episode2 右目を隠す少女と左目を隠す少女

私、ヘレナは、夜の暁病棟の住人だった。

生まれてこの方、四畳半の暗い部屋の中で生きてきた私にとって昼の光と喧騒は眩しすぎて、いつしか昼に眠り、夜に目を覚ますようになった。

夜の病棟は静かだ。私の他にも住人は何人かいるが、誰もが気配を消すようにして生きている。

パパも、もうここにはいない。殴られることも蹴られることもない。

それでもまだ、安心などできやしないが。


その日も私は夕方に目を覚まし、みんなが寝静まるまで時間を潰したあと、真っ暗な病棟に足を踏みだした。

白い床をひたひたと小さく音を立てながら談話コーナーまで歩く。

いつもなら談話コーナーの隅でひとり、ぼーっと過ごすのが日課なのだが、その日は違った。


いつも通り談話コーナーへ足を踏み入れた、その時。

誰もいないはずのそこに人影があった。

差し込む月光が逆光となって黒くくすんで見えるが、その人影の正体はどうやら同い年か年下くらいの少女のようだ。

一つのシルキーピンクの瞳が薄暗い闇の中に覗いている。


少女は私の気配に気が付いたのか、こちらを振り返って「おお」と声をあげた。


「あんたも散歩かい」


話しかけてきた少女に私は不躾に肩をびくつかせてしまう。

人と接するのは、未だ慣れない。

それに、私はなるべく人と接しないほうがいいのだ。

私に触るとみんな燃えてしまうから。


慌てて踵を返して来た道を戻ろうとすると、すぐに「待てって」と呼び止められた。

恐る恐る少女を見ると、彼女は手招きをしていた。


「逃げるこたないじゃないか。そんな怯えなくたって、何もしやしないって」


「……で、でも」


私は戸惑いながらも言った。


「私に触ると、みんな燃えるの。あなたも私に近づかないほうがいい」


すると、少女は一瞬ぽかんとしてから再び笑った。


「へぇ、そういう奇病なのか。わたしなら大丈夫だよ」


「大丈夫って……」


「触らなきゃいいんだろ? それに、ちょうど誰かと話したいと思ってたところなんだ。少し付き合ってくれないかい?」


少女は少し首を傾けて、瞳を三日月のように細めた。

私はつくづく押しに弱い。


私が少しずつ少女に歩み寄っていくと、月光に照らされている彼女の姿が露わになった。

彼女は全身に包帯を巻いていた。なんとも痛々しい姿だが、彼女のふるまいはそんな様子を一片も見せない明るいものだった。

そして何より目を惹くのが、その瞳の色だった。


「……これ、気持ち悪いだろ」


少女がそう言って自分の目元に手を当てた。

少女の瞳は、左右で色が違った。右はティファニーブルー、左はシルキーピンク。

オッドアイという瞳だ。聞いたことがある。

しかし、少女はその瞳を隠すように私から目を反らし、窓の外に顔を向けた。


「あぁ、やっぱりだめだな。久々に眼帯を取って歩いてみたが、隠していないと安心できやしない」


「……自分の目、嫌いなの?」


「嫌い、なのかね。家族が私の目をあまり好かなくて。いつしか隠すようになってたんだ」


少女はまるで吐き捨てるように言った。

その漏れた笑いは、他でもない自分自身に向けた嘲笑に見えた。


私はふいに自分の左目に手を当てた。

眼帯の感触。私の左目は普段から眼帯で隠されている。

自分の目が嫌いだと言う少女の姿が、どことなく自分と重なって見えた。


「私も。私も、私が嫌い」


ぽつりとこぼすようにつぶやくと、少女はこちらを伺うように見た。


「パパは私が嫌いで、私の生意気な目が嫌いで、だから左目を潰したの。もう全部終わって、パパはどこにもいない、けど……」


左目を覆うようにして抑えると、痛みと恐怖が蘇ってくるように頭の奥が痛んだ。

少女は、言葉を止めた私に代わって、頷いた。


「分かるよ。声が聞こえるんだ。お前はだめだ、お前はおかしい、っていう声。きっと一生消えやしない」


まるで、呪いみたいだ――。

少女は言った。

本当にその通り。

記憶は呪いだ。

死ぬまで私たちをむしばみ続ける、呪い。


「これからも、忘れられないのかな」


私が自嘲気味に言うと、少女は私をまっすぐに見て言った。


「忘れられないよ。忘れられるものか。私も、たぶんあんたも、一生この声に振り回されるんだ」


窓から差し込む月明かりが、少女の双眼を照らす。

その美しい瞳は、彼女に植え付けられた辛い記憶を引き出す残酷なトリガーだった。


「……酷な事、言うのね」


「ああ。信じたくもないことだけど、事実だからな」


少女は笑った。

泣き笑いのようにくしゃっと頬を緩める。

その表情は、大人っぽい彼女の話し方とは対照的に、幼い子供のようだった。


「それでも、生きていかなくちゃならないのね」


私は窓から月を見上げる。

夜の病棟に差し込む一筋の淡い光。

太陽とは程遠い冷たい光だが、それでも日陰者の私たちを照らしてくれる。


「ねぇ」


「なんだい」


「……私は、貴女のその目、好きよ。綺麗だもの」


少女の目が見開かれ、月光を反射した。

その輝きは、まるで泣いているように見えた。


「……ありがとう」


こうして少しずつ、この穴を埋めてはいけないだろうか。

元々そこにあるはずだったものの代わりにはなれずとも、埋めることまで叶わないなんて、そんなことはないはずだ。

少しずつ、少しずつでいい。傷が癒えることはなくても、見ないふりをすることくらいは、できるはずだから。


「あんたも、いつか自分のこと、好きになれるといいな」


少女が言う。

私はつられるようにして笑い、頷いた。


「そうね」


いつか、いつか。


普通に生きていける日を願って。

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