30話 富岡八幡例大祭②
その日、衛は七時頃に起きて朝食を作りはじめた。すでに外はがやがやと騒がしく、笛の音が聞こえる。
「まったく、若い衆は五時に担ぎに行ってるのに情けないねぇ……」
「ミユキさん、俺もうそんなに若くないですよ」
トーストを焼きながら、衛は澄まして答えた。朝食を食べて少し食休みをしたら瑞葉を連れて御神輿の行列には加わるつもりだ。
「別名、水かけ祭りって面白いですよね」
「元々、お清めの水をかけたのがはじまりなんだよ。今は派手にかけるからね、覚悟しておいでよ」
ミユキはにやにや笑いながら、衛にそう言った。それから起きてきた瑞葉と朝食を取り、祭り装束に着替える。
「鉢巻きって気合いが入りますね」
「だったら普段からしてたらどうだい」
きゅっと縛った鉢巻きが頭を締め付けて、ちょっと心地良い。これをしていないと目に水が入るのでちゃんとしておけとミユキが締めてくれた。
「あれ、あれれ」
「なんだい、地下足袋も履けないのかい」
衛は地下足袋の小鉤の止め方が分からず、混乱した。ミユキは呆れたような顔をしてこれも止めてくれた。
「……すいません」
「あら、決まってるじゃないですか」
「下町の人っぽいですよ」
なんとか格好をつけると、藍と翡翠は現れて法被姿を褒めてくれた。
「パパ、瑞葉とおそろいだね」
瑞葉も祭り装束に着替えて、衛の横に並んだ。
「それじゃあ、行ってきます」
「はいよ、あとからあたしも行くからね」
「留守番は任せてください」
それぞれの送り出しの声を受けて、衛と瑞葉は家を出た。プラプラと永代通りをさかのぼって行く。
「うちの町内はたしか十二番目だよな……」
この
「まだ、4番目か、しばらくこないな」
祭り囃子とわっしょい、わっしょいと威勢の良いかけ声が響く。
「わぁ、パパあれ見て」
瑞葉が指さしたのは手古舞の一団だ。御輿の先導として錫杖を引き摺っている。揃いの桃色の法被を着た、十代前半くらいの女の子達だ。シャリリリ……シャン、と涼しげな錫杖の音が鳴り響く。
「瑞葉もあれやりたい」
「そうか、もうちょっと大きくなったらな」
祭りの熱狂に響くのは、かけ声だけではない。別の町御輿では木遣りを歌っていたし、様々だ。
通りはカメラや携帯を構えた見物客がごった返している。衛と瑞葉はしばらくそれを眺めていた。
「衛、まだこんな所にいたのかい」
「ああ、ミユキさん。つい見とれちゃって」
振り返ると、普段着に法被だけをはおったミユキが立っていた。
「ほらほら、うちの町内が見えてきたよ」
「あ、本当だ。瑞葉、行くぞ」
「はーい」
衛は町内御輿の最後尾に並んで、瑞葉を肩車する。
「どうだ、見えるか」
「わぁ高いー。うん、御神輿見えるよ! おっきいね」
日の光を浴びてキラキラと輝く御輿は水滴をまき散らしている。
「立派なもんだ……」
衛が感嘆の声をもらしかけたその時、突然大量の水が二人を襲った。
「うばぁああああ!」
「つめたーい!」
すると通りでゴミバケツに水を貯めて洗面器で担ぎ手に水をかけている人がいる。
「わーっしょい!」
満面の笑顔をみると悪気は無いみたいだ。
「瑞葉、降りようか」
「うん」
衛は瑞葉を肩から降ろして、歩きはじめた。濡れた法被が肌に張り付く。
「濡れちゃったなぁ」
「でもこういうお祭りなんでしょう?」
「ああ、そうみたいだな」
衛はそう答えた瞬間、ザアッっと細かい水滴が振ってくる。
「お、雨?」
そんな訳はない。天気は青天、衛と瑞葉の上にはその直後、大量の水が降り注いだ。
「あばっ、あばばばば……」
法被などと言わず、下着までぐっしょりと濡れた。振り返るとそこには放水車が止まっていた。
「嘘だろう!?」
ここまでやるのか、と衛と瑞葉が呆然としていると、町内のおばさんが声をかけて来た。
「『たつ屋』のお婿さん、声でてないよ! ほら、わっしょい!」
「わ、わっしょい!」
「ほりゃさー」
「ほりゃさー」
「えいさー」
「えいさー」
衛がおばさんの言う通り復唱するとおばさんはニッコリと微笑んで、衛の背を押した。
「瑞葉ちゃんは見てるから、ほら担いでおいで!」
「ええええええ!!」
衛はおばさんに押されて御輿の後ろにとりついた。
「わっしょい! わっしょい!」
かけ声に合わせて御輿を担ぐ、つま先がガンガン踏まれて痛い。これは大変だ、と衛が必死になってついていっていると。やがて御輿が静止した。
「それ、もーめ! もーめ!」
「揉め?」
衛が頭に疑問符を浮かべていると、御輿の本体が大きく揺れ出した。
「おおおお!?」
翻弄されている間に再び御輿は静止する。
「さーせ! さーせ!」
今度はそのかけ声に合わせて、御輿が高く差し上げられた。衛の上腕二頭筋が悲鳴を上げる。高く上げた御輿に向かって、リズミカルに水が放水された。
「わっしょい! わっしょい!」
そして再び御輿は前へと進む。衛はそろそろ抜けようと思ったがすぐに押し込められてしまった。そのまま永代橋へと突入する。
「うわわわわ……揺れてる!?」
それは衛の気のせいではなかった。人々の熱狂的な勢いによって、金属とコンクリートの橋がドンドンと揺れているのだ。
「こんな、すごい祭りだって聞いて無いよ!」
衛がようやく御輿から離れられたのは永代橋を越えたあたりだった。ふらふらになりながら瑞葉の元に戻ると、そこにはミユキも合流していた。
「パパ! かっこ良かったよ」
「やるじゃないか、衛。ハナ棒担ぐなんてさ」
「はな……?」
「一番先頭のことだよ。奪い合いだったろ」
ニコニコと笑顔でミユキは衛に言った。衛はそうだったっけ、と首を傾げながらどうも自分の株が上がったようなので良しとしようと考えた。
その時である。
『見つけたぁ……』
衛達の耳に聞いた事のある声が聞こえた。忘れる事はない、ざらざらと耳障りな声。
「……東方朔……?」
衛はすぐにあたりを見渡したが、そこにはただ人混みがあるだけであった。
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