倭王 waoo

横浜流人

第1話 斑鳩(いかるが)の里 

 物語は古代日本、飛鳥(あすか)時代の大和朝廷(やまとちょうてい)のお話。


 西暦六五八年、斉明四年。

 京都の日本海側に位置する古代の港から、大和朝廷軍の三万人の兵が、百八十隻もの大船団で齶田(あぎた・後の秋田市)に向かった。

 

 空も海も未だ暗く、波は高い。朝日は昇り始めたというところ。かすかな、オレンジ色が遠くの水平線に薄っすらと漂う。

 荒れた海に、古代の木造(もくぞう)戦艦(せんかん)とはいえ、海行く数は莫大な数であり、その光景は壮大(そうだい)である。

 古代の木造戦艦は、帆に風を受けて進むだけではなく、左右に数本の大きな櫂(かい)(オール)が装備されており、漕(こ)ぎ進める様にもなっている。


 船内にいる裸同然のこぎ手は、操長の手に持つ太鼓の合図によって櫂(オール)を漕(こ)ぐ。

 櫂(オール)を力いっぱい前後に漕ぐ。


エイ! オー! エイ! オー!


 漕ぎ手もかなりの人数が木造戦艦の船内には居る。

 彼らは奴隷ではない。何時(いつ)でも戦闘に参加できる大和朝廷の兵士達だ。


 日本海の荒海(あらうみ)を駆って、古代軍艦の大船団が東北に向かう。

 その軍艦の周囲には、影を潜(ひそ)めるように寄り添う、小型(こがた)船舶(せんぱく)が数隻いる。

 シングルヨットというよりは、一人乗りの底の浅い木の小舟、その船?に帆(ほ)を張った、今でいうボードセーリング、ウインドサーフィンのような帆船を立ち姿で操る軍団がある。

 隊列を組んで、帆船で波を立てながら右に左に蛇行し、荒波を次々とジャンプしていく。

 素早くUターンする場合は、重心を船体(せんたい)の後方にかけながら、船先(ふなさき)を空に向って上方向に立て、急ブレーキをかけた状態から、帆を九十度回転させる。


 その軍団は、古代日本、飛鳥時代の大和国(やまとのくに)の白い衣、袴(ころも、はかま)姿である。腰に帯刀(たいとう)し、胸や胴を覆(おお)っただけの簡易な鎧姿(よろいすがた)だ。


 弓をかまえた戦士や、銛(もり)、小型のハンマー投げの弾のような色々な武器を持つ戦士たち。そのなかに、大和朝廷の皇極天皇(こうぎょくてんのう・女王)の嫡男である皇子(おうじ・みこ)がいる。やはり立ち姿で帆船を操っている。


 触れるもの全てを切り殺す、鋭利な、細身の刃物のような雰囲気の中大兄皇子(なかのおおおえのみこ)だ。

 髪は栗色で長く、後ろに結って馬の尾のようにタナビかせている。

 頭部に兜(かぶと)はかぶらず、額(ひたい)に茶色い革の長細いハチマキを巻く。両の腰にはそれぞれ1本ずつ、細長い刀を差し、背にはイッパイの弓矢を入れた筒状の矢入れを背負う。 左手には自分の身長の半分もない、短めの弓を握っているのだった。


 剣と弓の達人。


 その中大兄皇子の後ろに同じ種類の帆船で続くのが、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)だ。

 大海人皇子は、誰からも信用される、その上、寛容な感じがある。言い方によれば兄に比べて弱々しいとも言えた。いつも兄の側(そば)にいて、兄の後ろに隠れるように寄り添っているイメージがある。

大海人皇子の黒い髪は簡易な兜(かぶと)の中におさまっている。そして、薄く軽そうなものではあるが胸、肩、胴、膝と、全身に防具をまとっている。大海人皇子は、用心深く、几帳面な性格なのだろう。武器としては背に数本の長い銛(もり)のようなものを背負い、胴には手裏剣(しゅりけん)のように使用する短刀を十本以上巻き付けている。立ちながらに帆船を操舵し、相手に投げつけられるように準備されていた。

 兄、中大兄皇子の力強い操舵に、やっとの想いで、付いて行っている。中大兄皇子は、そんな必死の形相の弟を振り返り、にやにや馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべ、自分は次々に難しい技を繰り出して、

(ほら、こんなのも出来るか?)

と弟を揶揄って、喜んでいる様にも見える。


猛スピードからの高いジャンプ!右に左にと、高速ターン! 


 船団の先頭の大型戦艦、旗艦と呼ばれる大型の木造船には、大和朝廷の海軍の将軍である阿倍比羅夫(あべのひらふ)がおり、この大船団の指揮をとる。

 阿倍比羅夫(あべのひらふ)将軍は、口ひげを多く蓄(たくわ)えた巨漢であり、戦艦の甲板上ではあるが、陸上戦(りくじょうせん)用の様な、完全武装の鎧姿(よろいすがた)である。

 兜(かぶと)は上に細長く丸い。前側に金属のツノのようなものが付いており、その兜の天辺(てっぺん)には雉(きじ)か何かの羽が数本飾り付けられている。そして彼は、背に巨大な幅広の刀を背負っている。大和朝廷では、海軍一の怪力の持ち主のなのだ。将軍と兵士、皆それぞれは、ジッと東北の方角を睨みつけている。

 その時、阿倍将軍に向かって一本の弓矢が飛んできた!

 寸前のところで、阿倍将軍は右腕でその矢を払った。

 弓矢は、逸れて将軍の後ろの扉に突き刺さった。

 阿倍将軍は、すぐさま、弓矢が飛んできた方角を睨みつける。そこには、帆船を操る中大兄皇子が弓を持って、ニヤニヤと笑みを浮かべているのだった。

 阿倍将軍は、睨むのを止め、ため息と供にグチが出る。

「まったく・・・・・・、何を考えているんだか?危なかしいオヒトだ」


 次に、その中大兄皇子は、阿倍将軍に顎を東北の方角にシャックってみせた。


 出発の合図!


 阿倍将軍は、強く頷く。

「全速、前進!」

 勇猛な大将、阿倍比羅夫が大船団に指示を出す。


ほら貝を吹く音!

鐘の音!

太鼓の音!


出陣である。


 船団は、櫂(オール)を納め、帆を満帆に張り、どんどんスピードを上げて、波をけり東北の方向に進み始めた。その司令船、旗艦の周りには、並走し、波の上を走り回る小型帆船がおり、小型帆船を操って乗っている皇子たちの顔は、楽しそう。気分が高揚している。


 皇子たちの顔に笑みが浮かんでいる。

 爽快(そうかい)!といった感じであろう。


 彼らはウインドサーフィンのような小型船の帆(ほ)にいっぱいの風をうけ、荒波を右に左にジグザグと大型戦艦の周りを並走しながら乗りこなす。大海人皇子(おおあまのおうじ)も腕試しと整備点検を兼ねて、一通りウインドサーフィンを楽しんでいたところ、帆船の帆を一本の矢が貫いた。危うく顔面を貫かれるところであったが、寸前のところで躱すことが出来た。矢の飛んで来た先には、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた、兄、中大兄皇子(なかのおおおえのみこ)がいた。睨みつける大海人皇子(おおあまのおうじ)を無視するかのように、中大兄皇子(なかのおおおえのみこ)は、帆船の皆に、

「全員、艦船に戻れ!」

と、大声で命を発した。

小型帆船は一時停止した何隻かの大型戦艦に収納された。皇子たちの帆船は、船団の先頭の大型戦艦・旗艦に収納された。収納が終わった折、大海人皇子(おおあまのおうじ)は、兄、中大兄皇子(なかのおおおえのみこ)に激しい口調で抗議した。

「兄じゃ!危ないじゃないですか?矢が当たったら、どうするんですか!」

「当たって死んだら、それまでのことヨ。戦では、一瞬も気を抜ける時など無いぞ」

 中大兄皇子(なかのおおおえのみこ)は、冷ややかな表情で、実の弟に軽く言い放った。


 大型戦艦の指令塔に並ぶ三人は、今から向かう方向でもある、東の方から昇る朝日をみつめている。

 三人は幼き頃よりの馴染みだ。

 小さな時からの友なのである。

 これから北の民の制圧に向かう、という強い決意を示す彼らの表情は、朝日の淡いオレンジ色に照らされている。

 後の天智天皇である中大兄皇子(なかのおおおえのみこ)、その弟、大海人皇子(おおあまのおうじ)、二人の幼馴染(おさななじみ)で将軍の阿倍比羅夫(あべのひらふ)の三人。

 しかし、幼馴染(おさななじみ)の友は五人であった。斑鳩の里の安曇(あずみ)の兄妹、二人が北の民、蝦夷(えみし)に攫われた。


 彼らが、これから関わる多くの大和朝廷の戦いの物語の始まりは、この時より七十年も前から引き継がれていた。


 その始まりの時。

 まだ、大和朝廷の力は確立されておらず、各地方の豪族(ごうぞく)とよばれる一族らが、倭の国(わのくに)、大和(やまと)の国の支配・拡大を目論(もくろ)んでいた。また、現在の日本列島の中部・関東以北は、異民族とされる蝦夷(えみし)といわれる人の勢力下にあり、大和の国とは言えなかったのである。大和朝廷からすると、異民族の世界だった。


 大和の国、国家といえども、まだ道徳、教養などを身に着けていないような輩が、自らのみの生存をかけて、覇権を争っている時代である。


 西暦五八七年ころでは大和(やまと)の国は、邪馬台国(やまたいこく)から続く大王家(だいおおけ)だけでは統一されていない。

 大和の国で、権力の中心にあったのは、大和朝廷の他に、蘇我氏(そがし)、物部氏(もののべし)などの豪族(ごうぞく)と呼ばれる一族、勢力の存在があった。

 大和朝廷とのつながりを深め、国内での権力をより強めるために、仏教の教えを広めようとする崇仏派の蘇我氏(そがし)と、もともとの自然界にある土着の神、その地方の神々の信仰を守り、自分達の地位を守っていこうとした物部氏(もののべし)という豪族の二大勢力。

 その強大な豪族の蘇我氏は、対抗する排仏派の物部氏を攻め滅ぼしたのです。蘇我氏は、中国大陸、朝鮮半島との交流を盛んに行っており、最新の兵器を備え持っておりました。

騎馬、馬車、刀、斧、槍、弓矢。


 主要な物部氏のメンバーが物部の領地に戻り、一同、皆、集まっていたところを、蘇我氏の大軍団が、最新の武器で武装し一気に攻め込んだのです。


 物部氏は蘇我氏により全滅させられました。


 当時、物部氏は大和朝廷において、用明天皇(ようめいてんのう)が歿した後、自家に縁の深い穴穂部皇子(あなほべおうじ)を次の天皇に擁立しようとしておりました。そして自家の影響力、権力を強大にしようと、していたのです。

 一方、蘇我氏の当時の頭領である蘇我馬子(そがのうまこ)は、蘇我の血筋であり、敏達(びんたつ)天皇の妃(きさき)でもあった炊屋姫(かしきやひめ)と結託(けったく)をして、用明天皇の亡き後の次の天皇には、白瀬部皇子(はっせべおうじ)を推しておりました。白瀬部皇子を自分達、蘇我の傀儡(かいらい)の天皇にしようとしていたのです。


 蘇我馬子は物部氏を滅ぼし、最大級の権力を手中にしました。そして、白瀬部皇子を崇峻(すしゅん)天皇としたのです。それからは、蘇我馬子が、全ての国の決め事を炊屋姫(かしきやひめ)に相談する、という形で大和の国の政治は執り行われていたのでした。


 この時分は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)、馬小屋でうまれたと周囲に身分を軽んじられていた後の聖徳太子(しょうとくたいし)。

厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、用明天皇(ようめいてんのう)の息子であり、炊屋姫の甥でもあったのですが、皇族・朝廷の中では、忘れ去られそうな存在でした。

 用明天皇の宮廷にて、大和の山々を臨む小部屋で黙々と勉学に励む厩戸皇子(うまやどのおうじ)を、炊屋姫(かしきやひめ)は、優しく、にこやかに眺めておりました。

 小部屋に立ち寄った炊屋姫(かしきやひめ)は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)に、

「皇子、何をそんなに熱心にお読みじゃ?」

と声をかける。

「あ!伯母上(おばうえ)、いや、姫君(ひめぎみ)!西の国に広まっている、仏教という教えを読んでおりました。」

 皇子は目を輝かせて答えますが、炊屋姫(かしきやひめ)には、ピンと来ないようだ。興味も何も無いようであった。

「そんなに、面白い物語かえ?」

と何気に聞く炊屋姫(かしきやひめ)。

 厩戸皇子(うまやどのおうじ)、聖徳太子は、

「人の欲も、周囲に在る物も、全ては形も何も無いものであり、その姿は直ぐに変わっていく。そのような物に執着せず、欲を出さず、悩まず、今、在るがままを受け入れよ!という教えです」

と自慢げに言ってみたものの、炊屋姫(かしきやひめ)には全く響かない。

 炊屋姫(かしきやひめ)は、

「在るがままに生きるとは、随分、呑気なことじゃのう・・・・・・」

と言われ、用があるのか、急ぎ、小部屋の前の廊下を静かに去られたのでした。

(この仏の悟りを、なんと人に説明すればよいのか?)皇子には未だ分からない。

 聖徳太子こと、厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、気を取り直して、さらに仏教の経典を読みふけるのでした。


今や、蘇我馬子の傀儡(かいらい)となった崇峻(すしゅん)天皇。とある日、蘇我馬子と炊屋姫に、 

「天皇には、この都は騒がしいでしょう⁉落ち着いて静かなところに宮を造って差し上げました」

と言われ、都も追われる事となったのです。

 崇峻天皇は、自分を無視したように蘇我馬子が権力を振るっているのを苦々(にがにが)しく思っておりました。そして、終には蘇我馬子の暗殺をくわだてたのです。が、反対に自分が馬子に殺されてしまいます。

蘇我馬子は刺客とともに、倉梯の宮(くらはしのみや)に追いやった崇峻天皇を訪ね、そして刺客に崇峻天皇を殺させたのでした。


 崇峻天皇は、側近の者に、蘇我馬子を何らかの口実をつくって、こちらに呼び出し、屈強な兵士を忍ばせ、刺殺(しさつ)させようと企(たくら)みました。

 崇峻天皇は、(皇后の他に、後、三、四人、姫を娶(めと)ろうと思うておる。馬子殿には、誰か私に薦める者はおるか?一度、この宮に参って相談願いたい)と使いの者に文を届けさせたのです。

 蘇我馬子は、(一人、推しの姫がおりますので、ご案内、お連れいたします)と、返答を天皇にお送りしました。

 謁見、当日。

 蘇我馬子は、牛車に一人の艶やかな姫を乗せ、少数のお供と供に、自分は騎乗で天皇の宮に現れました。厳(おごそ)かに、天皇の従者に案内され、蘇我馬子と姫君が渡り廊下を静かに進み、天皇の待つ、謁見の間に通されました。

 静に、厳かに、襖戸が左右に開かれた時、玉座に血まみれで倒れている崇峻天皇の姿がありました。宮の中は、大騒ぎです。もちろん、蘇我馬子は、従者に指図を飛ばし、犯人捜しをします。

 兵士を集め犯人を捜させるとともに、自分達の回りを固めさせて防衛します。

 蘇我馬子は、

「誰か!謀反を見た者はおらぬか⁉」

と、声高に怒鳴り、

「都の炊屋姫が心配じゃ、直ぐに都に戻る!」

と、この宮に来た時と同じ隊列で急ぎ、この宮を去って行ったのでした。


 蘇我馬子に連れて来られた姫の小袖には、血の付いた短刀が隠されていました。


 蘇我馬子は刺客とともに、倉梯の宮(くらはしのみや)に追いやった崇峻天皇を訪ね、そして刺客に崇峻天皇を殺させたのです。


 豪族の蘇我氏の力は、王族、大和朝廷の大王より強大となり、大王を操(あやつ)るごとくでした。

朝廷内では誰も蘇我馬子に逆らえません。

蘇我氏が気に入らないとされる者が次々に消されていくのです。

 蘇我馬子は、大和朝廷を蘇我氏の言いなりになるように、蘇我の意向を聞く傀儡(かいらい)となる王を選んで擁立しては、その中で自分達にたてつくようになった王を殺害してゆきます。

 崇峻天皇が蘇我氏に殺され、その後の天皇として、蘇我馬子は炊屋姫(かしきやひめ)を推しました。聖徳太子の叔母、蘇我氏の血を受け継ぐ者、炊屋姫(かしきやひめ)を王、女王にしようと考えたのでした。炊屋姫(かしきやひめ)は推古天皇となり、倭国最初の女王となられたのです。

炊屋姫(かしきやひめ)は、蘇我の意向に逆らう王族の関係者が次々に殺されていくのを間近で見ております。蘇我の言うことを聞く女王になることを引き受ける条件として、誠実で頭の良い聖徳太子を摂政(せっしょう)「現代の首相のようなもの」にする、という条件を蘇我馬子にのませたのです。

太子の身を守り、そして、太子の知恵によりご自分の身をも守ろうと考えられたのです。

こうして、以前は敏達天皇の妃(きさき)であった炊屋姫(かしきやひめ)は、推古天皇、大和の国の女王となられたのでした。


 権力の頂点に立った蘇我氏は、大和の王族に先立ち、許可を取ることもなく、国の富、税や人民を使い自(みずか)らの先祖と自分たちを祭るための氏寺(うじでら)として、法興寺(ほうこうじ)「別称、飛鳥寺 あすかでら」を建立(こんりゅう)したのです。

 その様な中、大和王朝は、内外に対して朝廷として威厳(いげん)を保つため、蘇我の法興寺に対抗して、その法興寺に負けないような立派な寺を建立(こんりゅう)することにしました。大和朝廷の聖徳太子が、法隆寺(ほうりゅうじ)「斑鳩寺 いかるがのてら」を建立(こんりゅう)されたのです。

聖徳太子は、推古天皇の時世に、摂政として朝廷の中心にいました。

 推古天皇は、甥っ子で摂政である聖徳太子に、

「蘇我に対して、朝廷の力、威厳を示すよう」

と提言されまたのです。

聖徳太子が建立した法隆寺(ほうりゅうじ)は今の時代でも五重塔(ごじゅうのとう)が有名な立派なお寺として残っております。


 大和朝廷があった飛鳥時代には、奈良の斑鳩(いかるが)の里を中心に、各豪族が聖徳太子や蘇我氏にならい、競って大きな寺を建立(こんりゅう)したのでした。聖徳太子の狙い通りに、仏教が最強の国の柱となる兆(きざし)が見え始めたのです。

 聖徳太子は、この大和の国、倭の国、日本を国際的な律令(りつりょう)国家(こっか)にしようとして、次々と手を打ちます。


西暦六〇四年

 聖徳太子と豪族、蘇我氏の当主である蘇我馬子(そがのうまこ)とにより、十七条の憲法(じゅうななじょうのけんぽう)が制定されました。倭の国を、大和朝廷を中心にして、海外からの圧力、特に中国大陸からの圧力に対抗できるような、近代的な律令(りつりょう)国家(こっか)にしようとしていたのでした。

 そのころ、中国大陸においては、

西暦五八九年

 隋(ずい)という国が、南方の陳を攻め滅ぼして、中国を統一します。

 聖徳太子は、この日本の国が、大陸にある大国(たいこく)に攻められて、そして、その属国(ぞっこく)になることを恐れておりました。

この日本の国を、仏教を中心としたひとつの独立した立派な律令(りつりょう)国家(こっか)であることを内外に示したいと考えられていたのです。


やたらに海外の大国に遜(へりくだ)ることなく、あくまでも「同等で対等の立場である!」そのような態度で各国を相手に対峙するよう努めておりました。


 また、聖徳太子は、大陸の大国、中国の隋(ずい)に最新の知識と技術を求め、倭の国の人材を育成する為に、多くの自国の若い人々を留学生として派遣し始めます。

遣隋使(けんずいし)と呼ばれるものでした。

西暦六〇七年

 第二次 遣隋使(けんずいし)としては、かの優秀、有名な小野妹子(おののいもこ)が遣(つか)わされています。一応でありますが、イモコ、といっても男の方です。当時は、蘇我馬子(そがのうまこ)にしても子が男性の名で使用されることは多かったようです。

 聖徳太子は次々に中国の隋に留学生を派遣します。そして、留学生の彼らが、大陸、中国の人に臆(おく)することのないように、倭国、大和の国の代表として、馬鹿にされないように聖徳太子は、大国相手に高圧的な態度を取り続けました。

 小野妹子(おののいもこ)が優秀というのは、秀才とか、そういうのは置いといて、国を代表する使者として、勉強ばかりしていた学生でありながら、くそ度胸がすわっておりました。


 当時の隋の皇帝は、二代目の煬帝(ようだい)です。父、文帝の次男。兄を失脚させてから、つづいて病床にある父を殺して帝位についた人です。煬帝は、そういう恐ろしい男!


 小野妹子は、聖徳太子から大和の国からの国書(こくしょ)を託(たく)され、大和の国の代表として、煬帝皇帝(ようだいこうてい)に謁見(えっけん)し、国書を渡します。それを読んだ煬帝皇帝(ようだいこうてい)は、激怒します⁉

 国書には、次のような、高圧的な文章が書かれておりました。


「日出(ひ、いずる)る処の天子、日没する(ひ、ぼっする)処の天子に書を致す。慈(つつが)無きや・・・・・・」


 小野妹子(おののいもこ)もこの一節を煬帝(ようだい)が読み始め、怒鳴り散らした時は、腰が抜けたでしょう。

ただ、聖徳太子の、大陸大国に遜る(へりくだる)ことなく、対等な立場を貫(つらぬ)こうとする意志を読みとったと思われます。

小野妹子(おののいもこ)は、激怒する煬帝皇帝(ようだいこうてい)に、弁解(べんかい)します。

「太陽が東から上り、西に沈むのは自然の理、特に他意はございません・・・」

 しかしながら煬帝の怒りは静(おさ)まらなかったそうですが、小野妹子は処刑されることはなく、無事であったと記録されております。

煬帝は聖徳太子のこの国書を「無礼!」と退(しりぞ)けながらも、妹子の弁解も功を奏したのか、次の年には、日本に答礼の使いを派遣しているのです。

この時の隋は、朝鮮半島の大国、高句麗(こうくり)に何回も派兵(はへい)しては敗北しておりますので、日本を朝鮮半島の高句麗などの国々への攻略の手立てに、味方につけておこうとの考えがあったものと云われております。

 隋は、この度重(たびかさ)なる高句麗への派兵の失敗と、自分達の為だけの(息子夫婦の新居の建築とか)大規模工事を続けることで国民を疲弊(ひへい)させ、農民の反乱を招きました。そして大陸の中国、隋は衰退、滅亡していくのでした。


西暦六一八年

 中国大陸においては、李淵(りえん)という人が、隋(ずい)に替わって、唐(とう)王朝を建国したのです。

 隋(ずい)の国は腐敗(ふはい)、衰退していったようです。

混乱、衰退した隋の最後、山西の地方長官であった李淵(りえん)は、隋の煬帝(ようてい)の歿後、中国を統一し、都は長安のまま、高祖と名のり、唐(とう)を建国したのでした。

 唐は、隋の廃退を繰り返さぬよう、しばらくは内政の充実に力を注ぎました。

対外的に他国に圧力をかけたり、攻撃をしたりという領土拡張は一時停止し、お預けとしたのです。内政に重点を置き、国力を高めようとしました。

 そして唐の二代目の皇帝、太宗におかれては、律令制を完備され、また、房玄齢(ぼうげんれい)、吐如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)、李靖(りせき)という賢人を家臣として登用したので、非常にすばらしい政治を行うことが出来ていたといわれます。


唐は大帝国を形成してゆくのでした。


 この時期、日本、大和朝廷においては、蘇我氏(そがし)が、ますます勢力を伸ばし、蘇我氏の専横ぶりは目に余るものとなっていたのでした。

 大和朝廷は、蘇我馬子に続き、その子、蝦夷(えみし)、孫にあたる入鹿(いるか)と続いた蘇我一族に支配されておりました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る