10号室―黒蝶病
『お前は私たちの子じゃない!』
――父は、わたしを酒瓶投げの的にするのが好きだった。
『なんであなたは、生まれてきたの……』
――母は、わたしに死んでくれと唱えるのが日課だった。
『お前はこれから、ここで暮らすんだ……分かったね』
――まさか、地下牢に閉じ込められるはめになるとは思わなかったけど。
『二度と、出てくるんじゃないよ』
―――――あの人たちの望みなら、それでいいかと思った。
ゆさゆさと体を揺さぶられて、わたしは目を開けた。
最初に目に入ったのは、眩しいばかりに輝く太陽の光。そして次に、雲すら浮かばない青く広い空。
わたしはぼんやりとする頭で状況を整理し、やっとこさ起き上がった。
ここは、暁病棟の屋上。
わたしはそこで、眠ってしまっていたらしい。
そして、さっき聞こえてきた声たちは――。
「まぁた、懐かしい夢を見たもんだ……」
わたしの傍らでは、わたしを揺さぶっていた男が片膝をついてこちらを見ていた。
彼の名前はベン。愛称はベンちゃん(勝手につけた)。
話によると、嘘しか言えない奇病を患っているらしい。
それ故にか彼は筆談をしたがった。
『ジェシカ、こんなところで寝るな』
ベンちゃんの崩し字で書かれたメモを眼前に押し出され、わたしは笑って誤魔化す。
「いや~すまんねベンちゃん。昼寝してたら眠りこけちまったよ」
『爆睡してたぞ』
「今日は日差しもあったかいしねぇ。眠気を誘うってもんよ」
わたしは再びごろんと寝転がり、仰向けになって空を眺める。
相変わらず真っ青。
ここにいると、この星が丸いんだと何となく分かった。
だがしかし。もう一色くらい欲しいところだ。
こんなに視界が青ばかりじゃ飽きてくる。
そこでわたしは、ふと思いついた。
「お前――」
ベンちゃんの切羽詰まった声が聞こえるや否や、わたしはポケットから取り出したカッターの刃で自分の手首を浅く切った。
しかしわたしの手首からは、真っ赤な血ではなく、真っ黒な蝶が顔を出した。
「蝶……!」
ベンちゃんが目を見開くのを横目に傷口を広げると、真っ黒な蝶は数を増し、何十と言う蝶が屋上の空を飛び交い始めた。まるで黒い渦の中にいるようだ。
わたしがその光景に満足してカッターをしまい、傷口からあふれ出る蝶たちを見つめていると、ベンちゃんがわたしの腕をガッと掴んだ。
「……なんだいベンちゃん、これ見るの初めてか」
ベンちゃんの慌てている様子を見るに、そうなのだろう。
わたしはその様子がなんとなく面白くて、ついケラケラと笑いながら自分を指さした。
「これわたしの奇病『傷口から血じゃなくて黒い蝶が出てくる病』。どうだい、綺麗だろ?」
『なんでこんなことを』
ベンちゃんの表情は、怒りに染まっていた。
わたしが手首を切ったことに対する、だろうか。
優しいなぁ、ベンちゃんは。
わたしはおもむろに右目につけてあった眼帯を剥ぎ取った。
すると、ベンちゃんの視線がわたしの右目に吸い込まれる。
当然と言えば当然か。
わたしの右目は、普通とはちょっと違う。
左目の色は、ティファニーブルー。右目の色は、シルキーピンク。
「むかしむかし、あるところに、オッドアイの少女がいました。彼女はとある名家の娘として生まれましたが、彼女の家族は彼女の持つ左右で色の違う瞳を忌み嫌い、差別しました」
わたしは黙りこむベンちゃんを差し置いて、ひとりくるくると踊りながら話し始めた。
それは、悲しい少女のお話。
「彼女は散々いじめられた末に、十歳の時、屋敷の地下に監禁されてしまいました」
――お前のような娘がいるのが、わたしは恥ずかしい。
語りながら、頭の中で父様の声が蘇る。
「でも、彼女は悲しくありませんでした。どんな家族であっても、彼女にとって家族は全てだったから」
――あなたのような子、生まなければよかった!
母様の声が蘇る。
「だから少女は、死のうとしました」
母様が悲しむくらいなら。
父様が苦しむくらいなら。
「しかし、彼女が自分の心臓にナイフを突き立てた、その瞬間。彼女の胸からは、血ではなく、黒い蝶が吹き出しました」
入院着の裏に残る傷跡に手をやる。
あの時、わたしは、死にきれなかった。
わたしは最後にくるりと一回転し、足を交差させて優雅にお辞儀をした。
「彼女は生き延びて、とある病院に保護されました。めでたし、めでたし」
ぱち、ぱち、ぱち。
独りぼっちの拍手が屋上に鳴り響く。
黙りこくるベンちゃんの表情は、怒りから更に歪められて、別の感情になっていた。
それがなんの感情なのか、わたしには分からなかったけれど。
「……わたしを待ってる人は、誰もいない」
それが運よく、生き延びてしまっただけ。
「だから、もうどうでもいいんだ。こんな体」
その時。
急にぐっと体が引き寄せられ、気づけば、わたしはベンちゃんの胸にすっぽりとおさまっていた。
困惑するわたしを、ベンちゃんは無理やり覆うように抱きしめていた。
「べ、ベンちゃん?」
ベンちゃんは何も言わなかった。
ただ、強く、強く、抱きしめられた。
「なんで……」
温かい。
温かい。
初めて人に抱きしめられた経験だった。
「なんで……っ」
ふと自分が泣いていることに気が付いた。
涙が頬を伝いだすと、もう止まれなかった。
わたしは、物心ついてから初めて声をあげて泣いた。
悲しくない、はずなのに。
得体のしれない優しさが、笑っていることを許さなかった。
わたしが落ち着いたころに、ベンちゃんはゆっくりと体を離した。
ぐずぐずと鼻をすすっていると一つのメモが差し出される。
そこにはいつもの崩し字でこう書かれていた。
『さっきのはセクハラか?』
わたしはついベンちゃんの顔を見上げた。
ベンちゃんはとても不安そうにわたしを見ていた。
わたしは面白くなって、盛大に噴き出した。
「ぶっは! そうだね! セクハラだよベンちゃん!」
ベンちゃんの顔がサササーっと青くなるのを見て、わたしは更に腹をかかえる。
女を泣かせておいて、今更セクハラかどうかを気にするなんて!
「はぁ……ほんと、最高だね」
そんなわたしの小さな呟きなんか聞こえていなかったようで、ベンちゃんはあたふたと何やら考えている。
少しだけ、彼の奥さんが羨ましかった。
「ベンちゃん」
ベンちゃんが、黒い蝶の群れの向こうからこちらを振り返る。
「ありがとね」
わたしは思いっきり笑って、そう言ってみせた。
ベンちゃんの口元がほんの少しだけ微笑んだように見えた。
―――――
氏名:ジェシカ・アッカーマン
病名:黒蝶病
症状:傷口から、血ではなく小さな黒い蝶が出てきて飛び舞う。傷を負わなければ病気の進行は遅くなると言われている。進行すると、だんだん出てくる蝶の数が増える。
患者について:元はとある名家の娘であったが、生まれ持ったオッドアイと奇病故に卑下され、家族によって長い間屋敷に監禁されていた。育ってきた環境故か自分の事にあまり興味がなく、奇病も危険視していないため、自分の体に傷をつけて遊ぶ悪癖がある。
(月鎖様からのリクエスト)
リクエストは近況ノートからお願いします⇩
https://kakuyomu.jp/users/suisen-sakura/news/1177354054894552342
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