第16話 倭王 無限の戦い 天智天皇
倭国、日本の飛鳥時代、朝鮮半島において戦いがあった。
大陸の中国の唐(とう)と朝鮮半島の国、新羅(しらぎ)の連合軍と倭国、日本と朝鮮半島での日本の盟友、朝鮮の百済(くだら)連合軍の戦いである。
唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍に王室を滅ぼされた朝鮮の百済(くだら)での百済復興運動への支援として始まったのが白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)である。
この戦いにおいて倭国・百済復興運動連合軍は壊滅的に敗退したのでした。
日本始まって以来の初めての大敗戦!
これで百済復興勢力は崩壊し、百済の王、褒章王(余褒章・よほうしょう)は朝鮮半島のもうひとつの強国、高句麗(こうくり)へと、亡命したのでした。
倭国、大和朝廷にとっては、負けると分かっていながらの出兵でした。
似たようなことに、この後の日本史では、安土桃山・戦国の時代に、関白豊臣秀吉が負けると分かっていて朝鮮出兵をしております。日本の武将たちの熾烈な戦い、そして負けないまでも撤退をしております。
この時の出兵と倭国の白村江の戦いは少し違っていました。
秀吉の出兵には、中国の明を討ち果たし、世界制覇を目論むヨーロッパ列強、特にスペインに対抗しようとする野心があり、それと、秀吉配下ではあるがスペインの援助を受けて日本国内で勢力を増しているキリシタン大名を戦地に送り、疲弊させようとの目論見もありました。
倭国、日本大和朝廷の出兵は、そんな思惑などなく、大和の王、皇子たちの(困った友人に頼まれたら断らない!)的な出兵だったようです。
もっとも、この時の大和朝廷の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の戦い好きが一番の理由であったかもしれませんが・・・・・・
西暦六六七年
惨敗とみて撤退した大和朝廷は、唐(とう)の海外勢力の襲撃を恐れ、倭国の都を大和の地から、敵の攻撃に対して守るに堅固な地、近江の大津宮に移したのでした。そして、この大津宮において中大兄皇子(なかのおおえのみこ)はついに称制(しょうせい)をやめて、ついに天皇に即位したのでした。
天智(てんち)天皇となられたのです。
そして大和朝廷は、戦いの敗退後、防衛のために、筑紫、大野城の他、大和、高安城、讃岐、屋島城、対馬、金田城などに国土防衛のための城(き)を、続々と築いていったのでした。
唐・新羅連合軍との朝鮮半島での大敗で、日本の各豪族は、朝鮮での利権を失ったのみならず、敗戦によって巨大な損失を
中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、その対応に、万民に受けのよい弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)をあて、彼を政治の表舞台に出し、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、国家改革を矢継ぎ早に敢行していくのでした。
統治制度においては、天皇を中心とした中央集権体制の構築が急がれ、大和朝廷は、わが国初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成します。庚午年籍は、律令制が機能するために必要な物だったのです。
唐の侵攻に備えつつ、課税や徴兵を円滑に行なうためには、人民の数や所在を把握することが必要で、日本の全ての人民を管理する制度を確立しました。しかしながら、余りに急激な数々の改革によって、有力な豪族や人民はどんどん疲弊していきました。
有力な豪族をはじめとし、官僚たちにも、朝廷、特に中大兄皇子に対する不満がくすぶっていたのです。
中大兄皇子は、天智天皇となられた方です。
欲しいと思うものは、どんな事をしてでも手に入れ、やりたいと思うことはどんな手を使ってでもやる、そんな人物だったと云われていました。
大和朝廷内で強大な権力を持っていた蘇我氏(そがし)をクーデターで一族もろとも権力ごと一掃し、自らの母、皇極天皇(こうぎょくてんのう)を操り?というよりは、母、女帝は、政務に全く興味が無かった。そこで中大兄皇子は、天皇と同じ力を持つようになったのです。
自分の妻の父、クーデターの協力者でもある、石川麻呂(いしかわまろ)を自分の権力確立に邪魔であるとし、自殺にまで追い込みました。
ご自分の妻は、気が狂うように憤死したのです。
中大兄皇子の、血で血を洗うような闘争の日々。
身内であろうが、朝鮮の大国、百済(くだら)の王子であろうが、中国の大国の唐(とう)であろうが、戦い続ける中大兄皇子でした。
人や軍団を非情と思える手を使ってでも動かす。
誰が犠牲になろうが構わない。
そして、自身が積極的に参加していく個人戦において、その戦い方は、
両手に剣を持ち、背中に弓を携える。
舞(まい)を舞うように敵を刺し殺し、切り殺してゆく、というものである。
微笑ほほえみながら、なにか独り言のように呟つぶやきながら、
自らの周りを囲む大勢の敵?に対して、真っ先に興奮状態で一人突っ込んで行き、敵の間、合間を駆け抜けて行く。彼の通り行く後ろには惨殺の後が残った。
海戦などや、軍隊戦も一人で戦うのが好みであり、一人乗りの帆船を改造して、波の上を風に乗り、槍(やり)や銛(もり)をもって波間を走り周り飛び回り、軍船に乗る大勢の敵に対峙し、殺戮を繰り返す。
そんな強気の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、白村江の戦いを思った。
(今回は、なぜに負けた?)
弟、大海人皇子(おおあまのおうじ)は思った。
(この戦い、兄がよく撤退してくれたものだ)
大海人皇子は、兄、中大兄皇子の恐ろしさを最も知る人。
その後、兄、天智天皇に政治の表舞台に担ぎ出された大海人皇子であるが、天智天皇歿後に、天智天皇である兄一族との血縁の内での闘いの末、勝利し、天武(てんむ)天皇となられるのであった。
天智天皇の、そして中大兄皇子であられた時からの、残忍とも思える性格は、幼き日から皇族の中に居ながらにして、皇族同士、血で血を洗うような闘争の日々から培われたもの。
中大兄皇子は、少年の頃より皇族同士の戦いに積極的に参戦していました。
その戦い方は、
妄想し、独り言を呟き、微笑みながら人を殺してゆく。
(人を生かしてこそ人の道・・・・・・、人で無いものは生かさぬ・・・・・・)
とか、
(生きとし生けるもの、等しく成仏せい!)など、である。
また、大勢の敵と対峙し、敵を何人も倒した時などは、力強く、
「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)!究竟涅槃(くきょうねはん)!」
と念仏のようなものも唱える。
身内との戦い(殺戮)が終わると、最後に、中大兄皇子は、
「私は、自分の愛する人を、家族を、親族を、傷つけることはしない。しかし、相手が身内であろうとも非情な鬼のような一味であるならば、話は別だ!私は私の大切なものを守るために、やつら、鬼の一味の血を断つ。一族全てを抹殺し根絶やしにする。私に逆らう者は、皆殺しだ!」
などと恍惚と満足感のうちに、静かに、そして力強く一人呟つぶやく事もあったと云う。
中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、少年時代から、武芸の達人であった。
皇子であるから、国一番の武芸者に、訓練されている。長男であるから仕方ない。弟は要領よく逃げ回り遊びまわっていた。
中大兄皇子の身体は、何時の年代であっても、細く、筋肉質。今でいうスマートで細マッチョな体つきである。腕っぷしは強いが、いつも、力まかせの格闘では戦わない。自身の技と武器で勝負する。
それでも日々、過酷な筋トレはつづけているのだ。基礎体力や武芸の能力維持の為である。
中大兄皇子は、自分の戦いに終わりはないと思っているからである。
それに、非常に勉強熱心、というより、興味があることに集中する力があった。兵法、軍略にも非常に良く通じていた。研究熱心な人でもあり、武器開発、発明にのめり込むことが多い。
城攻め、館攻撃の最適の方法を火矢と考え、それを多数大量に一度に放つことが出来る武器を造った事がある。その実験として、叔父一族を炎の中に葬ったこともあった。
この叔父というのは、血縁の無能、非道な叔父である。今でいうと、土地成金になった家の、二代目おバカなボンボン(お坊ちゃま)という感じの人であった。その叔父はいい年をしてもなお、自分の父親に対して、
「僕、凄いでしょ?」
とか、どうでも良い様な小さな事であっても、何度も何度も必死で実の父親にアピールすることだけが、生きていくための
そのうえ、彼は、自分以外の全ての人間は、自分の奴隷だと思っているのだ。
人などは、うまく言いくるめて、金で操って便利に使ってやる。
金さえチラつかせていれば誰でも自分の言うことを聞く!
そう思っているのである。
そして、相手が喜びウレシがるようなことは、絶対にやらない!
それでも、まちがって、ついつい気づかずに、止むを得ず、ほどこし等したものなら、相手はひれ伏して自分にお礼を言わないと怒る。
彼は思うのである。
自分に礼を言わないなんて、そんな礼儀知らずの奴は育ちが悪い。
彼は、勉強も出来なければ、人に対して有益なことなど何もすることはないのだが、自分は、「育ちが良い!」と思っている。
どう育てたら、こんなくだらない人間ができるのか?
いわゆる、人間のクズ!
しかし、居るのだ。この世に絵にかいたようなクズな人間とかは。
それでいて防衛の本能は強い。周りからは、「早く死ね!」としか思われていないのをちゃんと自分で感じている。自分と比べて何もかも、かなわない者で、自分に敵意をもつ者には、相手のスキをつき、いろいろな圧力、誹謗中傷などと手を尽くして相手を弱らせておいて、亡き者にしようとする人でした。
困った人をみたら、勢いづく。
身ぐるみ剥いで、更に困らせ、弱らせる。
彼の父親は、彼のそんな性格は見抜いてはいたのだった。それでも、自分の跡継ぎの座を外せば、野垂れ死ぬしかないこの子に、見て見ぬフリをするしかなかったのです。なんせ、プライドだけは高く、自分以外は、親族であれ誰であれ見下している。そんな、おバカなぼんぼんの見本みたいな人でした。
父親は、よりすぐりの低能な者、無学で礼儀・思いやり為しの最低な部下たちを集め、彼らに息子を預けた。立派な人材では、とても手に負えず、迷惑なはなしだろう?と考えたのだった。
父親が彼に付き添わせたのは、こんなダメ部下と兵士。
弱い者にはとことん強く、強いものには、恐ろしくこびる、恐れおののく。
相手を威嚇して脅すか、草むらに隠れるくらいしか能のない兵士達と、何の考えなく、すべては全力でイチかバチかでしか行動できない愚民を集めたのである。
こんな叔父が中大兄皇子の母が天皇になるのを反対した。
「僕の方がえらいんだぞ!」
と言うのが理由らしい。
中大兄皇子の母だけではなく、中大兄皇子の一族に次々といやらしい嫌がらせをしてきたのであった。
あることないこと、流言、
そのうえ中大兄皇子(なかのおおえのみこ)達を葬り去ろうとしたのだ。
これが、一番のマチガイ。
親族同士の戦いはついに始まった。
中大兄皇子のこの叔父は、父親が制止する説得を聞かなかった。
「今は、自分が家長である!」と強硬し、自分の権力を見せようとした。
叔父は、中大兄皇子一族の屋敷を兵に囲ませたのであった。
中大兄皇子一族を一気に
これも、大マチガイ。
中大兄皇子は、部下、兵士の中から、母を守る兵の数を割り当て、いざというときの逃げ道を弟の大海人皇子に託した。
そして、中大兄皇子は、部下を二手に分けた。一方を館の正門内側に待機させ、もう一方を、裏口から出し、敵の包囲の薄い部分に一点集中で攻撃をさせ敵の包囲の一部を突き破り、館を囲んでいる敵兵たちの後ろに回り込ませたのだった。敵の包囲の後ろを、自分の兵に、さらに囲ませたのである。
中大兄皇子は、自分の兵が、敵の包囲網をその外から囲み終わったのを見て、多少の人数をさき、館の内側から包囲している敵に多量の弓矢を浴びせた。それを合図に、外の味方に太鼓を叩かせ大きな音を出させながら、包囲している敵をその後ろから味方の兵たちに一斉に攻撃させたのだった。
ここで敵は、逃げ道がないことを悟り、必死に戦い始めた。
中大兄皇子は、バカの必死ほど怖いものは無いことを知っていた。
そこで、館の正面の門を開けさせる。
中大兄皇子の考えでは、そこから、叔父一同も館になだれ込んでくると読んでいた。
館の正門が開けられたので、やはり、敵は一斉になだれ込んで来たのだ。
そこで、正門内側に集結していた中大兄皇子の兵は、弓矢、銛、槍などで、入ってくる全ての者を殺しつくしてゆくのであった。
叔父も、軍の大将として、一旦、館正門から中に突入して来たのであるが、館の内での味方の兵の惨状を見ることとなる。また、そこに槍と剣を持ち、美しく舞(まい)を舞うように自分の部下、兵士に
叔父は、それに恐怖を抱き、すぐさま兵達に一斉に引き上げを命じて、外の囲みを突破し、自分の館に我先に逃げ帰って行ったのである。
中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、自身の兵達とともに、叔父の逃げる軍隊に騎馬で追いつき、両脇に並走しながら、叔父の館に一緒に侵入した。
中大兄皇子は、その叔父一族を叔父とともに兵一人もあまさず葬り去ったのだ。
最後に叔父の父親、大叔父は、館の中の広場で、中大兄皇子に土下座して許しを請うた。
ニコリと、微笑む中大兄皇子。一旦は、中大兄皇子は、大叔父は許すかに見えた。
しかし、中大兄皇子は、大叔父を槍(やり)で地面に串刺しにしてしまったのである。
そして、屍に吐き捨てた。
「人でなし、、、というのはお前たちのことだろうな!」
最後に、部下たちに、叔父、大叔父の館に向かって、矢先に火をつけて、一斉に大量の弓を放たせた。一度に三十本もの火矢を飛ばせる機械を登場させたのだ。その攻撃能力の高さに満足気に冷ややかに微笑む中大兄皇子であった。
その後、大和朝廷内でも巨大な勢力をもつ豪族、蘇我氏をもクーデターで倒し、母を天皇に担ぎ出し、自分を頂点とする朝廷、国家を築き上げたのでした。
邪魔者は消す。
欲しい物はどんな手を使ってでも必ず手に入れる。
天皇となっても、毎日、夢の中で誰かを殺し、誰かに殺されるという、終わらぬ戦いを続けていくのでした。
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