第19話 持統天皇 仲睦まじき愛妻

 持統天皇(じとうてんのう)とは、前述された大海人皇子(おおあまのおうじ)の妃(きさき)、讃良(さらら)、その人のこと。

 讃良は、天智天皇となられた中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の娘であり、父に、その弟である大海人皇子の妃とされ、後に、夫である大海人皇子が日本内戦を勝ち抜き、天武天皇となられて、自身は皇后となったのでした。

 持統天皇は、日本においては、祖母、斉明天皇(中大兄皇子、大海人皇子の母)に続く女王である。

 讃良は、飛鳥時代の大和朝廷で絶対的な権力者であった、豪族の蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺というクーデターを実行した天智天皇(中大兄皇子)と、その暗殺、クーデターに深く加担した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の娘、中大兄皇子の最初の妻、遠智娘(おちのいらつめ)との間に生まれたのでした。

蘇我入鹿暗殺というクーデターは、乙巳(いっし)の変といわれております。大和朝廷で絶大な権力をもっていた蘇我入鹿は、自身の父、蝦夷(えみし)からの指示により、中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子(ふるひとのおうえのおうじ)を自分達、蘇我氏の傀儡の天皇にしようとして、六四三年、朝廷内で自分達、蘇我氏一族を批判していた最も有力な後継天皇と見られた山背大兄王(やましろのおおえのおう)を夜襲し、王や妃妾らを自害させたのでした。

 ところが今度は自分が乙巳(いっし)の変で、中大兄皇子や、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に暗殺されてしまいました。また、その三か月後には古人大兄皇子も、謀反の疑いをかけられ、これまた中大兄皇子に討たれているのです。

 さらに四年後の六四九年には、時の右大臣、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の暗殺を企てているという密告があり、斬首十四人、絞首九人が執行さました。石川麻呂は乙巳(いっし)の変、蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺、クーデターでは中大兄皇子の味方で一番の協力者であり、中大兄皇子の妻の父にもあたります。讃良(さらら)にとっては、母方の祖父でもありました。讃良の母は、夫である中大兄皇子に父親一族を殺され狂い死にした、と云われています。

それに六五八年には先帝、孝徳天皇の息子、有間皇子の謀反の計画が発覚し、中大兄皇子は有馬皇子を絞首刑にしています。

 讃良は、その父、息子、孫の代まで、血肉を争う思惑と権力闘争により、倭王として生き抜いていくこととなる。

 互いに血縁関係、親族である皇族と重臣たちが次々と入り乱れ、密議と裏切りが繰り返される。

誰が味方で誰が敵なのか?はっきりしているのは、権力への執着による、絶え間ない血の抗争であった。そんな中、讃良の父である中大兄皇子は、日本史上初の大惨敗となる白村江の戦いの後、遷都を行い、ついに大津宮にて天智天皇となるのだった。しかし、わずか四年で病のうちに亡くなることになる。


 持統天皇となる讃良の結婚とは、讃良の父親の天智天皇(中大兄皇子)が、実の弟の大海人皇子の妃、額田王(ぬかたのおおきみ)を手に入れようと、その交換条件として自身の娘たち姉妹四人とも、弟、大海人皇子の妃にした、というものでした。十三歳の讃良(さらら)は思うのです。

(なんで、姉妹四人が一緒に叔父さんのお嫁さんにならなくてはならないの!?父上が、叔父さんの奥さんを欲しいからって、姉妹四人と交換なんて……)

そうは思っても讃良は、父、中大兄皇子と、叔父、海人皇子とその妻となった額田王、そして朝廷軍の将軍が幼き頃より、供に血みどろの世の中を戦い渡り歩いて来て、今此処にある、という事を知っていた。誰にも計り知れない関係が有るのだろう、と思うのである。讃良は、十三歳で叔父の大海人皇子に嫁ぐことになりました。讃良は、叔父、大海人皇子が大好きでした。父、天智天皇とは違い人間味に溢れていたからです。しかし、大海人皇子は、別れた後も額田王のことが忘れられないようで、そのうえ、自分と比較すると年上である讃良の姉ばかり寵愛するようにもみえました。それで讃良は、戦場であろうと、支配地であろうと、政務処であろうと積極的に何処へでも大海人皇子にべったりとくっついて行くのでした。そうこうして、讃良は、十七歳で草壁皇子(くさかべのおうじ)を出産したのです。


 讃良の父、中大兄皇子は、天智天皇となられてから、日に日に身体を壊していき、床に臥せがちになってしまいました。天智天皇は、次の天皇としては、娘、讃良の夫であり、また自身の弟でもある大海人皇子(おおあまのおおじ)ではなく、自身の息子、大友皇子(おおとものおうじ)を太政大臣にすることによって、次の天皇として後継ぎにする意思を見せたのでした。実の父と夫が、心の底からやみの対立を始めたのでした。

 大海人皇子は表立った争いごとを避け、また、自身の身を兄から守るため出家し、母が大切にしていた吉野離宮に隠棲することを選びました。

讃良は夫を支えるべく草壁皇子とともに秘密裡に吉野に同行します。

讃良は思いました。

(これでよかったのだ!夫が、父の病床の見舞いに行った折、後を継いで天皇になってくれという申し出を受け入れていたなら、夫は父に殺されたであろう!?)

 数ある大海人皇子の妻のなかで、吉野まで同行したのは、讃良だけだったと伝えられております。姉妹も誰もついては行きませんでした。しかし讃良は、大海人皇子を独占できたことが本当に嬉しかったようです。

西暦六七一年、天智天皇が病のため歿した。

 翌年、大海人皇子は天智天皇の子、大友皇子が天皇の跡継ぎになることに反発する勢力におされ壬申の乱を起こしました。それは国内を二分した、古代日本、最大の内乱となりました。そして、天智天皇の息子であり、兄である大友皇子が山前(やまさき)にて首吊りの自決したことをもって内乱は終了したのです。

 大海人皇子は、母、斉明天皇の住まわれていた自分の実家でもある岡本宮、その近くに飛鳥清御原宮(あすかきよみはらのみや)を建てて、天武天皇として即位しました。

六七三年に夫、大海人皇子が天武天皇として即位し、讃良は皇后となるのです。そして息子の草壁皇子は皇太子となり天皇の後継者となりました。

やがて天武天皇は病気がちになり、息子の草壁皇子と、妻、讃良皇后に政務を共同でするよう願いました。讃良は、政治に詳しく、大変興味を持っておりましたし、政治問題のさばき方も大変うまい物でした。なぜならば、生まれながらの勝気な気性のせいもありますが、大海人皇子を独占したくて一緒に度々政務所での重要会議にも出ていたのです。経験を積み上げていたのです。


天武天皇は、兄とは異なり、穏やかに国内の改革を始めたのです。


大海人皇子(おおあまのおうじ)の妃の讃良(さらら)、その後の持統(じとう)天皇といえば、額田王(ぬかたのおおきみ)とならんで、歌が有名です。額田王は、讃良の父である、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が、その弟、大海人皇子から奪い取った妻。百人一首にもその歌が収められており、万葉集の歌が有名でもあります。


春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたえ)の 衣(ころも)干したり 天の香久山(あまのかぐやま)。


 当時は夏になると白い衣(布)を干す習慣があったのでしょう、香具(久)山に映える白い衣を目にした持統天皇が、夏の到来を感じて詠んだという。

 香具山の新緑と白い衣の鮮やかな対比が初夏の光を感じさせ、躍動感あふれる雰囲気を醸し出している。

 この歌から漂ってくるのは、静かで平和な村の姿と、里人たちの平穏な暮らしぶりです。

 現実の生涯は、讃良こと持統天皇が生きていたのはそんな生易しい、悠長な時代ではなかった。

 生と死が隣り合わせの日々。

  少しの油断で暗殺され、明日をも知れぬ運命となる。

 父にしろ、親族にしろ、誰が味方なのか分からない。

 権謀術数が渦巻く時代。

 日々の苦痛を辛抱強く耐え続けた。

 兎に角、英知を絞り、敏感に運命に対応した。

 持統天皇、讃良は、夫、大海人皇子、天武天皇の影響も大きく受けております。人に対し愛を持って接していました。人への愛を忘れず、優しさを忘れず、人を恨まず、そして自身、強く世の中を生き抜き、皇后、女性天皇(女王)、上皇として生涯を駆け抜けたのでした。


 天武天皇の第三皇子(母は、讃良の姉)、大津皇子の謀反事件が起きました。天武天皇の子として器量・才幹が抜群といわれ、世評の高かった大津皇子は捕らえられ、自害しました。誰が背後で謀ったか?大化の改新以来、同族の内、同種の事件が延々と繰り返されている。また、誰かの謀(はかりごと)。

 大津皇子の姉、大伯(おおく)皇女は、弟との別れに歌を残した。万葉集にもその歌は残されています。


わが背子を大和へ遣ると さ夜深けて 暁露にわがたち濡れし


六八六年、天武天皇は歿した。

 持統天皇となる讃良皇后はおよそ二年間、父、中大兄皇子がおこなったように、称制(しょうせい)をして政(まつりごと)を行います。天皇の位につくはずの自分の息子、草壁皇子も、即位直前の六八九年に病死してしまいました。その草壁皇子の息子、軽皇子(かるのみこ)は、まだ七歳と幼かったため、讃良皇后は自らが天皇となることを決意しました。

 讃良皇后は、天武天皇が歿後、すぐには即位せず政務を執ることになります。実子の草壁皇子の成長を期待していたのですが、草壁皇子は急逝してしまう。

六九〇年になって、自身が持統天皇として即位します。

その後上皇になって、七〇三年に亡くなったのでした。


 讃良皇后は持統天皇に即位した後、まず藤原京といわれる都の建設にとりかかりました。

 藤原京は、中国の都造りに習うというか真似て、碁盤の目のような配置の都城です。その後の平安京、平城京のモデルにもなったものです。

六九六年に、持統天皇は、孫の軽皇子に皇位を譲りますが、まだ若い天皇を支えるべく、日本初の太上天皇(上皇)として政権をともに動かし操ります。

  持統天皇は、夫である天武天皇も、息子の草壁皇子も亡くなったため、しかたなく天皇の座についたのではありません。彼女自身がたいへん有能な政治家でした。父親の中大兄皇子が、中臣(藤原)鎌足と政治の相談をしている時から、そして夫、大海人皇子が天武天皇になってからも、国の政策を興味深く聞き、自分なりに意見までもされておりました。

 即位前年には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定を行ったほか、天皇家中心の政治から、貴族や豪族を積極的に大臣に採用し、天皇を官僚が支えるという、官僚政治の元をつくりました。それに採用された藤原不比等らは天武天皇より制定が命じられていた大宝律令を、持統天皇の指導のもとに編纂し完成させました。日本初の制度や法律を規定し、日本は法律に基づく律令国家への道を歩みはじめます。

また、持統天皇は、夫であった天武天皇の神格化もいたしました。それに万葉集は持統天皇の時代に編纂が始まったのです。

 万葉集は歌による「王権」(天皇家)の歴史、いわば「皇位継承の歴史」を明確化するために編輯されたと言われます。讃良である持統天皇は、夫、大海人皇子である天武天皇を「神」として祭り上げることで、それまでの夫に対する敵対した悪評をすべて帳消しにしたかったのである。

 とりわけ柿本人麻呂による挽歌では、天武天皇が「神」とされ、地上の創始者とされている。このことに注目すると、これには持統天皇の意を汲んだ柿本人麻呂によって生み出された創作であり、天皇の神格化は万葉集において、はじめて見られたものであり、持統天皇と柿本人麻呂によって作り出されたものと思われるという。今に言う、忖度。

 持統天皇は、上皇となって若年の孫の文武天皇(もんむてんのう)を後見した。

 西暦七〇二年 持統天皇は歿する。

 五十八歳であった。

 そして最愛の夫、大海人皇子、天武天皇の眠る、檜前大内陵(ひのくまおおうちりょう)に合葬されたのでした。

 仲睦まじき夫婦は、歴代の倭王とともに困難な時代を共に生き抜き、日本の律令制度の基礎、国の基礎を作り上げた、といわれる。

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