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)、葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)他が、蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺計画を実行することになるのであった。


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