第20話 持統天皇 仲睦まじき愛妻
持統天皇(じとうてんのう)とは、大海人皇子(おおあまのおうじ)の妃(きさき)、讃良(さらら)、その人のこと。
前述もしてありますが、
ところが今度は自分が乙巳(いっし)の変で、中大兄皇子や、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に暗殺されました。その三ケ月後には蘇我氏の傀儡天皇、古人大兄皇子も謀反の疑いでこれまた中大兄皇子に討たれています。
さらに四年後の六四九年には、時の右大臣、蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子の暗殺を企てているという密告があり、中大兄皇子らの朝廷勢力により、斬首十四人、絞首九人の処刑が行われたのです。石川麻呂は乙巳(いっし)の変、入鹿殺害というクーデターで中大兄皇子の味方になった人であり、中大兄皇子の妻の父にもあたります。讃良(さらら)、持統天皇にとっては母方の祖父でもあったのです。母は、夫である中大兄皇子に父親一族を殺され狂い死にしたといわれています。
そして六五八年には先帝の息子、有間皇子の謀反計画が発覚したということで、中大兄皇子は有馬皇子を絞首刑にしました。
讃良、持統天皇は、その父、息子、孫の代まで、血肉を争う思惑と権力闘争により倭王として生き抜いていくことになります。
互いに血縁関係、親族である皇族と重臣たちが入り乱れ、密議と裏切りが繰り返されたのです。
誰が味方で誰が敵なのか?
はっきりしているのは、それは絶え間ない血の抗争であった。そのような中、父である、中大兄皇子は、日本史上初の大惨敗となる朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いの後、飛鳥、大和の里から遷都を行い、ついに大津宮にて天智天皇となったのでした。そしてその後、わずか四年で亡くなることになるのです。
持統天皇となる
十三歳の
(なんで、姉妹四人が一緒に叔父さんのお嫁さんにならなくてはならないの?父上が、叔父さんの奥さんを欲しいからって、自分の子供、姉妹四人と交換なんて・・・)
しかし、この父、中大兄皇子(天智天皇)と、叔父、大海人皇子とその妻となった額田王、それに大和朝廷軍の将軍は、幼きころより供に血みどろの世の中を戦い、渡り歩いてきて、此処にあることを
(誰も計り知れない関係が有るのだろう?)
と思うのでした。
大海人皇子は表立った争いごとを避け、また、自身の身を兄から守るために出家し、母が大切にしていた吉野離宮に隠棲することを選びました。
そして
(これでよかったのだ!夫が、父の病床の見舞いに行った折、後を継いで天皇になってくれという申し出を受け入れていたなら、夫は父に殺されたであろう!?)
数ある大海人皇子の妻のなかで、吉野まで同行したのは持統天皇、
西暦六七一年、天智天皇が病のため歿した。
翌年、大海人皇子は天智天皇の子、大友皇子が天皇の跡継ぎになることに反発する勢力におされ壬申の乱を起こしました。それは国内を二分した、古代日本、最大の内乱となりました。そして、兄、天智天皇の息子、大友皇子が山前(やまさき)にて首吊りの自決したことをもって内乱は終了したのです。
大海人皇子は、母、斉明天皇の住まわれていた自分の実家でもある岡本宮、その近くに飛鳥清御原宮(あすかきよみはらのみや)を建てて、天武天皇として即位します。この時、大海人皇子の妃、
天武天皇は、兄たちとは異なり、穏やかに改革を始めたのです。
六七三年に夫、大海人皇子が天武天皇として即位し、
春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたえ)の 衣(ころも)干したり 天の香久山(あまのかぐやま)。
当時は夏になると白い衣(布)を干す習慣があったのでしょう、香久山に映える白い衣を目にした持統天皇が、夏の到来を感じて詠んだといわれます。
香久山の新緑と白い衣の鮮やかな対比が初夏の光を感じさせ、躍動感あふれる雰囲気を醸し出している。
この歌から漂ってくるのは、静かで平和な村の姿と、里人たちの平穏な暮らしぶり。
現実の生涯は、
生と死が隣り合わせの日々。
少しの油断で暗殺され、明日をも知れぬ運命となる。
父にしろ、親族にしろ、誰が味方なのか分からない。
権謀術数が渦巻く時代。
夫、大海人皇子、天武天皇の影響も大きく受けております。
人に対し愛を持って接した。
人への愛を忘れず、優しさを忘れず、人を恨まず、そして自身、強く生き抜き、皇后、女性天皇(女王)、上皇として生涯を駆け抜けたのでした。
前述しておりますが、
そんな折に、大海人皇子、天武天皇の第三皇子(母は
大津皇子の姉、大伯(おおく)皇女は、弟との別れに歌を残した。
万葉集にも残る。
わが背子を大和へ遣ると さ夜深けて 暁露にわがたち濡れし
六八六年、大海人皇子こと、天武天皇は歿しました。
そして
六九〇年になって、自身が持統天皇として即位します。
その後上皇になって、七〇三年に亡くなったのであった。
藤原京は中国の都造りにならうというか、真似て、碁盤の目のような配置の都城で、のちに平安京、平城京のモデルにもなったものです。
六九六年には持統天皇は孫の軽皇子に皇位を譲りますが、まだ若い天皇を支えるべく、日本初の太上天皇(上皇)として政権をともに動かし操ります。
持統天皇は、夫である天武天皇も、息子の草壁皇子も亡くなったため、しかたなく天皇の座についたのではありません。彼女自身がたいへん有能な政治家でした。父親の中大兄皇子が、中臣(藤原)鎌足と政治の相談をしている時から、そして夫、大海人皇子が天武天皇になってからも、国の政策を興味深く聞き、自分なりに意見までもされておりました。
即位前年には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定を行ったほか、天皇家中心の政治から、貴族や豪族を積極的に大臣に採用し、天皇を官僚が支えるという、官僚政治の元をつくりました。それに採用された藤原不比等らは天武天皇より制定が命じられていた大宝律令を、持統天皇の指導のもとに編纂し完成させました。日本初の制度や法律を規定し、日本は法律に基づく律令国家への道を歩みはじめます。
持統天皇は夫であった天武天皇の神格化もいたしました。
万葉集は持統天皇の時代に編纂が始まりました。
万葉集は歌による「王権」(天皇家)の歴史、いわば「皇位継承の歴史」を明確化するために編輯されたと言われます。
とりわけ柿本人麻呂による挽歌では、天武天皇が「神」とされ、地上の創始者とされている。このことに注目すると、これには持統天皇の意を汲んだ柿本人麻呂によって生み出された創作であり、天皇の神格化は万葉集において、はじめて見られたものであり、持統天皇と柿本人麻呂によって作り出されたものと思われるという。今に言う、忖度(そんたく)。
持統天皇は、上皇となって若年の孫の文武天皇(もんむてんのう)を後見した。
西暦七〇二年 持統天皇は歿する。五十八歳であった。
そして最愛の夫、大海人皇子、天武天皇の眠る、檜前大内陵(ひのくまおおうちりょう)に合葬されたのでした。
仲睦まじき夫婦は、歴代の倭王とともに困難な時代を共に生き抜き、日本の律令制度の基礎、国の基礎を作り上げた、といわれる。
倭王 waoo 横浜流人 @yokobamart
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