第5話 倭王 蝦夷《えみし》の国の安曇安曇《あずみ》とヌカタ

 北の民、蝦夷(えみし)に捕らえられ拉致された、安曇(あずみ)とヌカタの兄妹。何ごとにも、明るく、我慢強く、目の前のことに対応してゆく。全ての事を笑い飛ばし、困難に執着しない。安曇の対応力で、彼らは、それでなんとか、生きている。


 北の民、蝦夷とは、六~七世紀のころ、関東北部から東北地方にかけて住み,朝廷に服従していなかった人々のことです。

 蝦夷は、大和政権の時代から、東北地方で大きな勢力を持っていたと云われています。言葉や風習も違って、朝廷からは異民族と見られていたようでした。

 蝦夷には,皆の上にたって支配指導するリーダーがいなかったため、数々の集団があり、全体としてマトマリがなく、その各集落の性格も違っていたようです。ただ、共通して、もともと、好戦的ではない、狩猟民族であったと云われております。

 蝦夷には農耕は伝わっておらず、野山で狩猟をして日々の糧としていたため、着る物は大和の国の衣、袴ではなく、毛皮であったと云われております。常に狩猟のための弓矢と短刀を帯びていたので、その為、野蛮で、好戦的に見られがちでした。


 安曇とヌカタの兄妹は、最初は、蝦夷達の奴隷にされ、労力として扱われておりました。近くの河からの水汲みから、そして、皆が狩猟してきた獣(けもの)の皮剥(かわは)ぎと、その肉の調理などをさせられておりました。気絶しそうなヌカタを、必死で支える安曇でした。

「ヌカタ、頑張れや。こいつら人殺しでは無いようやから、オレラは殺されへん」

「一曰。以和為貴(いちにいわく。わをもってとうとしとなす。) や!」

兎に角、安曇(あずみ)は、妹、ヌカタを元気付けようとする。事あるごとに、ヌカタに言い聞かせるのだった。

「生きていれば、必ずあいつらが助けに来てくれる。絶対や!あいつらが助けに来る」

 安曇は、確信が有るようにヌカタに力強く言うのであった。自分にも言い聞かせるように、笑顔で、強く頷きながら‥‥‥

 安曇とヌカタは、着る物は、自分達や蝦夷(えみし)の皆が狩りをして獲って来た獣の皮を剥ぎとり作らされた。皮剥ぎや、ナメシは、妹にはやらせられないので、安曇が全て担当した。衣服に仕上げるのはヌカタが得意であった。そこでヌカタの衣服のデザインは、村の皆の注目を集めた。

 そのうちに、二人は、さらわれ連れて来られた最初の蝦夷の集団の地から、別の集落、蝦夷達の中心的な集落に移された。その地では、最初から二人の大和の国の兄妹の評判はよく、蝦夷のかなりの人々に知られることとなった。二人は、現在の秋田市あたりの蝦夷達の中心的な集落、その村長の家に奴隷として移され、置かれた。

 その村は、前面とされる方に砂浜と海があり、後ろが森となり、そしてその森は、そのまた後ろの山につながり、森の先には高い山々がそびえたっている。河口の口、海沿いの村である。

 村長の名をオンガといった。少し、大和言葉を理解する。安曇との最初の会話は、

「一曰。以和為貴。(いちにいわく。わをもってとうとしとなす。) 」

であった。

 オンガは、聖徳太子(しょうとくたいし)の十七条の憲法を知っていた。

 蝦夷には農耕は伝わっていないので、どこにも田んぼや畑はない。しかし、安曇(あずみ)もヌカタも農耕の方法を知っていたので、森を切り開き、二人だけで、毎日毎日、畑仕事を一から行うことにしたのだった。

 森を切り開き、最初から畑を耕し、作物を育て始めた。そんな二人を村長のオンガは、毎日見守っていたのである。

 勝手に森を荒らす二人に、

「奴隷のくせに!」

と、良い感情を持たない蝦夷の者もいた。二人が造った、畑を荒らされたり、燃やされたり、と嫌がらせも多い。だが、オンガは、その者たちをらしめ、さとし、安曇とヌカタの二人を見守り続けてくれていたのである。


一曰。以和為貴。

いちにいわく。わをもって、とうとしとなす。


オンガは、安曇の口癖、これが気に入っていた。

 その村の蝦夷(えみし)の人々には二人の耕作が珍しがられていた。毎日毎日、田、畑を耕す二人を遠目に眺め、作物が実っていくのを感動を持って見守っていたのだ。そのうちに二人は、村の皆に一目置かれる存在になっていったのである。また、二人は、大和言葉が話せるし、読めるということで、大和の国や蘇我氏との交渉、交易のための通訳として重宝ちょうほうされた。

 そうして、二人の村での立場は、奴隷というよりは、村長の片腕、村のリーダー、学校の先生の様なものに変わっていったのである。

なにごとにも、明るく、我慢強く、対応してゆく、安曇(あずみ)達の生き方。

全てを笑い飛ばし、困難、苦難に執着しない!ことで生き抜いていったのであった。

 飛鳥(あすか)の斑鳩(いかるが)の村が、北の民、蝦夷に襲われ、安曇(あずみ)とヌカタの兄妹が、拉致された。そして一年の時が過ぎようとしていた。 

 オンガという白いひげをアゴにたくわえた初老の男を長とする、この蝦夷の村で、村人達は、安曇(あずみ)達に大和の国の色々な事について教えをうようになっていった。

 妹のヌカタは村の学校、塾の先生のような立場になっていたのであった。村に建てられた木造の簡易な建物。寺小屋か?とも思われる。

 小屋の中には、木材を荒く切り削って組み造られた、長机らしきものが三~四列くらいある。その机にむかって座っている村の子供や若者も、手平サイズの木板に、墨を水で練ったものを筆のような物に着けて、文字らしきを書き付けている。

 長机の前に立つヌカタは、大きな黒板のような木板を背に、生徒たちに大和言葉(やまとことば)や、詩(うた)などを教えているようだ。

 ヌカタが、黒板とおぼしき大板に、白い石灰石の破片で書き付ける。


一曰。以和為貴。


皆で唱和しょうわする。安曇の口癖、オンガ村長のお気に入りの大和言葉。

「いちにいわく。わをもって、とうとしとなす」

 安曇はというと、他の部族や、大和の村人との物々交換の取引の場で、口での交渉が上手く、その交易の交渉成果、利益を村の人々から絶賛ぜっさんされていた。


 安曇は、毛皮姿で弓を持ち、短刀を腰に帯刀(たいとう)して、もとの自分達がいたような大和(やまと)の農村に年貢ねんぐとか、貢物(みつぎもの)を奪い獲りに行く、とは言うものの、実のところ交易、物々交換を行っていたのである。

 山を越えるか、海、川から船で上陸するか。いづれにしても、大和の国の村人は安曇達の姿に恐れおののいた。

 安曇(あずみ)達は決して略奪りゃくだつなどはしない。蝦夷(えみし)の住む山や海でとれた物を、大和(やまと)の国の人の持っている草鞋(ぞうり)とか、鍬(くわ)、釜、土器、そして農作物と交換してもらいに行っていたのだ。

 この度、安曇達の持って行った物は、したイノシシの肉とか、その毛皮などである。それを大和の国の農民たちが保存している小麦とか雑穀と交換しようとしていた。

 大和の国の農民から出された袋の中の穀物を確認して、安曇は言う。

「ちょっと、おっさん!こんだけ?は、ないやろ?もうちょっと出さんかいな!」

と言って腰の短刀に手を掛ける、ふりをする。相手の大和の国の農夫は、両手で待てと合図を出しながら、

「分かった!分かった。かなわんな」

と言って、農夫は棚から、隠し持っていた余分にある穀物こくもつの他、種芋(たねいも)だのなんだの、最初より数多く余計に出してくる。

 安曇はそれを、交換品として受け取って行くのであった。

 安曇は元々、大和の国の農民なので、物の保管場所が何処であるか、そして何処に何が保管してあるか、などは、お見通しなのである。

「おっさん!あそこに、粟(あわ)とかが袋に入ってんで?」

 村人は渋い顔で、その一袋を安曇に渡した。

 このようなことで、すぐに安曇は、蝦夷の村でオンガ村長の片腕的な存在になっていったのである。

 安曇とヌカタの二人は、楽天的な安曇の不屈の努力で運命を切り開いていったのである。最初に拉致され連れていかれた村では、完全に労働力としての奴隷であったのだが、今はそれよりも格段に厚遇こうぐうで蝦夷の村で暮らす事になっていた。

 ただ、ヌカタは、宮中でのみやびな生活、歌詠(うたよ)み等が忘れられず、懐かしく、思い出すたびに、頬に涙が伝うのであった。ヌカタは、皆には悲しみの涙を隠そうとしてはいるものの、兄、安曇には隠せない。

兄だけには、自分の心を見抜かれていたのだ。

 ヌカタは、

(私は、自分は、故郷を懐かしんでばかりいる。兄に対して、申し訳ない)

と思っているのだ。しかしながら、ヌカタは、悲しい時、感情が高ぶる時、自然と歌を詠(よ)んでしまうのだった。


秋の野の、み草刈り葺(ふ)き、宿(やど)れりし、大和の宮処(みやこ)の、仮廬(かりいほ)し思ほゆ

(秋の野の、み草を刈って屋根を葺いて生活した大和の宮処の仮の宿のことを思い出します)


 安曇(あずみ)は、やっとのことで村での信頼と地位、生活を勝ち取ったところであるが、最近気になることがある。

 村長のオンガから、部下を5~6人与えられて、海へ、山へ食料の調達に行く様になったのだが、その場所で、大和、倭(わ)の国の者達とよく出くわすようになったのだ⁉

海においては、

蝦夷(えみし)の海、海岸、川等は、貝も魚も豊富である。彼らはその日、必要な分しか獲らない。

そこは、サメ、フカや、オオトカゲ、ワニなどが出る、危険な場所でもある。蝦夷は、その場所は、先祖からよく聞き、注意されており、大変危険な場所でもあることを承知している。蝦夷達は、よくそれら危険なことへの対処の仕方を知っている。蝦夷達が特に被害に遭うことはないのだが、最近は倭人がちょくちょく入ってきては被害に遭っているのだ。

山であっても同じこと。

蝦夷が仕掛けた罠(わな)に倭人がかかっていることもあれば、オオカミやクマ、イノシシに襲われている場面にもよく出くわす。その出くわす回数が尋常じんじょうになく増えてきたのだ。

 ある時、海辺で安曇たちが、潮干狩りをし、貝を集めている時、倭人たちの乗った漁師船が三隻くらい現れた。素潜り漁(すもぐりりょう)をしているようだ。

周りには、フカや、サメや、シャチの群れが集まって来ている。しかし、それに倭人たちは全く気付いていない。

 安曇は、大きな声で、

「そこに居たらあかん!」

「はよ帰れ!危ないぞ!」

と両手を口に当てて大和言葉(やまとことば)で大声で叫んだ。

 倭人たちは、はなから大和言葉とは思っていないのか、あまり安曇の言葉を理解していないようだ。彼らはその場から去らない。

安曇の警告を聞かない。

シャチの群れは、倭人たちの船をめがけて、どんどん近づいて来ている。

 安曇は、部下に命じて、一斉にシャチの群れを攻撃させた。これに、倭人たちは、蝦夷が自分達を襲ってきたと恐れおののき、船の舳先を変え、急ぎ逃げ去って行った。倭人たちには、蝦夷に襲撃されたと思えたのである。倭人の漁師の船が去った後、海の上には、矢や銛(もり)の突き刺さったシャチ、フカ、サメが、わんさか浮いてきた。

山では、蝦夷の仕掛けた罠に倭人がかかっていることもあり、オオカミが集団で生息している場所に不用心に入り込んで、オオカミ達に襲われたりもしている。

 倭人は、蝦夷にとっては危険な場所であり、あまり入り込んではならない領域にまでズカズカと入って来ている。

「おまえら、そっち入ったらヤバイよ!」

安曇(あずみ)が注意しても聞かない。

倭人たちは、それを無視して数名で尚も進む。中には、挨拶していると間違えて、手を振る気さくな倭人もいる。そのうち、倭人の集団の後ろ、左右にオオカミ達が忍び足で近づいてきている。

「オオカミが来ているぞ~」

 安曇(あずみ)が叫んでも、倭人たちは安曇を指さして笑い顔で、手を振りながら、どんどん森に入って行こうとする。安曇は、部下に命令して、弓矢、銛でオオカミ達へ一斉攻撃をさせた。ここでも、倭人たちは蝦夷(えみし)に襲撃されたと思った。一目散いちもくさんに山を降りて、逃げ去った。

 大和朝廷に、この情報は、

「北の村々では、蝦夷(えみし)に襲撃を受けて、朝廷への貢物が出来ない!」

となって伝わったのである。

 大和朝廷では、早く軍備を充実させ、時機を見て北の地方の制圧に乗り出さねばならない!と考え始めていた。

 大化の改新の一環としても、中大兄皇子(なかのおうえみこ)は、大和朝廷の軍船、軍隊の拡充にも着手し始めていました。




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