episode3 人間になりたかった少年とその家族

その部屋は、真っ白なタイルに囲まれている。

何処を見ても、白、白、白。

部屋の側面で四面あるうち唯一ガラス張りになっている一面だけが、向かい側に広がるもう一つの部屋の風景を映し出していた。

さながら刑務所のそれのようだ。


僕は、透明な壁の前に置かれた椅子に座り、身じろぎをした。

何回来ても、この部屋だけは落ち着かない。

目が回って気が狂いそうな気がする。


この部屋は、暁病棟の患者との面会のために作られた部屋だ。

僕は今日、面会を断り続けていた家族と顔を合わせる決断をした。

本当は最後まで会うつもりはなかったのだけれど、家族に押し切られ、こうして面会室に出向いたのだ。


その時、キィと小さな音を立てて、ガラスの向こう側の扉が開いた。

僕が顔を上げると、開いた扉の隙間からふわりとした赤毛が覗き、一人の少年が顔を出した。

幼い顔をした彼が誰なのか、僕にはすぐに分かった。

一年越しの再会だ。


少年ははにかむようにして笑い、僕と彼の間にあるガラスの壁に手をついた。


「久しぶり、にいちゃん」


僕はうまく笑うことができず、俯くようにして頷いた。

キャロル。僕の弟。かつて僕のせいで命を失いかけた、僕の罪悪感の源。

キャロルの後ろから、母さんと父さんも部屋に入ってきた。

二人とも、何も変わっていない。

母の優しげな笑み、父のえくぼも。

父は後ろ手に扉を閉めて、ガラスの壁を挟んだ向こう側に三人そろって椅子に座った。


「あぁ、わたしの愛しいロゼ」


母さんがホッとしたような顔で言うが、その表情には少しの戸惑いが混ざっている。

当たり前だ。今の僕は、獣。

瞳も鋭く、耳も獣と化している。

人間の「ロゼ」の面影は薄い。


「やっと会えて嬉しいよ、ロゼ。この日をずっと心待ちにしていたんだ」


僕は何も言えないまま、困ったように微笑むしかなかった。

ずっと面会を断っていたのは僕だ。会いたいと言ってくれる家族を拒み続けていた。

覚悟は決まったと思っていたが、実際に会うと、やはり体が動かない。


「元気にしていた? 食事はちゃんと取っているの? 心配してたのよ、ロゼ。ずっと会えなかったから」


母さんがまくしたてるように言葉を並べる。

今までとても気にかけてくれていたのだろう。


でも、それでは駄目なのだ。

僕は軽く息を吸うと、一枚の紙をガラスの壁に押し当てた。

三人の目線が紙に集められた。


『ここには、もう、人間のロゼはいません』


僕がここに来たのは。

家族に会ったのは。

笑顔を見せるためではない。家族久々の団らんを楽しみにきたわけでもない。

――別れを告げに来たのだ。


紙に書かれた文字を読み終わると、三人の顔が曇るのを感じた。

僕はできるだけ気丈に微笑んだ。


僕はもう、奇病の進行のせいで話すことはできない。

僕が彼らに送る、最後の手紙だ。


「どうしてだ……ロゼ。なんでそんなことを言うんだい」


父さんがガラスの壁に手をつけて、僕の顔を覗き込むようにして言った。

ごめん、父さん。傷つけてしまって。


「そうよロゼ、あなたはここにいるじゃない!」


母さんが泣きそうな顔をしている。

ごめん、母さん。いつも僕は、悲しませてばっかりだ。


いい家族だった。

当たり前のように愛してくれた。

温かいご飯が毎日食卓に並んだし、身の回りのものは何もかも清潔だった。


これ以上、何も望むことはなかった家族を壊したのは、僕自身。


この奇病は、その罰だ。


まったく身の丈にあった人生だった。


笑いたくなるくらい。


いい人生だったな。



―――ドンっ!



その時、唐突に目の前のガラスに拳がたたきつけられた。

鈍い音を立てて壁を殴ったのは、――キャロルだった。


僕が驚いて目を見開いていると、キャロルがバッと顔を上げた。

キャロルは、ぼろぼろと涙を流していた。


「っ、勝手におしまいにしないでよ!」


僕はつい息をのんだ。

こんなに大声をあげたキャロルを見るのは初めてだった。

キャロルは叫んだあとも、壁を繰り返し叩いた。


「まだ、僕、何もかもし足りないよ。にいちゃんともっといろいろな話したいよ。いろいろなところに行きたいよ。もっと……にいちゃんと一緒にいたいよ」


その涙は止まることなく、キャロルの頬をつたい、白いタイルに落ちていく。

すると、父さんも立ち上って僕に目線を合わせるようにしてかがんだ。


「ロゼ。ずっと、キャロルが呼吸困難になったことを気にしていたのかい? ずっとずっと、自分のせいだと思っていたのかい? ……ロゼ、辛かったろう、今まで。よく頑張ったね」


父さんの言葉に僕が何も言えなくなると、母さんも同じようにして吹き出すように笑った。

しかし、その笑みは泣き笑いのようだった。


「あなたには分からないでしょうね、ロゼ。わたしが、わたしたちが、

――どれだけあなたを愛しているのか」


顔を上げると、みんな泣いていた。

母さんも、父さんも、キャロルも。

そして――僕も。


「愛してるわ、ロゼ。あなたはいつまでもあなたよ。たとえ形を失っても、意志をなくしても、あなたへの愛が消えることはない」


伝い落ちる滴がきらっと一瞬だけ光り、僕の獣の瞳に映りこむ。

父さんが壁越しに僕の頬を撫でるようにして手を滑らせた。


「ロゼ、お前は父さんの宝物なんだ。自分の命よりも、ずっと大切なんだよ。これがどういうことか分かるかい? 自分よりも大事なんだよ」


訴えるように父さんは言った。

僕は知らずのうちに溢れ出していた自分の涙に、困惑していた。

悲しいのか。

嬉しいのか。

僕は――。


「にいちゃん」


キャロルが無理やり笑みを作って僕を見ていた。


「また一緒に暮らそう。ここで終わりになんてしないでよ。これからも、ずっと……」


そこでキャロルはこらえきれないように下を向いた。

ガラスの壁に、三人の手が触れられている。

この分厚い壁のせいで、直接触れることもままならない。


――ああ、覚悟はとっくに、決めていたはずだったのに。


「っ……」


母さん。

父さん。

キャロル。


「……っぁ……」


声は出ない。

それでも絞り出すようにして、涙を流した。


なんで気づかなかったんだろう、僕は。

こんなにも愛されていたのに。

ひとりよがりに閉じこもって、自分を責め続けて。


僕はガラスの壁に添えられた三人の手に、自分の手のひらを重ねるように当てた。

温度は感じられない。



それでも確かに、それは温かかった。






「また来るからね、ロゼ」


「元気でな」


面会終了の時間がきて、三人は荷物をもって立ち上がった。

僕が頷き、去っていく三人を見つめていると、突然キャロルが「あ!」と声をあげ、僕のもとへ戻ってきた。


「にいちゃん、一つ約束して!」


僕が首を傾げると、キャロルは小指をちょこんと立てて言った。


「次からは、面会断らないでね。絶対に会いに来るから」


僕は少しの間ぽかんとしてから、つい笑みを漏らし、小指を立てて壁越しにキャロルの小指に当てた。


キャロルは嬉しそうに「ゆびきりげんまん!」と笑った。

どうやら僕は、次から面会を断ったら針を千本飲まされてしまうらしい。


。にいちゃん」


キャロルの言葉に、僕は少し間をあけ、頷いた。


キャロル。

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