第13話 白村江の戦い

 安曇(あずみ)将軍は息絶えた。

 中大兄皇子(なかのおうえのみこ)は、安曇将軍を抱きかかえながら、天に向かってえた。

「なぜにこんなことになるのか⁉」

「この世は、なんで、こんなに無常むじょうなのか?」

「私はいつまで、人とたがえ、戦い続けねばならないのか?」

「私は、何人ひとを殺せばいい?どこに安息の場所がある!どこまで行けばいい⁉」

 中大兄皇子は泣き声交じりで次々と叫び続け、天に問うのであった。

 いつもは非情に人を殺し続け、人を欺(あざむ)き続けた中大兄皇子であるが、幼きころからの友の死、安曇の死はこたえた。


 やっと中大兄皇子は、やってきた時の小舟に安曇将軍の亡骸(なきがら)を抱えて乗り込んだ。

 中大兄皇子は倭国軍の本陣ほんじん、大和朝廷軍の船団に戻るのであるが、それから常に安曇を抱きかかえて離れようとしなかったのである。

 九州手前のなだ近くに、阿倍比羅夫将軍(あべのひらふしょうぐん)ひきいる大船団が、中大兄達を迎えにきていた。

中大兄皇子は、安曇の亡骸とともに、その阿倍大将の指揮艦(しきかん)である巨大戦艦に乗り移る。

 乗り移ってからは、葬儀そうぎ、その儀式ぎしきの段取りを阿倍比羅夫将軍が取り始めたので、中大兄皇子はやっとそこで、安曇の亡骸(なきがら)を安倍臣(あべおみ)に渡し、そして離れた。

 中大兄皇子は、儀式等のこと、亡骸を阿倍将軍に引き継いだのだった。

 ここで、今度は、阿倍臣が、安曇の亡骸から離れないのである。

 阿倍将軍は、自身で、丁寧ていねいに安曇に刺さった矢の矢先を処理し、矢を安曇の身体から抜き取り、身を清め、衣服を着替えさせた。そして何日も食べ物を口にしていない。

 これには、今度は中大兄皇子の方が阿倍臣を心配した。

 とにかく、後は部下に任せるようにと説得し、阿倍比羅夫将軍を安曇将軍から引き離した。

 そして、大船団は、一旦、北九州の本陣に帰国したのである。


 斉明天皇(さいめいてんのう)亡き後、本陣では中大兄皇子(なかのおうえのみこ)、中臣鎌足、(なかとみのかまたり)、大海人皇子(おおあまのおうじ)、そして阿倍比羅夫将軍(あべのひらふしょうぐん)によって、これからの唐(とう)、新羅(しらぎ)連合軍との闘いについて戦略はられた。

 朝鮮の新羅を蹴散けちらすなど訳はないのであるが、大陸、中国、唐との闘いは情報が錯綜さくそうし、また戦力的に倭軍は、かなりおとっているとみられる。

 翌年には唐(とう)・新羅軍(しらぎぐん)との戦いに、そして、百済復興運動(くだらふっこううんどう)の救援にと、大和朝廷(やまとちょうてい)は大船団を組んで百済(くだら)へ戦闘に向かいます。

 倭軍は、大和の国内外を問わず、全ての戦力を投入するつもりであった。


 負けると分かってていても、行かなければならない。

 助けを求める、困る人がある限り戦わなければならい。

 大和の里の絆!

 大和魂!


 指揮官は安倍比羅夫大将軍。

 そして、大和朝廷軍では、ここに百済復興(くだらふっこう)への気運きうんが高まりました。

ところが・・・・・・

 西暦六六三年、百済の王、豊璋王(ほうしょうおう)(余豊璋(よほうしょう))は重鎮であり、百済復興運動のリーダー、鬼室福信(きしつふくしん)と対立してしまいます。

 この王も、日本で、悠々自適ゆうゆうじてき国賓こくひん扱いで育ってきた人で、自分以外の一族が滅ぼされても何の関心もない、しょうもない王だったようです。

 余豊璋は人質としての身分ではありますが、日本では国賓こくひん扱いで三十年も優雅ゆうがに暮らしていたので、苦労してきた百済の家臣たちとは多方面で意見が合わず、彼らの忠言ちゅうげん、叱責などがうとましかったようです。

 余豊璋は、倭国(わのくに)では、一応は人質だったのであるが、今は百済に、王として帰還したのであるから、もっと高貴な贅沢三昧ぜいたくざんまいの華々しい生活ができるとあこがれて、夢見たのでした。

 既に滅亡した国家、しかし、家臣や人民が必死で復興中の国家ですが、余豊璋は一応自分は国家の王として帰還したのだと、贅沢を我慢することはできなかったということなのであろう。

 余豊璋は、賢人で、重鎮じゅうちんの鬼室福信(きしつふくしん)を斬るという大事件を起こしたり、また守るには堅固けんこ要害ようがいの地を質素だと逃げ出して、優雅な贅沢な暮らしをしやすい場所に勝手に移ってしまいます。

 それで敵の新羅軍(しらぎぐん)にやすやす攻撃されたりもしています。

 次第に、それまで重鎮たちが必死に取り戻した領地を自らせばめていってしまいました。


 それでは鬼室 福信(きしつ ふくしん)とは、どんな人であったのでしょうか。

 鬼室 福信は、百済(くだら)の王族・将軍の義慈王(ぎじおう)の父である第三十代武王(ぶおう)のおいである。

 西暦六五五年

 百済(くだら)・高句麗(こうくり)の連合軍は、小国なのにチョコチョコと、ちょっかいを出してくる新羅(しらぎ)に攻め入ります。そんな新羅から救援を求められた唐(とう)は高句麗に攻め入りますが、三度にわたって敗退してしまいます。唐は高句麗を落とせないとみて、先(ま)ず、新羅と連合して、百済(くだら)への侵略を試みました。

 百済(くだら)、義慈王(ぎじおお)の時代の西暦六六〇年

 唐・新羅の連合軍は現在の韓国扶余(かんこくふよ)にあった百済の王城を包囲し、唐の軍人、劉仁願(りゅうじんがん)が、義慈王ら百済王家の一族を捕えたことで、百済は滅亡いたしました。

 唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡した後も、鬼室福信(きしつふくしん)は、旧臣らを糾合きゅうごうして唐、新羅連合への抵抗運動を続けます。

 そして、百済の故都である泗沘城(現・忠清南道扶余郡)の奪還だっかんを試みたのでした。

 鬼室福信は頑強に抵抗し、唐の将、劉仁願の軍を包囲するなどの優勢な戦いを続けましす。

 しかし鬼室福信は、唐の占領軍の将、劉仁願を包囲したときの英雄をスパイとして疑って殺しております。

 その後、鬼室福信は逆に謀反むほんの心があると疑われて余豊璋に殺されてしまったのでした。


 義慈王の子であった余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していました。百済の王族が崩壊した今、鬼室福信らは、大和朝廷に対して、百済復興の旗印とするため、三十年の間、倭国で人質となっている王子の余豊璋を返してもらうこと、それとともに百済への救援軍の派遣を要請したのです。

 この要請に対して、斉明天皇(さいめいてんのう)(中大兄皇子の母)は百済王朝の再建を手助けすることを約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにしたのです。

 そして筑紫への進軍は、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となったのでした。


 王として百済に返り咲いた余豊璋。

 坊ちゃんの、ドングリころころで、お池にはまってさー大変!

 というとこです。


 唐と新羅の連合軍によって百済王朝が滅亡したのですが、元々、王など当てになどしていなかった百済残党の兵たちにおいては、倭国一万余りの援軍を得て、百済復興軍として、百済南部に侵攻した新羅軍(しらぎぐん)を粉砕ふんさいしてしまいました。

 唐・新羅の軍が、百済へ何度となく侵略、攻撃を加えて来ましたが、重鎮たちは見事に、防衛することが出来たのでした。

  かたや、唐・新羅の連合軍は、百済復興軍の抵抗に対して、劉仁軌(りゅうじんき)を将軍とする水軍七千の兵を派遣しました。

 唐・新羅の連合軍は、水路からと、陸路から二手に分かれ攻撃隊を進め、倭国・百済の連合軍を挟み撃ちにし、時期をみて、干満差の激しい白村江(はくすきのえ)近郊におびき出し、干潮のころには、退路が一気に岩肌や砂浜になってしまうところに追い込むのでした。そして小型戦艦を使って、一気に撃滅する作戦をとりました。

 陸を回る部隊は、まずは、百済復興軍の拠点である周留城(するじょう)を落としてから水上部隊と合流する手筈てはずとなっていました。

 陸軍として、唐の孫仁師、および新羅の金法敏(文武王)が将軍となり周留城(するじょう)に向かったのです。

 唐・新羅の連合軍の水軍は、早々に白村江(はくすきのえ)に入り、同じく周留城(するじょう)に向かいました。

 この時、先に唐に投降とうこうし、唐の軍隊に入った、百済(くだら)の王子、扶余隆(ふよ りゅう)が、唐水軍の将軍として参戦していたとも云われております。

 その前に、百済王の同じように、しょうもない豊璋王(余豊璋)は、堅牢な城の住み心地が悪いと言って、周留城(するじょう)を勝手に出て行ってしまっていたので、被害にあいませんでした。

 その運の良さは、天下一品であります。

 そして、無事であった豊璋王(余豊璋)は、倭国水軍に合流したのでした。


 西暦六六三年

 大和朝廷の大船団は、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)に到着。

 そして、そこで百済軍と集結して、倭国、大和朝廷軍を中心に、百済復興軍を組み、唐・新羅の連合軍に戦いをいどむのでした。

 唐の水軍は、先に白村江(はくすきのえ)に入り、上陸を開始した後でしたので倭軍の到着をみて、慌てて、戦艦の陣営をたてなおしております。

 大戦艦は、港から動かせない。

 実際には動かさなかった。

 白村江では、干潮時には大型船は動きが取れなくなることを唐・新羅の連合軍は知っていたのです。わずかな中型戦艦の周りに、小舟を中心に倭軍の数の二倍の数で陣立てを始めました。


 薄く霧が立ち始めました。

 視界がぼんやりとしてきたので、大和朝廷側の戦艦からも、敵軍の様子があまり見えません。

 ただ、近くの百済軍が、余豊璋(よほうしょう)の船を先頭に、景色も見えないままなのに、何の策もないまま、何隻か白村江に向かって行くのでした。

 大和朝廷軍の旗艦船に乗船し、全軍の指揮を取るはずであった中大兄皇子(なかのおうえのみこ)と安倍臣(あべおみ)は、百済軍、とくに百済の王、余豊璋(よほうしょう)の軍行に舌打ちします。

 中大兄皇子は、百済軍の先頭で指揮をする船に向かって、

「あの、バカ息子・・・」

ののしりました。

 安倍臣は、

「そんなにあせってはだめです。相手は陣形を整えて、立て直しております。これから、どう出てくるか?情報がなさすぎるのです。相手の出方が分からなければ危険なのです・・・」

いさめてはいるが、その声など届かない。

 阿倍臣は、ぶつぶつと、百済のバカ皇子の指揮に愚痴を呟いている。


 霧が晴れ、相手の陣形がはっきりと見えてきました。


 余豊璋には、相手方の唐・新羅軍の戦艦に、兄の扶余隆(ふよ りゅう)が指揮する戦艦があるのが見えたのでした。

 百済の王、義慈王(ぎじおう)が家族とともに唐(とう)の首都の長安(ちょうあん)に送られ、拘束こうそくされ、その後、義慈王は病死したのです。百済王子の扶余隆(ふよ りゅう・余豊璋の兄)は、投獄ののちに、あろうことか唐に仕官していたのでした。

 弟にあたる余豊璋は、

「あの、裏切り者が!」

と、百済軍、全軍、そして倭軍援軍までもその方向に突入させていきます。

「いかん!」

と、中大兄皇子(なかのおうえのみこ)と安倍臣(あべおみ)は、叫びながら追いかけるように全戦艦に指示を出します。

 余豊璋(よほうしょう)の船を全速力で追いかけます。

 まるで、百済軍と倭国軍が先を争うように白村江の湾に突入していくのでした。

そして、中大兄皇子は我に返りました。

 気が付いた時には、倭軍、百済軍は、唐・新羅軍に取り囲まれることになっていたのです。

 中大兄皇子、大海皇子(おおあまのおうじ)、阿倍比羅夫(あべのひらふ)将軍は、取り囲んでいる敵艦隊を眺めました。

 敵の将軍は、作戦通り、というように、ニタニタとほくそ笑んでおります。

 阿倍比羅夫将軍は、

「敵の罠にかかってしまった・・・・・・」

と、うめきました。

 中大兄皇子と大海人皇子は、船内に走り、単身での帆船にて出航しようと、武具を用意し出陣の準備を始めました。二人は、単身の帆船で戦いに挑むつもりです。

 阿倍臣は、それをみてなおも嘆きます。

「うっそ~・・・・・・」


 大和朝廷は、昔からの付き合いの深い百済を救うため、百済復興軍の援軍に向かうのでした。

 そして唐・新羅の連合軍と戦うのですが、日本は白村江の戦いに大敗し、壊滅寸前の状態で敗走して日本に帰ってくることになってしまうのでした。

 朝鮮半島の百済を救うために、中国 唐にたちむかった日本初、倭国の大惨敗!


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