第20話 持統天皇 仲睦まじき愛妻

 持統天皇(じとうてんのう)とは、大海人皇子(おおあまのおうじ)の妃(きさき)、讃良(さらら)、その人のこと。

讃良さららは、天智天皇となられた中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の娘であり、中大兄皇子の弟である大海人皇子の妃であり、後に大海人皇子が日本内戦を勝ち抜き、天武天皇てんむてんのうとなられた折に皇后となられた方です。

持統天皇じとうてんのうは、日本においては、祖母、斉明天皇さいめいてんのう(中大兄皇子、大海人皇子の母)に続く女王です。

 讃良さららは、飛鳥時代の大和朝廷の絶対権力者、豪族の蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺というクーデターを実行した天智天皇(中大兄皇子)と、やはりそのクーデターに加担した祖父である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の娘、遠智娘(おちのいらつめ)の間に生まれた娘でした。

前述もしてありますが、蘇我入鹿そがのいるか暗殺というクーデターは、乙巳(いっし)の変といわれております。大和朝廷では絶大な権力をもっていた蘇我入鹿そがのいるかは、中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子(ふるひとのおうえのおうじ)を自分達の傀儡の天皇にしようと、六四三年、朝廷内で自分達、蘇我氏一族を批判していた最も有力な後継天皇と見られた山背大兄王(やましろのおおえのおう)を夜襲し、王や妃妾らを自害させました。

 ところが今度は自分が乙巳(いっし)の変で、中大兄皇子や、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に暗殺されました。その三ケ月後には蘇我氏の傀儡天皇、古人大兄皇子も謀反の疑いでこれまた中大兄皇子に討たれています。

 さらに四年後の六四九年には、時の右大臣、蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子の暗殺を企てているという密告があり、中大兄皇子らの朝廷勢力により、斬首十四人、絞首九人の処刑が行われたのです。石川麻呂は乙巳(いっし)の変、入鹿殺害というクーデターで中大兄皇子の味方になった人であり、中大兄皇子の妻の父にもあたります。讃良(さらら)、持統天皇にとっては母方の祖父でもあったのです。母は、夫である中大兄皇子に父親一族を殺され狂い死にしたといわれています。

そして六五八年には先帝の息子、有間皇子の謀反計画が発覚したということで、中大兄皇子は有馬皇子を絞首刑にしました。

 讃良、持統天皇は、その父、息子、孫の代まで、血肉を争う思惑と権力闘争により倭王として生き抜いていくことになります。

 互いに血縁関係、親族である皇族と重臣たちが入り乱れ、密議と裏切りが繰り返されたのです。

誰が味方で誰が敵なのか?

はっきりしているのは、それは絶え間ない血の抗争であった。そのような中、父である、中大兄皇子は、日本史上初の大惨敗となる朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いの後、飛鳥、大和の里から遷都を行い、ついに大津宮にて天智天皇となったのでした。そしてその後、わずか四年で亡くなることになるのです。


 持統天皇となる讃良さららの結婚とは、讃良さららの父親の天智天皇(中大兄皇子)が、実の弟の大海人皇子の妃、額田王(ぬかたのおおきみ)を手に入れようと、その交換条件として自身の娘、姉妹四人とも、弟、大海人皇子の妃にした、というのでした。

十三歳の讃良さららは思うのです。

(なんで、姉妹四人が一緒に叔父さんのお嫁さんにならなくてはならないの?父上が、叔父さんの奥さんを欲しいからって、自分の子供、姉妹四人と交換なんて・・・)

しかし、この父、中大兄皇子(天智天皇)と、叔父、大海人皇子とその妻となった額田王、それに大和朝廷軍の将軍は、幼きころより供に血みどろの世の中を戦い、渡り歩いてきて、此処にあることを讃良さららは知っております。

(誰も計り知れない関係が有るのだろう?)

と思うのでした。

讃良さららは、十三歳で叔父の大海人皇子(おおあまのおうじ)に嫁ぐことになります。讃良さららは、この叔父、大海人皇子が大好きでした。父、天智天皇とは違い人間味に溢れていたからです。しかし、叔父は、額田王のことが忘れられないうえに、自分と比較すると、年上である姉ばかり寵愛するようにもみえます。讃良さららは、戦場であろうと、支配地であろうと、政務処であろうと積極的に何処へでも大海人皇子にべったりとくっついて行くのでした。そして、十七歳で草壁皇子(くさかべのおうじ)を出産しました。


 讃良さららの父、中大兄皇子が天智天皇となられてから、日に日に身体を壊して床に臥せがちになってしまいました。父、天智天皇は自分の夫であり、また自身の弟である大海人皇子ではなく、自身の息子、太子である大友皇子(おおとものおうじ)を太政大臣につけて天皇として後継ぎにする意思を見せたのでした。実の父と夫とが、心の底からやみの対立を始めたのでした。

 大海人皇子は表立った争いごとを避け、また、自身の身を兄から守るために出家し、母が大切にしていた吉野離宮に隠棲することを選びました。

讃良さららは夫を支えるべく草壁皇子とともに秘密裡に吉野に同行します。

そして讃良さららは思いました。

(これでよかったのだ!夫が、父の病床の見舞いに行った折、後を継いで天皇になってくれという申し出を受け入れていたなら、夫は父に殺されたであろう!?)

 数ある大海人皇子の妻のなかで、吉野まで同行したのは持統天皇、讃良さららだけだったと伝えられております。姉妹も誰もついては行きませんでした。しかし讃良さららは、大海人皇子を独占できたことが本当に嬉しかったようです。

西暦六七一年、天智天皇が病のため歿した。

翌年、大海人皇子は天智天皇の子、大友皇子が天皇の跡継ぎになることに反発する勢力におされ壬申の乱を起こしました。それは国内を二分した、古代日本、最大の内乱となりました。そして、兄、天智天皇の息子、大友皇子が山前(やまさき)にて首吊りの自決したことをもって内乱は終了したのです。

 大海人皇子は、母、斉明天皇の住まわれていた自分の実家でもある岡本宮、その近くに飛鳥清御原宮(あすかきよみはらのみや)を建てて、天武天皇として即位します。この時、大海人皇子の妃、讃良さららは皇后となられたのでした。

天武天皇は、兄たちとは異なり、穏やかに改革を始めたのです。


六七三年に夫、大海人皇子が天武天皇として即位し、讃良さららは皇后となりました。息子の草壁皇子は皇太子となり天皇の後継者となりました。やがて天武天皇は病気がちになり、息子の草壁皇子と、妻、讃良さらら皇后に政務を共同でするよう願いました。讃良さららは、政治にくわしく、大変興味を持っておりました。そして、そのさばき方も大変うまかったのです。なぜならば、生まれながらの勝気な気性の所為もありますが、大海人皇子を独占したくて一緒に度々政務所での重要会議にも出ていたのです。大変多くの色々な経験を積み上げていたのです。


讃良さらら、その後の持統(じとう)天皇といえば、父、天智(てんち)天皇がその弟、自分の夫である大海人皇子(おおあまのおうじ)から奪い取った妻、額田王(ぬかたのおおきみ)とならんで、歌が有名です。百人一首にも収められていますが、万葉集の歌が有名でもあります。


春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたえ)の 衣(ころも)干したり 天の香久山(あまのかぐやま)。


 当時は夏になると白い衣(布)を干す習慣があったのでしょう、香久山に映える白い衣を目にした持統天皇が、夏の到来を感じて詠んだといわれます。

 香久山の新緑と白い衣の鮮やかな対比が初夏の光を感じさせ、躍動感あふれる雰囲気を醸し出している。

この歌から漂ってくるのは、静かで平和な村の姿と、里人たちの平穏な暮らしぶり。

現実の生涯は、讃良さららこと、持統天皇が生きたのはそんな生易しい、悠長な時代ではなかった。

生と死が隣り合わせの日々。

少しの油断で暗殺され、明日をも知れぬ運命となる。

父にしろ、親族にしろ、誰が味方なのか分からない。

権謀術数が渦巻く時代。

讃良さららは、日々の苦痛を辛抱強く耐え続け、兎に角、英知を絞り、敏感に運命に対応した。

夫、大海人皇子、天武天皇の影響も大きく受けております。

人に対し愛を持って接した。

人への愛を忘れず、優しさを忘れず、人を恨まず、そして自身、強く生き抜き、皇后、女性天皇(女王)、上皇として生涯を駆け抜けたのでした。


 讃良さららが、その後の持統(じとう)天皇となった時、自らの子、草壁(くさかべ)皇子を溺愛しており、その子を天皇にしようとされておりました。

 前述しておりますが、讃良さららの結婚は、父親の天智天皇(中大兄皇子)が、実の弟の大海人皇子の妃、額田王(ぬかたのおおきみ)を手に入れようと、その交換条件として自身の娘、姉妹四人とも、弟、大海人皇子の妃にしたのでした。

讃良さららは、十三歳で叔父の大海人皇子(おおあまのおうじ)に嫁ぐことになりましたが、叔父、大海人皇子が大好きでした。しかし、大海人皇子は、額田王のことが忘れられないうえに、自分より年上である姉ばかり寵愛するようにもみえました。讃良さららは、戦場であろうと、支配地であろうと、政務処であろうと積極的に何処へでも大海人皇子にべったりとくっついて行くのでした。そして、十七歳で草壁皇子(くさかべのおうじ)を出産しましたのでした。

そんな折に、大海人皇子、天武天皇の第三皇子(母は讃良さらら、持統ではない、讃良さららの姉の子)、大津皇子の謀反事件が起きました。天武天皇の嫡子として器量・才幹が抜群といわれ、世評の高かった皇子は捕らえられ、自害したのでした。誰が背後で謀ったか?大化の改新以来、同族の内、同種の事件が延々と繰り返されている。誰かのはかりごと。

大津皇子の姉、大伯(おおく)皇女は、弟との別れに歌を残した。

万葉集にも残る。


わが背子を大和へ遣ると さ夜深けて 暁露にわがたち濡れし


六八六年、大海人皇子こと、天武天皇は歿しました。

 そして讃良さらら皇后は、およそ二年間、父、中大兄皇子が行ったように、称制(しょうせい)をして政(まつりごと)を行います。天皇の位につくはずの自分の息子、草壁皇子も、即位直前の六八九年に病死してしまいます。草壁皇子の息子、軽皇子(かるのみこ)もまだ七歳と幼かったため、讃良さらら皇后は自らが天皇となることを決意しました。讃良さらら皇后は、夫、天武天皇が歿後、すぐには即位せず政務を執ることとなる。実子の草壁皇子の成長を期待していたのだった。しかし、草壁皇子は急逝してしまいました。

六九〇年になって、自身が持統天皇として即位します。

その後上皇になって、七〇三年に亡くなったのであった。


讃良さらら皇后は持統天皇に即位後、まず藤原京の建設にとりかかります。

 藤原京は中国の都造りにならうというか、真似て、碁盤の目のような配置の都城で、のちに平安京、平城京のモデルにもなったものです。

六九六年には持統天皇は孫の軽皇子に皇位を譲りますが、まだ若い天皇を支えるべく、日本初の太上天皇(上皇)として政権をともに動かし操ります。

  持統天皇は、夫である天武天皇も、息子の草壁皇子も亡くなったため、しかたなく天皇の座についたのではありません。彼女自身がたいへん有能な政治家でした。父親の中大兄皇子が、中臣(藤原)鎌足と政治の相談をしている時から、そして夫、大海人皇子が天武天皇になってからも、国の政策を興味深く聞き、自分なりに意見までもされておりました。

 即位前年には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定を行ったほか、天皇家中心の政治から、貴族や豪族を積極的に大臣に採用し、天皇を官僚が支えるという、官僚政治の元をつくりました。それに採用された藤原不比等らは天武天皇より制定が命じられていた大宝律令を、持統天皇の指導のもとに編纂し完成させました。日本初の制度や法律を規定し、日本は法律に基づく律令国家への道を歩みはじめます。

持統天皇は夫であった天武天皇の神格化もいたしました。

万葉集は持統天皇の時代に編纂が始まりました。

 万葉集は歌による「王権」(天皇家)の歴史、いわば「皇位継承の歴史」を明確化するために編輯されたと言われます。讃良さららである持統天皇は、夫、大海人皇子である天武天皇を「神」として祭り上げることで、それまでの夫に対する敵対した悪評をすべて帳消しにしたかったのである。

 とりわけ柿本人麻呂による挽歌では、天武天皇が「神」とされ、地上の創始者とされている。このことに注目すると、これには持統天皇の意を汲んだ柿本人麻呂によって生み出された創作であり、天皇の神格化は万葉集において、はじめて見られたものであり、持統天皇と柿本人麻呂によって作り出されたものと思われるという。今に言う、忖度(そんたく)。


持統天皇は、上皇となって若年の孫の文武天皇(もんむてんのう)を後見した。

西暦七〇二年 持統天皇は歿する。五十八歳であった。

そして最愛の夫、大海人皇子、天武天皇の眠る、檜前大内陵(ひのくまおおうちりょう)に合葬されたのでした。

 仲睦まじき夫婦は、歴代の倭王とともに困難な時代を共に生き抜き、日本の律令制度の基礎、国の基礎を作り上げた、といわれる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

倭王 waoo 横浜流人 @yokobamart

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ