9号室―あべこべ病

勢いよく吐き出した煙が風になびきながら空に上がって行く。

俺は煙草をくわえながら、ぼんやりとその煙を目で追った。


暁病棟は広くロの字型の建物で、中庭を囲むようにして建てられている。その最上階は屋上になっていて、下に螺旋階段も伸びており、中庭に下りることができる。

俺がたった今立っているのも、その屋上だ。


日差しは柔らかくとも、屋上に立つと風が少し冷たい。

入院着が風にたなびき、寒く感じる。


「よぉ、ベンちゃん」


ふと、頭上から声が降ってきた。

屋上の入口の扉の上。そこに彼女は座っていた。


彼女の名前はジェシカ。

十五歳そこらの少女である。

いつも体中に包帯を巻いていて、それが痛々しい。

右目の眼帯が印象的だ。


懐からメモとペンを取り出し、文字を綴ってそれを彼女に向けた。

俺は会話を筆談で済ます。

奇病が原因で、とっくの昔に話すことをやめてしまった。


『その呼び方やめろ』


メモの文字を見ると、ジェシカは悪びれもせずにカカカと独特な笑い声をあげる。

彼女はいつも包帯だらけだが、傷をかばっている様子は少しも見せなかった。


「なーんだよ、嫌なの」


『俺はもう三十路半ばだ。チャン付けされる歳じゃない』


「いいじゃん。可愛くて」


『そういう問題じゃない』


ケチー、と彼女はコンクリートの上に寝そべった。

ケチも何もないと思う。


「それよりさぁ、ベンちゃん、また煙草吸ってんの? 医者に叱られるぜ」


『知ったことか。吸いたいから吸う』


「はぁ~傲慢なこった。寿命縮まっても知らないから」


それこそ知ったことか。

俺がジェシカをじろっと睨みつけるが、ジェシカは既にこちらではなく青空に視線を注いでいた。


「……ベンちゃん、奥さんいるんだって?」


俺は驚きのあまり、くわえていた煙草を噛み切りそうになった。


『何で知ってるんだお前。こわ』


「別にいいじゃんそんなの」


よくねぇ。


「それより聞かせてよ。奥さん、どんな人なん?」


俺はため息をつき、屋上を囲む柵の上に両肘を置いた。

記憶の中で、ふわりとした茶髪と花柄の白いワンピースが揺れた。


「……嫌な奴だよ」


ペンを走らせる前に、自然と口から言葉が漏れ出していた。

焦ったが、止められない。俺は話さないって決めていたのに。

胸の奥に棲む痛みが目を覚まして疼きだす。


「うざくて、面倒くさくて、笑顔も胡散臭いし、うっとうしくて。邪魔だったから、離れられて清々したよ」


苦笑が最後に漏れた。

しかし、それと同時に、頭上からは大きな笑い声が聞こえてきた。

ジェシカだ。


「あっはははははは!」


何がおかしいんだよ。

そう目で問うと、ジェシカは左目の目じりに滲んだ涙を人差し指で拭って、腹をかかえた。


「はーっ、お腹いた……。ベンちゃんさぁ、奇病、『思ってることと反対のことしか言えなくなる病気』だっけ? 罵倒の言葉でのろけられたの、わたし初めて」


くっくっく、と堪えるように笑い続けるジェシカ。

そう。俺の奇病は、思っている事の反対しか言えなくなる病。

だから、いざこざを生まないために口を閉ざしていたのに。


ジェシカは、扉の上から飛び降りて、俺と同じ高さまで下りてきた。


「つまりさぁ、ベンちゃん、奥さんのこと大好きなんだな」


ぐっと喉の奥を詰めた。

長い間その感情から目を反らしていたせいで、改めて言われるとむずがゆい。


『―――あなた、いつまでも、待ってるから。愛してるから』


記憶の中で、泣きながら言う彼女の顔が思い浮かぶ。

病棟の外に残してきた、たった一人の家族。

いつまでも待つと言った彼女。

この奇病のせいで、彼女にもずいぶんと酷いことをたくさん言い、傷つけた。


「……どうせ、奥さん、今でも待っててくれてるんだろ?」


ジェシカの言葉に、俺は頷いた。

少なくとも、月に一回。病棟に彼女からの手紙が送られてくる。

俺がいくら返事を欠かそうとも、手紙だけは絶えなかった。


「ベンちゃんには、待っててくれる人がいるんだからさ。少しは自分の体大事にしろよ」


ジェシカはいつの間にか俺の隣まで歩み寄っていて、俺の口から煙草を奪い、足元に落として踏みつぶした。

灰色になった煙草を見下ろして不満げな俺に、ジェシカはにししと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「奥さんに、いつか、また会いに行くんだろ」


俺は少し目を見開き、ふ、とつられるように笑った。

太陽の光がジェシカの左の瞳に反射して、泣いているように見える。

真っ直ぐな言葉だった。


俺は煙草を諦めて箱をポケットにしまうと、ジェシカに向き直って、その額にデコピンを食らわせた。


「いっだ!」


「ガキが生意気言ってんじゃねぇ。失せろ」


俺が言うと、ジェシカは額を抑えながら少し嬉しそうに笑った。


「それも嘘かい?」


「もう一発くらわせてやろうか」


右手の指を鳴らすと、ジェシカは「わはは!」と俺から逃げていく。

俺は再び空を見上げて、今度は煙の混じらない息を吐いた。


この後、久々に手紙の返事を書こうか。

今はまだ口には出せなくても、ちゃんと彼女に「愛している」と送ろう。

そう思えた。


そして、いつか。

この奇病が治ったら、いつか。


花束と一緒に、愛してるを送るのだ。








――――――



氏名:ベン・エーベルハルト


病名:あべこべ病


症状:思っていることと反対のことしか言えない。無理やり本当のことを言おうとすると、喉が焼けるように痛む。


患者について:普段声を出すことは滅多になく、代わりにメモを持ち歩いてそれで筆談している。ヘビースモーカーで愛妻家。病棟の外に残してきた妻のことをいつでも気にかけている。








(シラシラ様からのリクエスト)


リクエストは近況ノートからお願いします⇩

https://kakuyomu.jp/users/suisen-sakura/news/1177354054894552342

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