第8話  倭王 再会 和以為貴  和をもって貴しとなす

 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は斑鳩(いかるが)村の阿倍(あべ)と、斑鳩(いかるが)の里の寺で、再会した。

 この寺に同行した、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)にしても、再会は兄と同じく嬉しい出来事であった。そして、周囲を見渡し、何か探しているようにもみえた。他に村人で、生き残った者達がいないかを求めていた。安曇(あずみ)やヌカタとかを探していたのである。


 それから、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の二人は、僧たちに案内されるまま本堂の中に入った。

 本堂において、

 お堂を背に僧兵姿の阿倍(あべ)は、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と大海皇人皇子(おおあまのおうじ)と対峙(たいじ)して座る。その周りを僧兵数百人が本堂内脇を固めた。

 何ひとつ物音のしない静粛な世界。

 まず、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が、口を開いた。

「よくご無事で。何より。」

 そして続けた。

「あの村が襲撃された後、弟と、従者とで村中を探した。そしてこの寺にも来た。誰にも会えなかった」

「それで、どうやって生き延びた?」

「他の者は?生きているのか?」

|矢継ぎ早(やつぎばや)に中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の質問攻めである。

阿倍(あべ)は、ゆっくりと合唱(がっしょう)し、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)達に|お辞儀(おじぎ)、挨拶(あいさつ)をして、話を、ゆっくりと始めた。

「皇子(みこ)さま、お久しぶりでございます。お噂(うわさ)だけは、いつも、いつもお聞きさせて頂いております」

と、平伏(へいふく)した。そして阿倍(あべ)は続けた。

「私は、がむしゃらに北の民の蝦夷(えみし)と気が狂ったように戦っておりました。安曇(あずみ)は、私の側(そば)でヌカタを守っておりました。」

 阿倍(あべ)は、一息ついて落胆の様子で言葉を続ける。

「そして、いつの間にか、安曇とヌカタの姿が見えなくなって呆然としておりましたところ、この寺の僧兵隊長に一撃を食らいまして、気を失いました。気が付いた時には、この寺の小僧部屋に寝かされておりました」

そして左手のひらで、本堂の仏像を差し

「それからは、この寺にお世話になっております」

 阿倍(あべ)はなおも続けた。

「この寺の住職(じゅうしょく)、慈道(じどう)様は、少し前に天命を全うされました。安らかでした。皇子(みこ)たちが、蘇我を滅ぼしたことを、あるお方からお聞きになり、何度も何度も、にこやかに頷(うなづ)かれ、満足そうな顔をされておりました」

 阿倍(あべ)の当時を懐かしむような穏やかな顔。

「慈道(じどう)様は、宮中で変が起こったことをお聞きになった時、(直ぐに蘇我の砦を抑えよ!)と、私に命じられました。私は、僧兵五百で蘇我の砦に向かいました」

「兵器を奪い取るため、そして、皇子たちに蘇我が反撃出来ぬようにするための命を、慈道(じどう)様から受けました。私は僧兵を引き連れ、蘇我の砦に直ぐに駆けつけましたが、武具はすべて残されておりましたが、金目のものはすべて奪い取られ、持ち逃げされ、もぬけの空でございました。奴らは野盗などより逃げ足は速かったのです」

 阿倍(あべ)は、感慨深げ(かんがいぶかげ)に、思いをはせた。うっすらと微笑みを浮かべながら。

 中大兄皇子は、

「ところで、村の他の者は?」

と、期待を持って、もう一度、阿倍(あべ)に聞いた。

 大海人皇子も、その返答を聞こうと身を乗り出して、

「安曇殿、ヌカタ殿は?」

と、これ本題とばかりに聞いた。

 阿倍は、頭(こうべ)を垂れ下を向き、ゆっくりと首を左右に振った。そして静かに答え始めた。

「私は、未だに探してはおるのです。あの日、安曇とヌカタは蝦夷(えみし)に馬で攫(さら)われた、と村の生き残った者から聞きまして・・・・・・」

 阿倍は、今度は、頭(こうべ)をあげて、続けた。

「しかしながら、未だ消息も何も分からないままです。いっそ、蝦夷(えみし)の中心にでも攻め込んで問い詰めて聞いてやろうかとも思っております!」

 その阿倍のことばに、中大兄皇子と大海人皇子は、顔を見合わせた。

 二人の考えは同じであり、安倍もまた同じ考えであると感じたのである。

 中大兄皇子は、この大和の国の拡大、安定を確実なものにしたいと、東北の蝦夷(えみし)の制定・制圧と、国外に対抗できるような軍備拡張・増強に腐心(ふしん)していたのである。

 中大兄皇子と大海人皇子の二人は顔を見合わせ、頷き、中大兄皇子は阿倍に願い出た。

「実は、貴殿にお願いの義がある。都の北の地の港にある、大和朝廷の海軍に赴任(ふにん)して頂きたいのだ。出来れば、ここの僧兵千人くらいを、倭軍の兵として引き連れてな」

 中大兄皇子は阿倍の顔色をうかがい、続けた。

「今、その港では軍船、百五十隻以上を造らせておる。何万かの兵とともに、準備出来次第、北の蝦夷(えみし)制圧に臨(のぞ)んでいくつもりだ」

安倍坊は、深く目を閉じ深く考え、暫くしてから、決意したようにその目を見開いた。

「あい、分かり申した。」

と、静かに答えたのだ。

中大兄皇子は、

「承知して下さるのか?」

 阿倍は、中大兄皇子をみつめて、強く言った。

「だから、分かり申した、と言っておる。前の住職、慈道(じどう)様でも喜んで従ったと思いますよ」

と言って、また、深く目を閉じ、静かに瞑想(めいそう)した。

 そして、阿倍は、ゆっくりと目を開き、口を開いた。

「そういえば、そうそう・・・」

と言って、後ろのお堂の書箱から、木片を六~七枚取り出し、中大兄皇子に差し出したのであった。木片、木板には、墨で、お経のような文字が書かれている。

 中大兄皇子は、その木板の束を一枚づつ眺めた。


一枚目

四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。

四にいわく。ぐんけいひゃくりょう。れいをもって、もととなせ。それ、たみをおさむるのもとなり。


二枚目

要在乎礼。上不礼而下非齊。


三枚目

下無礼以必有罪。是以群臣有礼。


そして、四枚目

位次不乱。百姓有礼。国家自治。

ここが、一区切りの様だ。


五枚目

六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。

六にいわく。あしきをこらし、よきをすすめる。いにしえのりょうてんなり。これをもって、ひとがぜんをかくすことなし。


そして、次の木板

見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。

あしきをみては、かならずただせ。・・・


そして七枚目

亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。


となり、最後の木板に書かれていたこと。

无仁於民。是大乱之本也。


 中大兄皇子は、全てを素早く眺めた。そして、最初の一枚からもう一度読み直し、呟(つぶや)く。木板をめくりながら、木板の文字から目を上げ、阿倍に問うた。

「これは?」

 阿倍は、静かに答える。

「住職の慈道(じどう)様がなくなる前に、私に託されました。きっと、あなたがここに来られるから、その時、これをお渡しするようにと告げられました」

 阿倍は、思い出にふけるように、故住職の慈道(じどう)に思いをはせた。そして、中大兄皇子に伝えた。

「聖徳太子(しょうとくたいし)様が|十七条の憲法(じゅうななじょうのけんぽう)を草案(そうあん)された時の下書きだそうです。本編は、蘇我蝦夷(そがのえみし)(入鹿の父親)殿の館にあるとも言われましたが、入鹿殿がなくなられて、蝦 夷殿は、自害(じがい)され、館(やかた)に火を放たれた。その時、すべては、灰となってしまいもうした・・・・・・しかし、原本資料、国記は灰となっても、私たちの心のうちには、残っております」

と言って、阿倍は天を見つめた。

 中大兄皇子は、静かに、感慨(かんがい)深げにつぶやいた。

「一曰。以和為貴。一にいわく。わをもってとうとしとなす。 」

 阿倍も懐かし気につぶやいた。

「一曰。以和為貴。 一にいわく。わをもってとうとしとなす。」

そして、

「たしかに、これだけは覚えておりまするぞ。安曇の口癖ですわな・・・」

 中大兄皇子は、阿倍の感慨深い言葉に気落ちしたように、悲しそうに、安曇を懐かしんだ。

「そうだな・・・・・・あずみ・・・・・・か・・・・・・」

 中大兄皇子は頭を垂れて、再度、阿倍に仕官することを願った。

「すまん・・・この国の為、飛鳥(あすか)の為・・・」

 阿倍は、

「それでは、軍への赴任についてですが、いずれの地に、いつ、赴任するのか?命(めい)を賜(たまわ)りに宮(みや)に参りますので、使いの者を頂ければと存じます。千名くらいの僧兵とともに、お伺いするが、それでよろしいか?」

 中大兄皇子と大海人皇子は、互いを見て強く頷き、立ち上がった。

 阿倍は、額を床につけ、平伏した。

 兄弟二人は、千人以上の僧兵に見守られながら、寺を後にする。


 数日のうち、阿倍は朝廷の使者を寺院で迎えることとなった。

 大和朝廷海軍に入隊する命を請けるために、僧兵千人を引き連れ、斑鳩の宮に出向いて行ったのだった。

 斑鳩の宮では、玉座に、天皇が鎮座されており、左に中大兄皇子が立っていた。

 阿倍は、前庭に平伏して中大兄皇子の奏上(そうじょう)を賜った。

 この奏上(そうじょう)を賜ったことで、安倍は正式に宮中にて朝廷の命を請けることとなる。

 僧兵千人と、朝廷兵士を約五百人ほど従え、越国(現在の奈良北から福井県)に赴任することとなったのである。朝廷での位は、阿倍比羅夫(あべのひらふ)海軍大将軍であった。

 一族を引き連れ、越国に赴任した阿倍将軍は、居(きょ)を海辺の丘の中腹あたり、港近くに構え、さっそく軍船の造船指示にとりかかった。阿倍としては造船技術は不案内であったが、大陸、隋や唐から学んで帰ってきた学生たちが、多く、そこには居た。それに、既に本物の見本が各種、係留されている。

 阿倍将軍は、人の手分けと、作業指示と、進捗管理をすれば良いだけで、あとの造船方法とか工程管理、部材調達等は、専門家に任せていればよかったのだ。そして、 自分は、兵士を集め海事軍事訓練を直ぐに始めたのである。

こちらは、専門である。

 厳しい体力造りから、戦闘技術を磨く訓練、その阿倍の訓練と阿倍自身は兵士たち皆から恐れられた。

 しかしながら、阿倍が最も力を入れて、腐心(ふしん)していたのは新しい兵器造り。

 隋(ずい)や唐(とう)から帰ってきた若者と毎日、新しい兵器の研究開発に励んでいた。

 ここは大和一(やまといち)の港といっても過言ではない。しかしながら古代の港である。海岸沿いの開けた砂浜に簡易的な、木造の桟橋が、幾つか有るだけだ。とは言え、

 軍船を百八十隻も造って並べているので、かなり壮観な眺めではある。

 古代の大軍港。

 軍船は、勿論、木造ではある。一番多く造られているのが木造の帆掛け船であった。帆に風を受けて走る帆船であるが、両側に六本づつの櫂(かい)を持ち、左右あわせて十名以上のこぎ手を有する。また、弓の戦士を二十名くらいは、乗船させられるスペースもあるのだから、かなりの大きさではある。

 そして大陸中国の大型船まで大きく凌駕している、そのクラスの大型木造戦艦も港には、2~3隻停泊していた。そのうちの一隻は大陸から持ち帰ったもの。その他は、それを真似させて造られていたのだ。全ての船が、少しだけ、雰囲気が違う。

 湾の前の入江の中央当たりに、戦闘訓練用の模擬船(もぎせん)が組んである。それめがけて矢を射ったり、銛(もり)を投げつけたりと、小型船などが、周囲をグルグルと周回している。

 小型船は、こぎ手二人に戦士3名が乗船して、矢、銛の攻撃訓練をしていた。そのほかに一人乗りとみられる単騎の帆船がある。帆にイッパイの風を受け、波を飛び超えグルグルと周回し、機動的に動き、胸に帆の柄を紐で固定して、両手を自由な状態にしていのだった。

 そして弓を射る。銛を撃つ。

と機動的、多彩な攻撃の練習をしているのだ。

 実のところ、今でいうウインドサーフィンをして遊んでいるかのごとくで、風と、  波乗りを存分に楽しんでいる様にも見える。

 今は穏やかな海、ゆらゆらと太陽が照り返している。

 皆が爽快な笑い顔である。目が、キラキラと輝いている。



西暦六五七年 夏 

 大兄皇子と大海皇子は、越国の阿倍比羅夫(あぶのひらふ)の軍港の視察に来ていた。

 二人は、小高い山の中腹から湾を眺めるかたちで、阿倍比羅夫(あぶのひらふ)に案内されている。

 港には軍船が多数停泊されているのが見えた。

 二百艘に近い数が、港に停泊しているのだった。

大 兄皇子と大海皇子の二人は、湾の中央の模擬戦艦に攻撃訓練をしている小型船、一人乗りの帆船(ほせん)に心がひかれていたのだった。

 二人とも、その光景を見る目がキラキラと輝いている。

 大兄皇子と大海皇子の二人は、一人乗りの帆船に大変興味をもって、阿倍比羅夫に操縦の仕方を教えて欲しいと、願った。

 阿倍臣(あべおみ)は、二人の熱意が相当なものであったので、その熱意に押されるかたちで浜に降り、一人の戦士を二人に紹介したのだった。

 そしてその他、付き人三名をつけ、阿倍臣は、帆船の小隊長クラスに

「皇子たちに、一人乗りの帆船の操縦の仕方を丁重にお教えするように。くれぐれも事故無きよう、粗相(そそう)の無きよう」

と、命じて、中大兄皇子達には、

「後ほど、我が家によって下され。迎えに来ます」

と言って、その場を立ち去ったのだ。

 波の上を一人乗りの帆船で爽快(そうかい)に走る、中大兄皇子と大海人皇子。

 「スゲー!気持ちええ!」

 大海人皇子は、すがすがしく叫んで、海の上を疾走(しっそう)した。

 中大兄皇子は、

「やっ!」

とばかり、風を真後ろに受け、沖からくる波を飛ぶ。

 大兄皇子と大海皇子の二人は、ともに海の上を一人用の帆船で爽快に走り廻り楽しんでいる。


 先ほど、阿倍将軍から大兄皇子と大海皇子の二人を紹介された戦士と付き人たちは、小舟に乗って、二人を見守っていた。

 隊長クラスの戦士は、

「流石(さすが)に若いな」

と呟いた。他の皆は口々に

「上達が速い(はえー)な!」

「他の奴ら、皆、訓練やめてるじゃないか?」

「そりゃ、あの二人が誰だか知ってるもの、ぶつかって怪我でもさせてみろ、大将に何されるか分かったもんじゃないからな・・・・・・ほら、大将が岬(みさき)の上で、隠れてこちらを見ているよ」

 阿倍臣(あべおみ)は、岬(みさき)の断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)の上の草陰に、うつぶせになって身を隠(かく)して中大兄皇子達二人を見守っていたのである。何か事故でも起こった時には、自分が近くで見ていたとなると、現場責任者として取り返しがつかない事になりそうなので、見て見ぬふり、隠れているのであった。


 そろそろ、夕日の時刻となってきた。西に陽が沈む時分である。

陽が、大陸側に沈もうとする時刻である。

 阿倍臣は、浜に駆(か)け下りて、二人に上がるよう、せかした。


風は、陸から海側に吹き始めた。

引き揚げる頃合(ころあ)いである。

軍事訓練もお開きとさせて、阿倍臣は二人を連れて自宅に戻るのだった。


 阿倍臣の自宅では、湯あみの準備が整っていた。

 湯あみの後、中大兄皇子達二人を招いて、阿倍臣の宅での宴会が始る。

 広い机をかこんで、皆が着座した。

 次から次へと、海の幸、山の幸が運ばれてくる。濁酒(どぶろく)も、振舞われた。

「うまいなー、こりゃ!」

 大海人皇子は、ほろ酔い気分で雄たけびをあげる。

 まだ少年である。酒に酔っては失礼が多いのであった。

 中大兄皇子が、怒鳴り怒れば収まりがつかなくなると思われ、先に阿倍臣が、こっぴどく注意した。なんせ、阿倍臣は、中大兄皇子が刀(かたな)に手を掛けるところを見てしまったのだ。

 昔からの知り合いである。ちゃんと収まる。


 豪華な宴席であった。


 酔いが回らない内にと、中大兄皇子は、阿倍臣に命を出す。

「将軍!来年の春には、蝦夷征伐(えみしせいばつ)に行って頂きたいと思いますが・・・・・・」

 阿倍臣は、強く頷いて答える。

 もともと、そのつもりで準備してきたのである。

 そして、阿倍臣は、宴も頃合いであろうとも考えていた。すると、中大兄皇子は続けざまに阿倍臣に、

「それには、私も戦士として同行させて頂きます」

と言ったのである。

 阿倍臣は、この中大兄皇子の言葉に、むせかえった。

「え?」

かなり驚いたが、続けざまに、

「私も行きます。戦士として、お連れください!」

と、大海人皇子まで言い出したのである。

「え~」

と、困惑する阿倍将軍であった。

 その後、まだまだ、驚愕することは続くのである。

 その度に、阿倍臣の心労は止まらない。

 なんせ、中大兄皇子と大海人皇子の二人は、一人乗り帆船がいたく気に入り、それに乗りたいだけであった。

 阿倍達が最近開発した中で一番危険な戦闘道具でもある。

 阿倍臣は、二人の要請を拒絶が出来ないのは分かっている。しかし、戦闘に付いて来こられても、気が気ではなく困るのである。

(そのうち、一人乗り帆船に、飽(あ)きてくれればよいが・・・・・・)

との安倍臣の願いは空(むな)しく、どんどん二人は一人乗り帆船の操縦を上達させて、のめり込んでいくばかり。

 中大兄皇子と大海人皇子の二人にとっては、軍の視察というより、バケーション状態である。日を追うにしたがい、上達する二人とって、戦闘道具への興味は尽きないのであった。

 戦闘訓練は、日に日に、高度化していくのであった。

 一人乗りの帆船隊で、三角の魚鱗(ぎょりん)の構えで隊列を組み、中大兄皇子は、その隊列の先頭にいる。

 風と波を読み切り、右に左に隊列はうねる。そして、帆(ほ)を胸に縄(なわ)でくくり付け、両手を自由にして、弓の準備をしているのだ。先頭の中大兄皇子に続く 隊員達は、同じ動作をする。もはや、中大兄皇子は切込み隊長になっているようだ。

 中大兄皇子も、大海人皇子も二人とも操縦は、他の兵士より群を抜いてうまくなっている。また、その部隊の統制力もスゴイ。

 中大兄皇子が、弓を放(はな)つや、皆同じ方向に弓を放つ。

 最後には、風と波を利用して、帆船をジャンプさせる。そして小船に体当たりさせるまでに帆船を自由に操っているのだ。どのような局地でも、戦闘を可能にするまでになっていた。帆船隊も、中大兄皇子、大海人皇子、個人もである。中大兄皇子も、大海人皇子も 個人で、かなり武器として凄(すさ)まじく改良されいる。

 それを見る度に、安倍臣の心配は深まり、気を失いそうになるのだった。


西暦六五八年、斉明(さいめい)四年

 阿倍比羅夫(あべのひらふ)将軍は大和の海軍船団を、京都北の港に集めた。そこから、大和朝廷の兵を乗船させ、東北へ出航する手筈(てはず)である。この時の遠征には、百八十艘の船団が阿倍比羅夫(あべのひらふ)によって組まれていた。

 阿倍将軍は、大船団を率いて北の民、蝦夷征伐(えみしせいばつ)に出発するのである。

 兵士、その数は三万。

 向かうは、雄物川河口の齶田(あぎた;後の秋田市)


 蝦夷征伐(えみしせいばつ)へと向かうのである。


 現在の京都の日本海側に位置する港から、まだ陽の昇り始めたばかりの早朝、空はまだ薄暗く、海は暗く波は高い。波の高い荒海に三万人の海軍兵が、百八十隻の大船団で齶田(あぎた;後の秋田市)に向かった。

 古代の木造戦艦(もくぞうせんかん)とはいえ、海行く数は莫大な数であり、その光景は壮大である。

 古代の木造戦艦は、帆に風を受けて進むだけではなく、左右に数本の大きな櫂(オール)を持つ。船内にいる裸同然のこぎ手は、合図によって櫂を漕ぐ。オールを力いっぱい前後に漕ぐ。漕ぎ手もかなりの人数が古代木造船内にいる。


 日本海の荒海(あらうみ)を、古代軍艦の大船団が東北に向かう。

 その戦艦の周囲には、影を潜(ひそ)めるように寄り添う、小型船舶がある。シングルヨットというよりも、一人乗りの底の浅い木の小舟に帆を張った、今でいうボードセーリング、ウインドサーフィンのような帆船を操る戦隊がある。

 隊列を組んで、右に左に蛇行し、荒波をジャンプする。

 大和朝廷(やまとちょうてい)軍の白い衣、袴(ころも、はかま)、そして、腰に帯刀(たいとう)し、胸、胴を覆っただけの簡易な鎧姿(よろいすがた)で、弓をかまえた戦士や、銛(もり)を持つ戦士などがいる。

 そのなかに、大和朝廷の皇極天皇(こうぎょくてんのう)の嫡男である皇子、そして、その弟、大海人皇子がある。

 船団の先頭の旗艦には、大和朝廷の大将軍の阿倍比羅夫(あべのひらふ)がおり、船団の指揮をとる。

全速、前進!

勇猛な大将、阿倍比羅夫が全船団に指示を出す。

ほら貝を吹く音!

鐘の音!

太鼓の音!

出陣の合図である。

船団はどんどんスピードを上げて波をけり東北の方向に進む。

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