第11話  倭王 ついに隋も、百済も滅亡へ 

西暦六六〇年

 そのころの朝鮮半島の情勢は、激しく動きだしていたのである。

 朝鮮半島には、百済(くだら)、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)の三国があった。

 日本と古くから交流があったのは、大国の百済、高句麗であった。

 新羅は、他の二国に押されるかたちの小国に過ぎなかったのでした。

 当時の倭国(わのくに)、日本は、朝鮮半島の南部地域に、任那(みまな)という拠点を築いており、百済と盛んに交流していたのでした。

 一方、大陸の中国は、隋(ずい)の時代から、百済(くだら)にちょくちょく攻撃をしかけており、日本はそのたびに朝鮮半島に援軍を送ってこれに対処していたのでした。

 そして大陸の中国では、一旦(いったん)、中国を統一をしていた隋が世代をおって王室が腐敗(てゆき、反乱軍が、皇帝である煬帝(ようだい)を殺し、ついに隋と、その王室を倒して、唐(とう)を建国したのでした。

そして大陸は唐の時代となっていきます。

 唐の前、中国を統一していた隋(ずい)では文帝・煬帝(ようだい)の治世(ちせい)時に、四度もの朝鮮半島の大国、高句麗(こおくり)遠征を行いましたが、いずれも失敗して敗北しております。

それも、帝国 隋が崩壊していく原因のひとつとなったのでした。

 そこで、それを教訓に、唐(とう)は内政に重点をおき、当初は国力を充実させることだけに努めていました。領土拡大とかを後回しにしていたのです。

そして、国力を充実させた唐は、ついに領土拡大に動き始めてたのである。


 唐は、朝鮮半島において、当初見向きもされなかった小国、新羅(しらぎ)を味方につけて、またしても高句麗(こおくり)遠征を行ったのですが、それでも高句麗(こおくり)が、落ちない、落とせないのを見て、今度は、百済(くだら)を落としにかかったのであった。


しかし唐は、百済をも攻めあぐねる状況が続きます。


 当初、新羅は百済や高句麗に攻められた時に唐に援助を求めています。しかし、この時は、唐は新羅への援軍を断りました。

 唐は、その後、高句麗と百済と対立したため、新羅を支援することにして同盟を結ぶのです。唐は、新羅と連合して、ついには百済を滅亡させたのでした。

 唐と新羅に滅ばされるその時点において、百済の王族は腐敗し、衰退の一途をたどっておりました。

 百済は新羅への侵攻を繰り返しています。

 また、朝鮮半島を大干(だいかん)ばつによる飢饉(ききん)が襲った時には、百済の義慈王(ぎじおう)は飢饉対策(ききんたいさく)を怠り、何も対策せず、国民をないがしろにするどころか、毎日のように豪勢な酒宴を繰り返し、そのうえ、出来損ないともいえる、躾けも教養も受けていない長男、皇太子の扶余隆(ふよ りゅう)、この太子のための宮殿を豪奢(ごうしゃ)・壮麗(そうれい)をきわめる姿に改築工事をしているのでした。

 百済の王朝は、新羅との戦争、宮殿の修復など、国民に負担を強いり、国民をないがしろにし省(かえり)みない、腐敗した王朝となっていったのでした。

 また、義慈王(ぎじおう)の酒乱を諌(いさ)めた賢人の官職の平仲が、この王に投獄されてしまい獄死しております。

 このような百済(くだら)の退廃(たいはい)していく情勢と、防衛力の低下、人 心の離反という情報を、素早く唐は入手しておりました。

 そこで唐は秘密裏(ひみつり)に百済への出兵計画を進めたのです。

 倭国の遣唐使(けんとうし)を洛陽(らくよう)の都にとどめ、百済への出兵を倭国に情報が漏(も)れないようにしておりました。

 それでも、この朝鮮半島と大陸中国の情勢は、大化の改新の真最中(まっさいちゅう)の倭国には素早く伝わり、

 大和朝廷(やまとちょうてい)は、

次には、自分達が唐にやられる!

と、警戒感を高めました。

 唐が、倭国から遠い高句麗(こうくり)ではなく、伝統的に倭国と交流のある百済(くだら)を攻撃したことで、朝廷内に衝撃が走ったのです。

 大和朝廷は、

百済に付くのか?

唐に付くのか?

が議論され、時間なく選択を迫られこととなったのです。

 その当時、百済の王子である余豊璋(よほうしょう)という人は、人質的な扱いではなく国賓(こくひん)のような扱いで、百済の人質として日本に三十年ちかく滞在していたのでした。

ついに百済は唐と新羅の連合により滅亡させられたのです。

 しかし、幸いなことに百済は分権的(ぶんけんてき)な国家体制で、王家など無くなっても、鬼室福信(きしつふくしん)などの百済の臣は、ほぼ無傷で健在だったのです。

 彼らは互いに協力して唐との戦争を継続し、制圧されずにいたのです。

大将であった、しょうもない王室が倒されてしまっただけで、百済の領土は残り、有能な家臣も生き延びて残っていたのです。

 唐の当初からの目的は高句麗討伐であり、百済討伐ではなかった。

唐軍の主力は百済のダメ王朝を潰した後、高句麗へ向かおうとすると、鬼室福信(きしつふくしん)らが百済の復興運動を開始し、唐軍は高句麗への侵攻を妨害されたのでした。

 唐軍の本体は高句麗に向かっていたため、連合国である新羅軍が百済の残党の討伐へ動いたのです。

 しかし、百済は、鬼室福信や僧侶の道深(どうちん)、黒歯常之(こくしじょうし)など優秀なリーダー格の人物が残っておりました。そして、要塞である周留城(するじょう)などは無事であり健在であったために、充分に戦えました。

 それでも、百済の復興運動(ふっこううんどう)を開始した鬼室福信たちは、戦力不足、士気に足りないものを皆は感じていたのです。

 そこで、百済の将軍たちは倭国(わこく)に対し、人質として倭国に滞在している百済の王子・余豊璋(よほうしょう)の返還と百済復興の援軍を要請してきたのです。

 余豊璋王子の返還の要請というのは、百済の義慈王(ぎじおう)が家族とともに唐の首都の長安に送られ、拘束され、その後病死したため、百済の王家の後継者がいなくなってい

たからでした。

 実は後継者の一人の百済王子、太子のあのバカ息子の扶余隆(ふよ りゅう)は、唐に投獄された後に、唐に仕官してしまっっていたのである。


 百済の重鎮(じゅうちん)であった鬼室福信(きしつふくしん)は、軍を率いて、百済再興(くだらさいこう)のために戦い続けていました。

そして、鬼室福信は、

「戦いの旗印(はたじるし)として百済の王子、余豊璋(よほうしょう)を百済に連れて来てほしい」と、その旨の依頼を再三、倭国(わこく)、日本側にしてきたのである。

 斉明天皇(さいめいてんのう)と、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、ついに、百済に援軍を送ることを決意し、自ら朝鮮半島に向かうのであった。この時、弟、大海人皇子は、朝鮮、百済の状勢と、中国、唐の国力から判断して、この派兵に反対していたといわれます。

 しかし、倭国の斉明天皇のもと、大和朝廷は、大国、中国の唐に屈さず、長年交流のある百済の救済をするとして、朝鮮出兵を決意したのでした。

 援軍を送るその前に、鬼室福信の依頼を聞き入れ、王子、余豊璋を百済に護送したのである。護送での軍備装備であるため、とても、唐と新羅の連合軍に太刀打ちは出来ないものであった。軍としての本格的な戦をすることは憚れていた。


 余豊璋を百済に護送したのち、百済復興を支援する目的で、女帝である斉明天皇が自ら軍を率いて、先頭に立ち、飛鳥の宮を離れるという異例の出陣が敢行(かんこう)されることになったのでした。

 これにより唐と新羅を敵に回すことが大和朝廷、倭国軍としてはっきりと決定され、実行されることとなったのです。


西暦六六一年

 倭国軍は難波津より、最前線基地である九州の筑紫へ全軍が向かった。

 大和朝廷は、大将に蝦夷討伐(えみしとうばつ)の東北遠征と同じく船団を組ませた。

 阿倍比羅夫(あべのひらふ)、そして、安曇比羅夫(あずみのひらふ)の二人をたてて、百済救援のための海軍を大船団で送り出すのである。

 九州北の前線基地へ出陣する際には、額田王(ぬかたのおおきみ)によって斉明天皇の代理として兵士たち、大和朝廷軍にむけて詩が詠まれた。


熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな


さあ行こう!という激励(げきれい)の詩であったようです。


 しかし、斉明天皇が出兵の疲れからか、百済出兵の前線基地が置かれていた九州の筑紫(福岡県)の朝倉宮で急死されたのでした。

 倭国軍の船出は悲壮感(ひそうかん)でいっぱいだったのです。

 いきなり総大将が死んだ倭国軍。

 士気は下がり、やる気もなくなったようです。

 兵士たちは混乱しておりました。

 宮の周辺の村で、略奪まがいに遊び歩いたり、館で宴会三昧の日々を送ります。

(余豊璋が百済への土産に天皇を暗殺したのではないか・・・)

などの流言、噓言がまかり通りました。

 噓の噂(うわさ)が蔓延(まんえん)したのです。

 中大兄皇子は、出撃を急がねばならないと感じておりました。日々、倭軍の士気と風紀は下がるばかりです。

 中大兄皇子は、兵たちが宴会をし、略奪や非業な行いをしているところに駆けつけ、その、中心となっていた人物を切りつけ死刑にします。

次々と、自分や、友人、親戚の部下たちを殺していったのでした。弟の大海人皇子でさえころされかけました。

 皆の前で、惨(むご)い殺人を繰り返しました。

見せしめです!

 中大兄皇子からの処罰。

 これには、倭軍の兵士たちも、肝(きも)を冷やしました。

 身体の一部を少しずつ、切り落とすとか、刺していくとか、残酷、惨いのです。

 そして逆らう者は一切いなくなりました。

 軍の規律も守られています。

 出撃に文句など言う者もいなくなりました。

というよりは、早く出陣して、この大将に味方ではなく、敵を殺して欲しいと願ったのです。

 百済復興救援隊の任にあるものは、この状況では味方がどんどん、中大兄皇子に惨殺(ざんさつ)されていってしまう、次は自分ではないか?と、怯(おび)え切っておりました。

「早く、出陣して、戦場に向かいたい!」

と思うようになっておりました。

 斉明天皇亡き後、まずは、中大兄皇子はこのようにして早急に兵たちの混乱を取りまとめます。


西暦六六一年

 斉明天皇は崩御されますが、長男である中大兄皇子(後の天智天皇)は即位することなく皇太子のまま称制(しょうせい)としました。中大兄皇子は、実に20年以上も皇太子のまま執政(しっせい)を行っていたのです。

 なぜ即位するのをそれほど先延ばしにしたのかは、色々な説があります。

 暗殺を恐れていたのではないか?

 乙巳(いっし)の変において蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子、親戚であれ、肉親であれ、殺害してきた人でしたので、殺してやりたいと思う輩(やから)は周りに数多くいました。中大兄皇子の周りには敵が多くいたのは間違いないはないのです。

 天皇を頂点とする政治改革を進めていた中大兄皇子にとって、自身が天皇となり暗殺されたりした場合、大和朝廷、日本の国の体制がまた、元に戻ってしまう。せっかくの改革が何にもならなくなってしまうのでは?

と考えていたのではないか、ともいわれております。


 倭国の大和朝廷、中大兄皇子は、百済王子の余豊璋(よほうしょう)を百済に返還、護送するため、五千の兵と共に余豊璋を百済に送り出しています。

 護送船団の指揮官は安曇比羅夫(あずみのひらふ)将軍。

 そして、中大兄皇子、弟の大海人皇子も、朝廷軍の士気を高めるために同行します。

 朝廷軍の隊員だけでなく、同行する百済の皆も思っております。


敵より恐ろしい味方!


 中大兄皇子、弟の大海人皇子も、蝦夷(えみし)成敗の東北遠征の時と同じ、単騎の帆船での参戦でしたが、帆船は、マストの帆を、銅板でパッチワークのような張り合わせをして防御力を強化してありました。また、船の先端に金属の刃が何本も取り付けられていたりと、補強と改造が施され、進化しておりました。

 余豊璋(のちの百済王 豊璋王)を護衛する、そして百済救済の先遣隊として、船舶百七十余隻で出陣しました。

 現在では、最も近い外国、朝鮮半島。

 羽田や成田から飛行機で、また、博多など九州からは船で、あっという間についてしまうが、当時は、数十日をかけて海を渡らなければならなかった。

 護送船団を多数の大和戦艦で組んだが、余豊璋の乗船した船では、毎日のように宴会が催されていたのである。

 連夜のどんちゃん騒ぎをしているのである。

 安曇将軍(あずみしょうぐん)は、これを、とがめようとも思ったが、中大兄皇子が、

「帰国の祝いの宴(うたげ)であろう」

と、放っておかせたのでした。

 百済(くだら)の重鎮(じゅうちん)、鬼室福信(きしつふくしん)との王子引き渡しの約束の場所は、朝鮮半島の大河、錦江の河口にある百済復興運動の拠点となっている周留城(するじょう)の近く、森の中の小さなお社(やしろ)であった。

 倭の国の護送船団は、海を渡り、やっと、朝鮮半島の大河、錦江の河口が遠くに見えてきた。岸が見えてきたので大和の朝廷軍の皆は、喜びあった。

 目的の半分が達成されたこと、ここまで無事であったこと、後は帰国するのみとの喜びで船中が、沸(わ)いていた。

 兵士達は、戦う前から勝った気になっていた。

 安曇、中大兄皇子が乗った船と、百済王子の余豊璋の乗船した船以外は・・・

 中大兄皇子も安曇も、そして百済軍にいたっても、「これから唐、新羅軍の待ち伏せによる戦闘が開始するかもしれない!」という緊張感と、その用心と備えのために岸辺をくまなく睨みつけていたのである。

 余豊璋と百済軍は、4艘の小舟に分かれて、乗船した。そして、中大兄皇子、大海人皇子、安曇比羅夫は、それぞれ3艘の小船に分かれて乗船し、7艘の小舟は岩だらけの磯、岸を目指した。

 そして、ついに彼らは上陸を果たすのである。

 ここを襲われればひとたまりもない。

と、皆が警戒していたところ、上陸したと同時に、中大兄皇子は、全ての船を密集させて、縄で繋がせた。

 そして、あろうことか、百済の兵士たちがすべて上陸したところを、次から次へと剣と槍で刺し殺していったのである。

 百済の兵士達は、みんな突然のことであり、足場の悪い岩場の磯である。動けない。

 そんな中、中大兄皇子は、舞うように、岩から岩へ飛び移りながら、百済の兵士たちを刺し殺していくのである。

 唖然とする安曇比羅夫と大海人皇子。

 その後ろに震えながら余豊璋王子が隠れる。

 中大兄皇子は、百済兵の死体を、倭国の兵士に、それぞれの船に積ませた。そして、倭軍の2、3名の兵士を船番として磯に遺すことにして、彼らに言った。

「もし、新羅の兵が襲ってきて、この状況を聞かれたなら、唐の兵士にやられた!と、言え。そして、唐の兵士がきたならば、新羅の兵にやられた、と申せ。そして、 まもなく、我々の大将たちはここに戻ってくるであろう、と申しておけ。そうすれば、お前たちは助かる」

 それを聞いた倭軍の兵士たちは、震えながら頷いたのである。

 自分達の安全を気遣ってくれた?のは大変うれしく、頼もしい大将なのだけれど、そのために、それ以上の人間を殺してしまうとは、なんとも恐ろしい人だと思った。 

 そして、兵士たちは、

「皇子が戻られた時の合言葉は?」

 中大兄皇子は少し考えた。よこから大海人皇子が即座に、答えた。

「ハトの鳴きまねを私がしよう。」

 兵士は、頷(うなづ)き、つづいて

「もし、敵が近くに潜んでおります場合は、私がこの、剣を空高く投げまする。」

と言ったのだ。

 中大兄皇子と皆は確認し頷いた。

 中大兄皇子は余豊璋と自分のお供を連れて、安曇将軍とともに磯の岩場を登り、森の中へと進んだ。そして、直ぐに敵に襲われたのである。

 襲ってきたのは、新羅の兵ではなかった。この河口沿いの森にすむ海賊、山賊のような者達であった。

 なんとも、運の悪い連中である・・・


 中大兄皇子にとっては、腕ならし、殺しまくるのは喜びでしかなかった。

 中大兄皇子たちは周りをかこまれたが、蹴散らそうとする自身の護衛の兵をおさえて、後ろにひかせた。そして自分自身で、相手に素手で立ち向かったのである。

 最初に、中大兄皇子は、武器は持っていない。

 襲い掛かる賊の持つ武器を奪いながら、その武器で、相手を殺していく。

 中大兄皇子は、強いし、楽しんでいるのが良くわかる。

「おい、おい、おまえの剣は手入れが悪いぞ。切れ味が悪いと、痛いのがナガ~ク続くぞ・・・」

とか、相手に呟(つぶや)いているのである。

 そして、ダンダン顔がニヤケてきている・・・

 中大兄皇子は返り血を浴び、恍惚の表情にかわっている。

 敵を殺すごとに何かを呟き始めているようだ。

人を生かしてこそ人の道・・・

人で無いものは生かさぬ・・・

生きとし生けるもの、等しく成仏せい!

などである。

 敵に囲まれ、それを何人も倒した時などは、力強く、

「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)!究竟涅槃(くきょうねはん)!」

と唱えている。

 恐怖に駆(か)られて、殺されていなかった賊の二人は走り逃げ去ろうとした。

 そこで、中大兄皇子は、部下に、顎(あご)で弓で殺すように指図をしたのですが、部下の弓矢は外れてしまいました。

「全く、しょうがねーな・・・」

と呟(つぶや)いて、部下から弓を取り上げ、自身で弓を射た。見事に矢は賊を背中から貫(つらぬ)き、倒した。

 そして、もう一人に向かっては、部下の持っていた槍を奪い、遠投したのである。

 これも、見事に逃げる賊を後ろから貫き倒してしまった。

 全員が、瞬(まばた)きもできず目を見張る。

「ふん!」

と、中大兄皇子は鼻で笑って、先に進むよう、皆の歩みを促したのでした。


 そのころ、余豊璋王子の受け渡しを行う約束の場所、森の中の小さなお社(やしろ)では百済(くだら)の重臣、鬼室福信(きしつふくしん)が、王子の帰還を迎える兵士たちを森の中の小さなお社に派遣していた。

 お社に数十人の兵士が固まって集り、休憩を取りながら、王子たちの登場を待っていたのである。

 そこを何者かに襲撃され、皆殺しにあってしまった。

 薄暗い森に、ポツンと建てられた小さなお社である。

 そこへ太陽の光が、数本の束になって、スポットライトのようにお社に射している。

 周りには、短剣が身体に突き刺さって倒れ、絶命している者。

 何処を切られ、刺されたかは分からないが、殺され絶命し、倒れているもの、座り込んでいる者。

 王子受け渡しの約束の場所、森の中の小さなお社の数十メートル前で、中大兄皇子達は、立ち止まった。


「何ということを・・・」

 余豊璋は嘆(なげ)いた。片手の手平を自身の口に当て、涙ぐんでいた。

 自分を迎えに来てくれた兵士たちであろう、と静かに合唱した。

「誰が・・・」

 安曇も、うめいた。

 屍から推測するに、中大兄皇子と同じくらい冷淡に、淡々と殺していったのであろう。

 中大兄皇子は、

「しっ!」

と、皆に静かにするよう、そして身を屈めるよう促し、森のお社(おやしろ)の近く一点を凝視したのだった。敵の冷淡な殺気を感じたのである。

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