第19話 倭国 最大の兄弟喧嘩?内乱 壬申(じんしん)の乱
西暦六七一年 十二月。
大和朝廷をして倭国、日本を国内外ともに律令国家として名を響かせた天智天皇、中大兄皇子(なかのおうえのみこ)は、歿した。
天智天皇は亡くなる前に、それまでの慣例であった同母兄弟相続(母を同じくする兄弟が天皇としての跡継ぎ)という慣例から,父子の直系相続に限るという皇位継承(こういけいしょう)方法に変える詔(みことのり)を出された。
天皇の後継は、世間一般が思い願っていた、中大兄皇子の弟、人望厚き大海人皇子(おおあまのおうじ)から、育ち悪き無能な息子である大友皇子(おおとものおうじ)となったのである。 *あくまでもフィクションです!
朝廷の内、とくに天智天皇に不満をもっていた豪族たちは、天智天皇が亡くなる前に、吉野離宮に逃げて中大兄皇子の殺意から避難し、出家していた大海人皇子を頼ったのでした。そして、彼を大和の国の大王、倭王として援助・支持したのでした。
天智天皇が崩御した後も、中大兄皇子を前々より支持したていた豪族たちを味方につけていった大海人皇子は、図らずも、六七二年、天智天皇の息子であり跡継ぎとされた大友皇子の近江軍と対決することとなり、勝利を収めるのです。
これが古代日本における最大最古の内乱、『壬申の乱』です。国を二分しての戦いとなったのでした。
西暦六七二年
吉野離宮の大海人皇子のもとへ緊急事態の知らせが届けられました。
「皇子さま、大津宮、近江の朝廷、大友皇子が父の天皇(天智天皇)の陵(みささぎ 墓)を造ると言うことで、美濃と尾張の農民の多くをかき集めて、しかも、彼らに武器も持たせて訓練しているということです」
それを聞くや、大海人皇子は、
「向きの陵を造るという目的を掲げ、実は、自分の軍を整備・拡張しているな」
というのであった。
「また、大津宮から飛鳥にかけて朝廷側の見張りが置かれて、さらに、この吉野への食料を運ぶ道を封鎖しよう、
と密告者はいうのです。
吉野離宮の大海人皇子への兵糧攻めの準備でもあります。
いよいよ、朝廷、大友皇子は大海人皇子を潰しにかかったということです。
この時、大友皇子の妃となっていた、大海人皇子(おおあまのおうじ)と額田王(ぬかたのおおきみ)の子、娘の十市皇女からも朝廷の動きを父、大海人皇子に伝えてきておりました。
大海人皇子は、ついに自分の身に危険が迫っていることを感じました。
「直ぐにでも、この吉野を出て、大友皇子の朝廷側、大友軍と戦う準備をしなければならんな」と決心したのです。
大海人皇子は、まず、吉野離宮から美濃への脱出を決行したのでした。
当時、美濃などの東国の豪族は、戦闘能力がズバ抜けていたと言われており、彼らにいち早く目を付けたのが大海人皇子でした。
吉野で隠棲していた大海人皇子は、少数の従者を伴って吉野を発つと、一目散に美濃に向かいます。
大海人皇子は子の草壁皇子,忍壁皇子,そして
美濃・不破道(ふわのみち)は、当時東国への出入口となっており、ここを押さえることで、今後の戦いでは大海人皇子が優位となるのです。
大海人皇子は、東国に向かって東遷、二日にして、伊賀・伊勢・美濃の三国を掌握したのです。
大海人皇子が不破道を押さえたことの価値は計り知れませんでした。
のちに大友皇子も東国の豪族の取り込み工作を行ないましたが、大海人皇子軍に阻止されてしまいます。
大海人皇子は事実上、東国の豪族たちと同盟を結び、勝利への準備を整えました。
敵の待ち伏せや、襲撃の危険を承知した上で、数少ない従者とともに、不破道への道を三日間という短期間で踏破したのです。
この大海人皇子の勇気と決断力が勝利を引き寄せたと言えるのでした。
大海人皇子の作戦。
それは、額田王との間にできた息子の高市皇子(たけちのみこ)、四姉妹の長女、讃良の姉との間にできた息子の大津皇子(おおつのみこ)らを、人質となっている朝廷の都、大津京から脱出させること。
それと東国の豪族(美濃,尾張,三河から甲斐,信濃)の兵を多く味方に集めることでした。
西暦六七二年
六月、
「大海人皇子の息子、高市皇子の大軍隊が来たぞ!」
と大声で叫ばせながら、飛鳥寺の西にあったとされる朝廷軍の陣営に向かわせたのでした。
これを聞いた寄せ集めの朝廷軍の兵たちは、慌てふためき、散り散りになって逃げていったというのです。そこへ大伴の軍は、たった数十騎の兵で攻め込んで、大勝利したのでした。
また,大伴吹負は、攻め込む前に、朝廷軍の武器庫の役人を巧みに騙して、呼び寄せ殺害し、その武器庫にあった武器を全てまんまと手に入れたのです。
こうして大伴吹負は、飛鳥古京をいとも簡単に占領してました。
これを聞いた大海人皇子は、腹の底から笑い、大いに喜び、
「大伴吹負、さすがの切れ者。みごとな働き!」
と、自分達の軍隊の将軍に任じたのです。
大友皇子の近江朝廷は奪われた飛鳥古京を奪い返すため、河内方面と奈良方面の二方面から飛鳥に向け大軍を送り込んだ。
朝廷側にとって飛鳥(あすか)の地は特別に重要なところである。
白村江の戦いの敗戦前までは、かつての都であった場所であり、多くの豪族や皇族がいる。
大和朝廷発祥の地、始まりの地でもあり、数々の皇族が生まれ育った場所である。
ここを奪い返すのは最優先のことであった。
この年の七月、大伴吹負将軍は奈良県北部の乃楽山(ならやま)を越えて大津宮に進軍することを考えていた。しかし、途中で朝廷軍が大阪難波方面や奈良から攻めてくるという情報が入ってきて、直ちにそちらに兵を向かわせたのである。その主要な三街道に伏兵をし、進軍を阻ませ、街道を守らせたのである。
大海人皇子たちは、加太(かぶと)峠を越えて、都を脱出し、黄河を超えてきた高市皇子と合流して、伊勢に入ります。
伊勢には頼もしい味方もいるので大変安心できる処でした。
畿内から東国への脱出は成功となります。
鈴鹿(すずか)道と不破(ふわ)道は交通の要所であり、ここをおさえることで都と東国とを遮断(しゃだん)しました。大海人皇子に味方した兵たちでこの二か所を完全に確保したのです。
そして、大海人皇子は、不破関の近くに前線本部を置きました。
その最高司令官は大海人皇子の子、高市皇子(たけちのみこ)です。
大海人皇子の軍は三重郡家(みえのこおりのみやけ)から朝明郡(あさけのこおり)を通り、そして桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)にたどり着きます。そして、一旦、高市皇子の進言によって,桑名にとどまっていた大海人皇子は前線本部のある不破(岐阜県不破郡関ヶ原)へ向かいました。
大海人皇子は、前線本部のある不破の近くの野上に、尾張地方の支配者であった尾張氏の私邸を借りうけて、そこを仮の宮としました。
そしてついに、美濃の本陣から大きく二手に分かれて出陣(しゅつじん)したのです。
琵琶湖東岸を大津京に向かう部隊と、これらとは別に琵琶湖西側を大津京に向かう部隊の二方向からの攻撃をしかけようとしたのです。
最大の決戦地となったのは大津京へ入る為の瀬田川に架かる瀬田橋。
瀬田橋の東側に大海人皇子軍が布陣。
橋の西には、大友皇子率いる朝廷軍が構えた。
どちらの軍も後方が見えないほどの兵の数だ。
と日本書紀は言う。
決戦が始まります。
両軍の弓を構えた兵たちは一斉に矢を放つ。
それらの矢がどちらの軍勢にも雨のように落ちてくる。
放たれる矢が数少なくなったころ合いに、大海人皇子の軍は突撃を開始した。
そんななか、朝廷軍は、橋の中程に罠を仕掛けていた。橋の板をはずして渡ってくる敵を落とすという落とし穴を仕掛けていたのだ。
しかし、大海人皇子軍の数人の兵士が、リーダーである大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)とともに突撃開始。
「今だ!橋を突破するぞ!」
とは言いながら、ゆっくりと橋を渡りだしました。彼らは橋の途中にある落とし穴の罠を見破っており、その穴の位置を正確に確認し後続してくる味方に分かるように
東国から遠征にきた軍隊のその勢いは、台風さながら強力なもので、寄せ集めの朝廷軍はついに総崩れとなりました。
橋での決戦は村国男依らの大海人皇子軍が朝廷軍を破り,大海人皇子軍は瀬田川を渡り大津京へ向かったのです。そして大海人皇子軍は粟津岡(あわずのおか)に陣を置きました。
大友軍は、大海人皇子との戦いに各地で破れ、山前(やまさき)へ敗走すこととなります。
そして、ここにおいて大友皇子は首を吊り、自害するのでした。
二十五歳の最後でした。
逃亡していた近江の重臣だった大友軍の者たちは次々と捕らえられ、八名が死刑となった。
「壬申の乱」(じんしんのらん)は、朝廷内において天智天皇の歿後、後継の覇権争いとして勃発しました。国を二分して戦う、古代における最大の日本国の内乱となったのです。
大海人皇子は、東国の豪族などを味方に付け、各地で勝利を収め、敗れた大友皇子が自害したことで壬申の乱は終結しました。
勝利を収めた大海人皇子は、天武天皇(てんむてんのう)として即位し、天皇を中心とした中央集権的政治構造を確立し律令国家の基礎固めをしたのです。
それは、聖徳太子、山背大兄王、そして兄、天智天皇たち倭王の夢でもありました。
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